宝の山‐讃妙講一座‐

役にたつものを持っていながら利用しないことを「宝の持腐れ」という。正宗の名刀をもっても、それを使う人の腕が、未熟では、それだけの甲斐がない。人間の体ほど強いものはない。心臓は、昼夜をとわず、働きどうしである。一刻もやすまない。五十年~八十年も動き続ける。 

人間より強い機械、精密な機械は、今後も恐らく発明されないだろう。それほど、強い人間でも、また一面きわめて、弱く、もろい一面をもっている。一寸、故障がおこったりすると、すぐ気がめいってしまう。医者や薬にたよりはじめると、全くだらしのないほど弱くなる。どんな名医でも、本人のよくなろうという力がなければ、病を治すことはできない。 

むしろ「名医ほど、その人のもつ生命力を上手に抽出してくれる」しかし病人は、自分の力が病気を治すのだと気付かず、むしろ、医者や薬が治してくれるのだと思いこんでいるのである。自分の生命力が、宝の山だと知らないのは、実にかなしむべき人間の弱さである。人間に生まれながら、仏道修行をわすれて、目先の楽しみに、一生をすごすことは、宝の山に入りながら、手を空しくして、帰るにひとしいと、正法念経にとかれている。 

現世と、来るべき将来、二世にわたって、安心して生を楽しむことのできる方法がある。さらにいうなれば、過ぎ去ったあとの借金返しまでする秘法がある。それが妙講一座という一本にあますことなく説かれている。 

世界中の宝典を一本にすることが可能だとするなら、私は第一に、妙講一座をあげる。これを実行すれば、いたずらに他に宝をもとめる必要がない。もっと深く、妙講一座を身に読むべきである。 

昭和51年2月 乗泉寺通信より


さしがね‐折伏の基準‐

大工用の物指しを『さしがね』という。建築関係の仕事をはじめ、一般に物指しは、角方面で使われる必需品である。 

乗泉寺では、教務員の受持区域は毎年交替であるから、信者にとっては、毎年新しい教務員を先生として信行御奉公させて頂くわけで、従って、同じ事に対しても教務員によって、若干教え方がちがう場合もある。信者にとってはどちらの教えによるべきか、その判断に迷う場合もあるらしいが、大体はその年の教務のやり方に随っているという。 

元来、教務員といえども、凡夫であるから、個人差もあるし、受け方の相違もある。しかし、基本的には、仏の教えを、「さしがね」即ち、定規として指導しているのである。人を見る角度が、それぞれ違いがあるので、その人に対する接し方にも若干の相違があってもやむをえないと思う。 

信者が、相互に折伏する場合にもその人の立場や、考え方のちがいがあって、なかなか、完全に一致することは、まれといってよい。しかし、「折伏の基準」はあくまでも、御教歌とか御指南とかを、頂いて、その土俵の中で話し合って、相互に戒め合い、注意することが肝心である。 

現代は、正に、言論結社や評論の過剰な時代といってよい。実にさまざまな考え方がある。一億総評論家の観を呈しているといってよい。少々、自分の方に弱点があっても、俺の方が正しいぞと言い張る人が多いので全く、困ったものだ。 

それだけ、争いごとや、議論ごとが多くて、実に煩わしいことが多い。こんな時代であるからこそ、仏の教えを、『さしがね』とし、『折伏の基準』とすることが大切であろう。私情や我見では、相互の折伏などは、とてもうまくいくものではない。烏滸(おこ)のさたである。 

昭和47年2月 乗泉寺通信より


油断大敵

注意を怠り、気をゆるすことを油断という。油断の対象によっては、生命を失うことにもなる。今度は注意しようと自省して、却って好結果を招く場合もある。だから油断大敵ということの背景には、いろいろの問題がある。 

封建時代の武士が、相手を軽視したり、油断をしていると『たとひ鉄の甲冑を着、鉄杖乱力の剣を帯びたりとも油断をして、いねむり寝る大敵をば、如何なる童も是をほろぼすといへり』と可笑記にのべてある如く、子供にも容易に、敵を打亡ぼすことができる。 

生れ落ちて以来、医者の世話になったことなしと豪語する頑健なものでも、過信することは危険である。暴飲暴食すると、内蔵に過重な負担が、加わるので、突然、生命を失うことになりかねぬ。これは正しく、健康管理に注意を怠る油断である。無常にたいする認識が足りないことを思いしるべきであろう。 

