戦う相手

新型コロナウイルスは目に見えない敵である。この目に見えない敵は、私達の身体だけでなく心まで蝕み、今までの人間関係をも壊そうとしている。

感染した人、感染の疑いのある人に対してへの偏見。感染の対処の仕方による政府や会社、学校、事業者の人達への不信。その中で活動する人々の不和。ストレスによる家庭内での暴力や喧嘩。

この目に見えない敵は、人と人の間を引き裂いてしまうのだ。

しかしこれまで大切にしてきた関係をウイルスによって簡単に壊されていいものなのか。ウイルスに翻弄され、今までの社会や人々からの恩恵を無にしていいものなのか。

確かにこれからの生活への不安はある。対処法にも疑問が残る。

しかしこの度の感染症はグローバル化が進んだ現代において未曾有のことだ。だから誰も正解が分からない。議論に議論を重ねていくしかない。議論の上に出た答えも、時々刻々と状況が変化する中では変わるのは当然。それでも皆が最善を尽くしているのだ。

人類はこれまで感染症を乗り越えてきた。意見のぶつかりはある。感情的にもなりやすい。

ただ私達が戦う相手は人ではない、コロナウイルスだとの冷静さを失わないことが大切だ。


背負っているもの

ニュースで、ある国で日本の飲食店の真似をしたとの報道がされていました。そこで少し気になったのは、それを指摘した時に某国の対応はどうだったのだろうかとの内容でした。

某国の対応というより、その国の一個人がしたことだと思うので、それを国の責任として報じられていることに少し違和感を覚えました。

こうした個人の問題が全体の責任としても考えられることは、あらゆる団体、グループでもよくあることですが、それを国まで広げてしまうと、変に争いの種を蒔いているようで、行き過ぎのような気もしました。

しかしながら、それが他からの指摘ではなく、一個人の認識としてあるならば、それはそれでよいことだとも思います。国までとは考えられなくても、全体を背負っている責任を少しでも感じていれば、ルールやモラルを簡単には無視できないものだと思うからです。

個人の行動が社会によい影響をあたえ、社会が住みやすくなれば、一個人にも還元されるに違いないはずです。

妙法の信者は、一人一人が妙法を背負っていると感じて、できるだけ妙法の邪魔をせず、妙法のお役に立てるような生き方をしていかなくては、そのように思いました。


のにをやめよう

あんなに世話をしてやったのに

あんなに親切にしてあげたのに

あんなに一所懸命つくしたのに

<のに>が出たときはぐち

こっちの<のに>がつくと、むこうは<恩きせやがって>と思う

花は美しく咲く

人にみせようと思ってさくわけではない

ただひたすらにさく

人がみようがみまいが

人間のように<のに>なんてぐちはひと言もいわない


口コミ

現代に生きる私共の目や耳には、マスコミやインターネット等を通じて世間の様々な情報が入ってまいりますが、一人の人から別の個人に所謂口コミで伝わっていく情報もあります。

その口コミが適正であれば、そこから情報を入手した人にとっては、便利さや快適さ等、物心の両面で得るところは大きなものとなります。 

いつの時代にも、人から人へと伝わっていく言葉には、大きな力があります。お互い私たちは、自分自身がまだ経験していないことでも、他の人の話を聞いて、ああ、そうなのかと、すっかりその気になってしまうこともあります。

中には、いい加減な話を鵜呑みにして、かえって損をしたり、とんでもない被害を被ってしまうするような事例も多々見られます。けれども反対に、誰かから大事なことを教えてもらったために人生のどん底から立ち直ることができたという人も、世の中には決して少なくありません。 

苦しんでいる人、悩んでいる人の救いになるように、また世の中が少しでもよくなるように、いただいた御利益という仏様からの幸せの恵みを恥ずかしからずに話していく、ご信心の口コミにも励んでいきましょう。


育成の大事

人を育てることは決して楽なことではありません。慣れたことなど、自分一人でやった方が全然スムーズに、そして気楽にできます。ですがそのような行為は、次世代の人達のことを見捨ててしまう行為になるのではないでしょうか。

考えてみますと、子どもの時は口うるさく勉強をすすめしつけをする大人を疎ましく思うことがあるものです。しかし自分が大人になってみれば、あの時の教えのお蔭で今があると感謝をすることもあるはずです。

他から育てられてきた我が身の上のことを思えば、次は自分が他の幸せにために、多少の苦労をいとわずに親切丁寧に、時には厳しく指導をすることも大切になってくるでしょう。

ただ教えるだけでなく一緒になって物事にあたり相手のやる気を引き出していく。そのうち相手が少しずつ覚えて、一人で出来るようになった時には自分のこと以上に嬉しさを感じるものです。

将来の教え子の幸せの姿を思って現在の苦労を耐え忍ぶのです。

花がそれぞれの季節で咲く花があるように、私たち人間は十人十色で、早く開花する人がいれば、遅咲きの大器晩成のタイプの方もいるのです。

ご信心においても、いつ相手の信心が起こるかはわからないのですから、いつかは信心が起こると信じて、そして相手の御利益感得を願い、信心に喜びが持てるようになるまで辛抱強く育成させていただくことが大切です。

御教歌
人に物 をしふる時は さもあらで 覚えさせたる あとぞうれしき


One for all, all for one.

