戦う相手

新型コロナウイルスは目に見えない敵である。この目に見えない敵は、私達の身体だけでなく心まで蝕み、今までの人間関係をも壊そうとしている。

感染した人、感染の疑いのある人に対してへの偏見。感染の対処の仕方による政府や会社、学校、事業者の人達への不信。その中で活動する人々の不和。ストレスによる家庭内での暴力や喧嘩。

この目に見えない敵は、人と人の間を引き裂いてしまうのだ。

しかしこれまで大切にしてきた関係をウイルスによって簡単に壊されていいものなのか。ウイルスに翻弄され、今までの社会や人々からの恩恵を無にしていいものなのか。

確かにこれからの生活への不安はある。対処法にも疑問が残る。

しかしこの度の感染症はグローバル化が進んだ現代において未曾有のことだ。だから誰も正解が分からない。議論に議論を重ねていくしかない。議論の上に出た答えも、時々刻々と状況が変化する中では変わるのは当然。それでも皆が最善を尽くしているのだ。

人類はこれまで感染症を乗り越えてきた。意見のぶつかりはある。感情的にもなりやすい。

ただ私達が戦う相手は人ではない、コロナウイルスだとの冷静さを失わないことが大切だ。


新年の御奉公風景

一日、元旦会、世田谷別院初御看経
二日、信廣会祝杯式、信廣総会
三日、初総講祝杯式、教講初顔合わせ

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社会の平和を目指して

廃墟と化した街
ちょっと前のことになりますが、北朝鮮がミサイルを発射して、日本中が騒然となりました。宇宙に飛ばせば人工衛星ロケット、他国に向けると長距離弾道ミサイル。どんなにすぐれた発明品も、それをあつかう人間が悪用すれば、人を傷つけるモノになってしまいます。

 

文明と人間とは互いに切っても切れない関係にあるのですから、世も人も共に良い方へと変わってこそ、笑顔の絶えない社会が実現して、心からおめでたいといえるのです。

仏様は、社会ということについて、こんなふうに仰っています。

「幾千万の人が住んでいても、互いに知り合うことがなければ、社会ではない。社会とは、そこにまことの智慧が輝いて、互いに知り合い信じあって、和合する団体のことである。まことに、和合が社会や団体の生命であり、また真の意味である。」

いかがでしょう。正しい社会をつくるには、真の智慧が輝いて、その光を浴びて心を一つにしなくてはいけないのです。

地球私達が住んでいる地球も、太陽という光がなかったら、ただの暗闇にすぎません。光のハタラキによって地上に色彩がもたらされるように、仏様はわれわれ人間に光をあてて心に色彩を与えて下さいました。

その光こそが仏法なのです。そして仏法の中でも法華経の教えこそ、人々の心を隅々まで明らかにする、この上ない尊い光なのです。

桜と光妙法の光に照らされて、私達は初めて己の姿を見ることができるのであり、また、社会に生きる他者の存在を知ることができるのです。妙法の光が届かなければ心は暗闇のままで、お互いの存在を認め合ったり、手を取り合って、喜びを分かち合うこともできず、虚しくひとりぼっちのままなのです。

お祖師様は「天晴れぬれば地明らかなり。法華を知るものは世法を得べきか。」と仰せで、法華経御題目の光によって、この世を明るく住みよくしていかなければならないとお教え下されています。

お互いがいただく御題目様には、人々の心の凹凸を平らにして、和合させるお力が備わっています。その大慈大悲を世の中にも弘めて、お互いによく知り合い、信じあって、助け合うことができる、そんな正法興隆の世にしていかなければいけないと思います。

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「お酒と信心」

お酒私は1日30分のお看経をすると決めています。歓送迎会の多い4、5月。酔った状態でお看経は御宝前に失礼になるのでは…。どうするべきでしょうか?

①飲み過ぎレベル低(さわやかな気分)
「今日くらい良いんじゃない」という心に負けず、御宝前とお約束したことはしっかり守りましょう。

②飲み過ぎレベル中(ほろ酔い気分)
「やればできる」心の中では出来ることが分かっていても、実際に行動に移さなければそれだけのことです。

 

③飲み過ぎレベル高(飲みすぎ)
「あー飲み過ぎたー」まずは御宝前に無事帰宅のお礼のご挨拶をし、コップ一杯のお供水をいただきましょう。御本尊を見つめられ、ろれつが回るならば、お看経に気張りましょう。

④飲み過ぎレベル激(ひどく酔う)
お看経どころではないという人は、早く寝ましょう。朝一番に起きて、お懺悔のお看経をしましょう。

もし、深夜になっていたら
たとえ深夜になっていても、その日のお看経はその日の寝る前に出来る限り頑張りましょう。

もし、予定が決まっていたら
事前に予定がわかっていれば、その日は早起きするなど、なんとかしてお看経できるように生活の改善をしましょう。

●飲み過ぎに注意!
自分の身体を養生することも立派な御奉公です。人に迷惑をかけないように十分を気をつけましょう。

●お酒との付き合い方
お酒で失敗してから学ぶこともあります。また、コミュニケーションも大事ですから、ほどほどが一番。

そもそも仏教では5つの基本的な戒律、「五戒」があります。「戒」というのは、自分から進んで守ること、「律」とは集団のルールのことです。当時、出家者は戒律を強制的に受けなければ、出家の資格を与えらえませんでした。

その五戒の1つにお酒は飲んではいけない、「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」とあります。暑い環境のインドでは、お酒を飲むと修行の妨げになることで戒めていました。戒律を忠実に守ろうとすれば、特定の人には容易ですが、一般の人には難しく、仏の道を歩むことが出来ません。

末法は戒律がないということで、「末法無戒」であるから大丈夫、やりたい放題ということではありません。私たちの戒めはただ一つ。それは御題目を持つこと、ご信心を持つことなのですから、毎日の御題目口唱をより真剣に努めましょう。

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