涅槃経には、次のような話がある。王様がある家来に、油の一杯入れてある鉢を持ってこいと命令しました。その時、抜刀した男を後から随行させ、もし一滴でも、こぼしたら、即座に命を断つべしと厳命したのです。こういう状況におかれたら、どんな人でも心を最高度に緊張させ、油断をしないでしょう。油をこぼすことは、即座に、命を断つことに通じているからです。ところが、普段、われわれのおかれている状況は、そんな張りつめた非常な環境ではないので、つい油断したり、怠ったりしてしまう。 

然し、実際は、何時臨終とわかっていないのであるから、本質的には涅槃経に説かれた如く、油を持った男がわれわれであり、そのうしろには、抜刀して、一滴ををも見のがさじと看視している男があるのと同じだと思い知るべきでしょう。 

御教歌      何どきが しれぬもの故 信行の    人が油断を せぬもよき哉 

昭和47年4月 乗泉寺通信より


創造と言うこと

ご弘通の方針をたてるときに、その立案の責任者は、いろいろと苦心をいたします。どういう方法が、よりよい成果をあげうるか、妙策はないものかと、度々、会議を召集して、みんなの意見をきくようになります。 

最近は、その問題とは、全く関わりのない外部の方々に、自由な立場から考えてもらう、シンクタンク制(考える集団)を取り入れる会社や、研究機関が増えているようです。激しい競争に生きぬくためには、一歩でも、他社より進んだ新しい方針を、打ちだそうと真剣に取り組んでいるわけです。 

弘通の問題もまた、同様に、シンクタンク制を採用して、思い切った、新しい方法、創造的な方法を発見しようと、当局の人も、考えていられる。当然、その活動のために相当な費用がなくてはなりません。この経済的な裏付けが、どう調達されるかによって、シンクタンク制の採用も影響されるでしょう。 

物質科学の発展によって、新しい物質が創造されることは、相当、各方面で試みられているが、人間の生存をおびやかすようなものは、いくら創造されても意味がありませんから、やがて、その方向は、異質なものを承認しないという人類の英知によって自然陶汰されるでしょう。 

ここで問題にしたいのは、精神的な面の創造は、果たしてありうるのだろうかということです。創造的こと、新しいことだと、自己満足する前に、先輩の行績をよく研究すると、どこかに、先輩のあゆんだ道の中にヒントがある場合が多いのです。 

殊に仏の悟りの結晶たる妙法は、万法具足の大法であります。その妙法の中に、時代に即応した弘通方法も内包されているのです。信は道の源ともいわれているのですから、妙法の中に弘通の道、ありとするなら、信こそ、創造の鍵ともいえるのではあるまいか。

昭和48年2月 乗泉寺通信より


教育と教化

新芽の画像難しい哲学的解釈は専門の先生に聞くことにして頂いて、ごく通俗的に教育とは、人を教えて知識を開くことといってよいでしょう。英語では〝Education〟という語が、それに相当しています。序でにいうと、この語は、〝Educe〟という語とも密接な関係があります。〝Educe〟(潜在するもの)引き出す。という意味です。

元来、教育ということは、ソクラテスの用いた弁証術(これを産婆術という)をまつまでもなく、内在しているものに、刺戟を与えて、これを善導し、展開していくことと、広義に解釈してよろしいでしょう。次に教化とは、普通の字引には説法教導して衆生を善導に向かわせること(広辞苑)と述べてある。 

さらに、仏立宗の立場からいうと、われわれ衆生の心の内に内在している仏性を引き出す方法を教えて、即身成仏の利益を頂かせることといってよいでしょう。ですから教化というこよは、別の言葉でいうと、われわれ凡夫の仏性と、久遠の本仏の仏性と同質であることを教え、その仏性が妙法であることを教えるのです。 

このように、教育と教化ということを比較してみると、両者に共通していることは

○教育も、教化も、広義においては、内在しているものを、引き出す作用をもつものであるという点が一致しています。が、くわしくいうと教育の方は、知識を与えて、能力を引き出すことであり、教化の方は本仏仏性を心田に植えて、それを育てて行くことですから、教学的には大変な違いがあります。

 ですから、一言でも、妙法の信心を教えることは、一本の苗を植えることになるのですから、なるべく数多く、度々、教えて、苗を沢山植えて下さい。やがて、それらが実って、立派な教化育成が、できて完全教化となるのです。 