ラグビーのワールドカップが開催されています。本日、日本はグループリーグ最大の難敵、アイルランドとの対戦です。日本チームの勝利のためにエールを送りましょう。

One for all, all for one.ラグビーで、よく聞かせていただく有名な言葉です。「一人はみんなのために、みんなは一つの目的(勝利)のために」という意味だそうです。

ラグビーのフィールドプレイヤーは15人で、その15人で様々な戦術でトライを狙い、勝利を目指します。選手の体型は、体格のよい選手もいれば、小柄であったり、長身の方もいます。また選手の能力も、フィジカルが強かったり、足が速い、キックが上手いなどの違いがあるものです。

各々がもっている力を発揮し、一人一人の力を集結させてこそ、一つの勝利という目的が達することができるというのです。私はラグビーをプレイしたことはありませんが、ラグビーの試合を見させていただくだけで、One for all, all for one.の言葉が重みが伝わってきます。

これの言葉の精神は、ラグビーだけでなく、どの集団、組織、地域や国、全世界においても相通じるものがあるのではないでしょうか。

ことわざに「駕籠(かご)に乗る人担(かつ)ぐ人そのまた草鞋(わらじ)を作る人」とあります。

あらゆる人がいてあるゆる世界が構成されているのです。能力に違いはありますが、違いがあるからこそ、この世の中が存在しているといことになります。

だから変に卑屈になることはなく、今の自分にできる生き方をすればいいわけです。ただよい目的をもって生きることが大切ではないでしょうか。

だれだって住みやすい社会になることを望んでいるものです。一人一人の切なる願いもありますが、大きな目的も持ちながら生きていく。そうすれば、人としての命の尊さも感じられ、よりよく生きることができ、必ずやよい社会になるはずです。

ごちゃごちゃいいましが、とにかく日本チームの勝利のために今の自分にできるエールを送りたいと思います。


ルーツ

本日は、敬老の日です。社会のために貢献されてきた先輩方をお敬いし、お祝いをさせていただく日です。

御法門で「知恩報恩」といって恩を知り、恩に報いる大切さを教わります。私達の命というのは、みな一様に、父親や母親がいて生まれてきたのであり、その父も母もそれぞれの両親と繋がっています。

過去からの繋がり中での命ということを知ることで、感謝の気持ちというものが起きてきて、日々の生活も謙虚で明るく前向きなものとなるものです。その心によって、幸せがめぐり廻ってくるものなのです。

普段、私達は、過去からの命の繋がりや恩恵というものをあまり意識しないで生きているものです。それゆえ、現在の境遇ばかりに不足ばかりを感じて、少しのことで心が苛立ち、自らの生活をすさんだものにしている場合が多いものです。

敬老の日にあたり、またお彼岸を迎えるにあたり、お互いの命のルーツを思い起こしてみてはいかがでしょうか。


八月二十五日 日曜総講前座

「悪口が自分にはね返って来た男」

 昔々、インドの国でのお話。長年仏さまのことを憎んでいたアッコーサカ・バーラドヴァージャという人が、ある日、仏さまのお住まいへ伺い、これでもかというほど、一方的に悪口を言って怒鳴りつけました。

 

 仏さまはそれを黙ってお聞きになった後、「ところで、あなたが自分の家にお客様を招待してご馳走をお出ししたが、お客様たちがご馳走を召し上がらなかった場合、そのご馳走は誰のものになるでしょうか。」と尋ねられました。それに対してアッコーサカ・バーラドヴァージャは「それは当然、招待をした家の主人のものになるでしょう。」と答えました。

 

 そこで仏さまは、「さて、今、あなたは私に山ほど悪口を言ってこられましたが、私はその悪口を受け取りません。ですから、お客様が召し上がらなかったご馳走と同じようにあなたが言った悪口は結局あなた自身に返るのです。」と言われ、

○怒りに対して怒り返すのは、さらによくないことだ。
○怒りに対して怒り返さないならば、二つの勝利がある。
○相手が怒っているのを知って、怒ることなく自分自身を静める者は、自分と相手の両方を益する(両方に御利益を与える)からである。