昭和49年12月 乗泉寺通信より


お助行をうける功徳

毎年受持講師として、御奉公方針をもべるが、その中の一つに全信者宅をお助行をしたいので、是非、一年に一度は、助行をうけて下さいとお願いすることにしている。 

役中や、お講願主はお助行をうけてくれるが、全信者の助行を完徹することがいまだかつて実現したことがない。これを大変残念に思っている。お勤めのために、教務員の希望する日時に都合がつかないというのが表面の理由である。けれど、受持教務員と、うける側に、やる意志がうまれたら、万障をくりあわせて実行することができるはずである。言うは易く、行うは難しというのは、全く助行についても言い得ることだ。 

それにもう一つ考えられることは、助行をうけるこたが大変な功徳になることを知らないので、積極的にうける努力をしないのではあるまいか。

勿論、助行にでかける方の功徳は、いうまでもない。と同時に、助行をうける側でも、それにまさるとも劣らぬ功徳になるのである。茶菓の接待や車代を全く必要としないので、ただお助行の道場として、ともに唱題に励み、信心増進を祈願していただくのみで、大きな功徳となるのである。 

日常、朝夕にお看経のできている家庭でも、第三者の助行をうけることにより、さらに、家運隆昌の祈願をして頂き、家内一同の信心増進を願うのであるから、家の中に一層あかるい、和らかな光輝るムードが一杯にあふれるのである。 

ともすれば、孤立化して、他とのまじわりあいに煩わされたくないという現代人の傾向に伝染しやすい。それが自然、お助行を拒否するという形になってきて、ひとり信心となり謗法の入るすきまをつくり出す結果となる。 

お互いに用心して、一年に一回は受持教務員の助行をうけて欲しい。 

昭和47年9月 乗泉寺通信より


果して夢のもてない社会か

溢れるばかりの若さに夢をのせて、たくましく前進しなければならぬ年代の人々の中に、ひねた、こまっちゃくれた若老人をみるのは実に淋しい。よくいえば、現実的な、しっかり者といわれるかもしれないが、どう考えても大成する器とはいえない。 

上役が一杯つかえていて何らの縁故も背景もない一サラリーマンには将来がなく、ただ食べてさえいれば上々なのだという。余りにも厳しい現実の社会が、これらの若人に夢をもたせないのである。その裏付けがなさすぎるのである。 

それも一つの実際の世間相であろう。然し、見方によればこの世の中は仏の慈愛がいたる所に満ちみちているのである。絶対の背景、うしろだてがある。手ずるがある。それを掴めばきっと夢が実現される。 

どんなに薄徳な不仕合せのものにも、無限の救済力を発揮する絶対の力がある。この一筋さえ貫けば、コネのない一介の若人にも、無限のみちが開かれる。日蓮聖人が生涯を堵して弘通された、本門八品の上行所伝の題目への信仰が、それである。この世の中には、若人の夢を否、すべての人の願いを実現させうる絶対の『唯有一乗法』が厳存しているのです。ただ多くの人々は、その方法を知らないで、失望しているにすぎない。 

その人が薄幸であれば、あるほど偉大な救済力が発揮され、仏の慈愛は強大となる。そんなすばらしい道がある。それが法華経本門八品の題目に具っていると、日蓮聖人が教示された。いくらでも夢をもち、それを実現させる方法があるとすれば、それを活用しないという手はない。私どもの日常生活の中から上手に夢を見つけだして、それを一つ一つ実現させて行こうではないか。 

昭和34年1月 乗泉寺通信より


朝参詣のすすめ

体でおぼえたことは、一生忘れる事はありません。頭でわかっても、まだ本物ではありません。タタミの上で理論上の水泳をやっても、実際、水の中で、おぼえた人にはかなわぬのと同じです。朝参詣の楽しさを、是非覚えて下さい。まず、実行です。 

①朝参詣の実行をするためには、いろいろと工夫がいります。一日24時間、平等に与えられているので、その中から、朝参詣の時間を工夫して産みだす。これは、相当、頭を働かせないと、その工夫の第一は、朝起きをどうするかということです。これは自分との戦いです。人と争うよりも、自分に打ち克つ楽しさは知る人ぞ知るという境地です。 