という教えを説かれました。これには、アッコーサカ・バーラドヴァージャも返す言葉が無く、すっかり恐れ入って、仏さまのお弟子になったということです。

開導聖人は御教歌に
世の人にそしらるゝともそれはよし
    われ人をだにそしらざらまし

とお示しです。私たちはとかく、自分のことを悪く言われると、何か言い返してやらなければ、と思ってしまいがちですが、そこで言い返してしまったら、それに対して相手がまた反論をして来て、争いがいつまでも続き、お互いにどんどん悪い種まきをする結果になってしまいます。それよりむしろ、他の人から何を言われても、自分は相手のことを悪く言わないようにすれば、そこで争いも終わり、お互いのために良い結果となるのです。

 ですから、私たちも、たとえ自分のことを悪く言われても、反対に相手のことを悪く言ったりせず、それよりも、他の人の良い所を褒め称え、見習って、一緒に幸せの種まきをしていくように心がけましょう。では、最後にもう一度、御教歌を拝読させていただきます。

御教歌に

世の人にそしらるゝともそれはよし
    われ人をだにそしらざらまし


お助行

お助行とは、読んで字のごとく、修行を助けること。即ちご信心の有難さや仕方が分からない、またお願いごとがあるご信者の修行を助成して、ご信心への意欲を高めることを言うのです。

先月7月17日、私はこのお助行について、30名程のご信者さんの前で解説、講義をさせていただきました。お助行での体験談を思い返しつつ、事前に渡されたテキストや他の解説書を見て勉強をし当日の講義に臨みましたが、改めてお助行の尊さに気づかされました。

近年の社会情勢を見ておりましても、他人がどうなろうが関係ない、自分さえ良ければいいという風潮がより強くなっています。毎日、新聞やテレビで報道される事件や事故は、自己中心的な出来事ばかりです。

そんな中、私ども佛立信者は他者の幸せの為に、自分の時間やお金、労力を厭わず、お助行に伺い、一緒になって御題目を唱えさせていただけるとは何と尊いことでしょうか。

今、日本社会が忘れつつある他者を思いやる心、親切心、慈悲心が、お助行の中にあることを感じました。お助行を通じて人が喜び、幸せになっていく様子を見ますと、何とも言えない充実感で満たされます。

仕事や家事、育児など、やらなければならない事が山積みで人のことなど構ってはいられないと思うかもしれませんが、そういう方こそ、一度お助行に行ってみてはどうでしょうか。日常では味わうことの出来ない感激や感動があなたを待っていることでしょう。


その原因は

新聞やテレビを見てみますと、殺人事件や詐欺や虐待、芸能人や政治家の不祥事、国同士の対立など、連日さまざまな事件が連日、報道されております。

このようなさまざまな事件は一見それぞれ違った原因があるように見えますが、その根本にあるものは私どもの貪欲という心に原因となっている場合が多いものです。

私たち人間は欲がなければ生きていくことも、向上することもできませんが、欲を必要以上に貪ってしまうという所があるのです。お金や物を必要以上に追い求め、自分の名誉心を必要以上に押し通してしまう。法律や道徳の上、間違いをしているのではないかと思いながらも貪欲の心が抑えられずに問題を作ってしまうのです。 

それは昔から現在にいたるまで、同じような事件が繰り返され、それも学歴や才能や常識がある人さえも問題を起こしていることからも分かる所です。

私たちは、どうしても時代や政治、他の人に原因を求めるものですが、実は、一人一人の貪欲が身近な問題、さらには社会問題を引き起こしているといっても過言ではないのです。

仏様は小欲知足という生き方のみ教えをお残しくだされました。その生き方を実践する方法は、今の時代においては信心の力を強くしていくことだと教わる所です。

貪欲に振り回されず、毎日を平穏無事な生活に、そし社会全体をよくていくためにも、お互いに日々の信心修行を大切に考えていきたいものです。

 


よく聴く

世間で流れる流行歌、ハヤリの歌は、テレビやラジオから繰り返し聞こえて参ります。何となしに聞いていましても、自然と耳に入り、知らずのうちにメロディーを憶えてしまうものです。

それでも、いざ歌うとなりますと、何となく聞いているだけでは、歌詞も分からず、上手く歌うことはできません。カラオケの発表会などで、人前で歌うとなりますと、CDを買って繰り返し聞き、また歌詞カードを見ながら聞いて、憶えようとするものです。

さらに、一流のプロともなりますと、たとえ人が歌ったカバー曲でも、その歌詞の奥にある人の情念や、時代背景なども勉強して、歌う場にのぞむというのです。

このように、ただ聞いているだけと、目的を持って真剣に聞くということでは、大きな違いがありまして、ご法門聴聞でも、ご法門の場に参ること自体、功徳を積むことができますが、それ以上に、自らの信心改良、他の人にご信心をお勧めしようとしての聴聞は、大きな功徳を積ませていただけるのでございます。

御教歌

何となくうかと心にきくものゝ しらず仏の種をうゑけり

 


知ってるつもり!?