②朝起きして、お寺参詣ができたら、天下を取ったように、爽快な気分になれます。また、それだけの時間を、ご法様に、ささげたことになるのです。

③第三者の耳目にふれることだけで、大きな折伏の御奉公となります。皮肉をいったり、軽視する人があったら、よい結縁です。

④お寺では、沢山の方がたがお題目を唱えています。体全部でその妙法口唱の音声をうけとめて、沢山の御題目を唱えたと同様の相乗の効果があらわれるものです。一人で、家の中で、コッソリ唱えるよりも、何百万倍もの功徳が頂けます。

⑤当然、ご法門を聴聞させて頂けるのですから、これ又、大きな徳です。

⑥その日、一日中、気分がよろしい。愉快です。やることにも自信がわいてきます。

⑦どんな場合でも、諸天善神が身にそって、はなれず御守護下さるのです。

ともかく、朝参詣は、開運出世の第一の法です。体験して下さい。

昭和52年10月発行 「乗泉寺通信」より


杖木瓦石

法華経の不軽菩薩品に出てくる有名な一句に、杖木瓦石という言葉があります。申すまでもなく、不軽菩薩が合掌礼拝して、あなた方も菩薩行をなされば一人残らず成仏できますぞと、話しかけられたら、人々は不軽菩薩を愚者とあなどって、杖で打ちかかったり、瓦や石を投げつけたことは、余りにも有名な話で、ご信者なら大体はご存知のことでしょう。

不軽菩薩であったからこそ、そういう場合でも避走遠住といって、その投石の難を避けて遠くへ走り去り、しかも一層、心を込めた合掌礼拝行に専念できたのです。私共がもし、不軽菩薩の様な迫害を蒙ったら、とても避走遠住どころか、大喧嘩となるにちがいありません。あるいは逆に杖を奪って、向かってくる相手をたたきのめす結果となるかもしれません。

幸いにも現代の我々には、杖木瓦石の難を受けるようなことは、殆どありません。しかし言葉の上のやりとりは、昔よりも遙かに複雑な社会機構となっていますから、言葉の上の杖木瓦石は相当なものがある様です。

世俗の言葉に、”口から先に生まれた”という言葉があります。つまり、屁理屈が達者で、素直に聞いてくれないという意味でしょう。実際に返事に困るような難問を出されると、物質的な杖木瓦石こそ、飛んではこないが、剣を以て胸へ突き立てられるような思いがいたします。

言葉の上の暴力とも言うべき理屈を、どんどん投げつけられたら不軽菩薩の杖木瓦石と同じ難と考えてよいでしょう。

ともあれ、この杖木瓦石に匹敵する、言葉の上の暴力をうまくかわして、切り抜ける稽古が大事です。この杖木瓦石ー言葉の暴力が、我々をまちうけていることを忘れないでください。

昭和46年発行 「乗泉寺通信」より


ご飯をいただくこころが仏のこころ

お講席でご供養を頂戴するとき、食前偈を唱和する教区があります。

乗泉寺では、
①妙法流布に生きんがために、いまこの食(じき)をいただきます。
または、
②願くは、生々世々、菩薩の道を行じ、無辺の衆生を度して、永く退転なからん事をおもうものなり。
です。

今、口にすることのできるご飯は、つくった農家の方、家までとどけてくれた人、炊いてくれた人、更に米を育んだ太陽の光・空気・水・土地などの天地自然など、数えきれない万象のお陰をこうむって、やっといただけるような状態になったことに気づき、私たちは心から「ありがとうございます」と感謝いたしましょう。

また、世間のお役に立つ妙法流布を成し遂げるために、このご飯をいただきます。という意味がこめられています。

日蓮聖人のご妙判に、
「天の三光に身をあたため地の五穀(ごこく)に神を養うこと、皆是国王の恩なり」(四恩抄)

三光とは日・月・星のこと。五穀とは米・麦・きび・粟・豆のこと。
国の安定は、ひとえに、それをまとめている(統治)国王や政体のお陰です。 

日扇聖人のご教歌に、
塩なめてくらした時を忘るるな 朝からさかなでめしをくふとも

今朝、目がさめたということは、昨日まで食べさせていただいた食物・住ませていただいた家屋・からだを守っていただいた衣料など、どこのどなたかはわかりませんが、これを与えてくださった大勢の人、宇宙万象のお陰をこうむった結果です。

昼も夜もお守り下さるご法様のお陰です。

昭和62年発行 「泉の光」より