テレビのクイズ番組で「小学○年生の問題です」「中学○年生の問題です」と言われるような設問に、大人の私たちが正しく答えられないような場合もあります。そのような時には、自分は今まで学校で習いわかったつもりでいたことを、本当はよく理解していなかったのだと、痛感させられるものです。

さて、ご信心のうえで、これと似たようなことは無いでしょうか。仏様は私たちのことを何もかもお見通しですよ、と教えられても、平気で御宝前(仏前)にご無礼を働いてしまう。ご信者さん同士は仲良くしなければいけませんよ、と教えられても、悪口や陰口を言ってしまう。他の人にご信心をお勧めしたら自分も必ず幸せになれますよ、と教えられても、勧めようとしない。このような状態では、一応本門佛立宗にはこのような教えがあるのだという知識を持ってはいても、それが真実の教えなのだということを、本当にわかっているとは言えないでしょう。

何事においても、自分は何でもわかっている、もう他人から何も聞く必要は無い、と驕り高ぶる思いが起きたなら、そこから先へ進歩していくことは難しくなってしまうでしょう。他の人が一回でできることなら、自分は十回やってみる、何回でも他人に聞いて、何回でも実践してみよう、というくらいの心がけが必要です。

あのイチロー選手は、現役を引退した後も、自分のバッティングはまだ完成されていないと言って、素振りを続けておられるそうです。あれほどの大記録を残してもなお、さらに高い次元のものを求めようとする姿勢は、私たちも見習っていかなければなりません。

本門佛立宗では、お寺や御講席の御法門で、仏様の御教えを伺うことが出来ます。お互いに、ご信心のことは何でもわかっている、という思いは捨てて、自分は何か心得違いをしていないだろうか、仏様の御心に沿っていないようなところはないだろうか、という謙虚な思いを忘れず、一度でも多く御法門を聞いて、聞いた教えの通りに実践していくよう心がけ、御利益を頂けるよう、改良を重ねてゆきましょう。

※乗泉寺(渋谷)では、今月31日まで、夏期参詣という夏のご修行期間です。毎日朝と夕方に御法門が説かれ、午前8時半から午後8時までは、本堂後方の「御法門聴聞室」で御法門のビデオを見ることができます。是非、お寺へいらしてご信心の教えを伺ってみてください。


Gohomon words

34. world of heavenly beings

   When we get married, pass an entrance exam or make money, we feel happy (souls of heavenly beings). But we will fall in the six agonizing worlds by losing the merits. For example, there is a possibility that we’ll get involved in a criminal case due to such money. On the other hand, thanks to merits accumulated through chanting, we can ensure any protections of the guardian kings of heaven as well as the Buddha in the past, present and future lives.

   結婚、入学試験の合格、或いは商売が上手く行けば、私達は喜びを感じます(天上界の心)。しかし、その徳がなくなれば、苦しみの多い六道の世界に転落する事になります。例えば、商売で儲けたお金が原因で、事件に巻き込まれる場合もあります。これに対し、口唱信行の功徳により、私達は三世に亘って仏さま、諸天善神の御守護をいただく事が出来ます。

*1. world of heavenly beings: 天上界 


Gohomon words

33. world of pretas

   All of us have souls of pretas, the second lowest among the ten worlds. Making fortunes, we aren’t satisfied with them. On the contrary, we will increasingly want goods and money, resulting in signing our own death warrants. However, it’s possible to minimize such greed causing sufferings and troubles by chanting the Odaimoku.

   私達には餓鬼の心(十界の中で下から二番目の心)があります。たとえ財産を築き上げても、私達はそれで満足する事はありません。それどころか更に物やお金を追い求め、最後には自身の首を絞める結果となります。ところが、御題目をお唱えすれば、苦しみの元である欲心を抑える事が出来るのです。

*1. world of pretas: 餓鬼界


罪障というもの

私たち人間は、自分の行いに対する結果を期待するもので、これだけやったのだからこれだけ報われるだろう、と期待をしてしまうものです。

しかしそこで報われなかったり、悪いことをしていないのに辛い目にあうと、どうしてこんな目にあうのか、理不尽だと感じてしまいます。

ですがそこで世の中を恨んでふて腐れたり、他の人に八つ当たりをしても環境は悪くなるばかりです。そこで自分の力不足も原因であると反省して、改良することが大切です。

仏様は因果の道理を説かれており、どんな理不尽なことも原因があると仰せです。それは過去世からの自身の罪障です。過去世のことなど知らないと思うかもしれません。しかしここで自暴自棄になってはさらに未来へ向かって罪障を積み重ねてしまいます。

人生波の連続で、思いもよらぬ災難に出会います。しかし困難にあったときに他を恨まず、自分の罪障が顕れた、これは過去の罪障を消滅する機会と心得て、逆境に立ち向かいましょう。