大切な友人をお教化

私は祖母の代から数えて3代目の信者です。3年程前から乗泉寺の青年会に所属し御奉公させて頂いております。私の母は今までに何十人もの方をお教化させて頂いている大変熱心な信者です。私も小さい頃から母に連れられお寺参詣をしていました。 

仕事は、10年以上看護師として病院勤務をしており、現在は手術室へ配属されております。看護学生の頃から日々勉強に追われて、常に生死と隣合わせでいることは、肉体的には勿論、精神的にも決して楽なものではありませんでした。 

それに加えて大変せわしない毎日ですから、休日ともなれば、身体を休める為に昼過ぎまで寝てしまうなど、ご信心から離れた期間もありました。そんな私が乗泉寺の青年会に所属し、お寺参詣に励むようになったのは、妹に「乗泉寺の青年会は楽しいからおいで!」と声を掛けて貰ったことがきっかけでした。 

丁度その頃は別の病院へ職場を変えた時でもあり、30歳を目前にして、心機一転するには良い時期でしたし、良い加減きちんとご信心と向き合わなくてはいけないと感じていましたので、何の迷いもなく乗泉寺の青年会に所属することを決めました。 

青年会に所属してすぐの時は、戸惑いが多く「いかに今まで自分がご信心から離れていたのか」と反省もしましたが、青年会やあゆみ会の方々が親切に色々なことを教えて下さり、次第にもっとお寺のことをきちんとしなくてはと私なりにですがお寺参詣や御法門聴聞、朝と晩の御看経を頑張らせて頂いてました。 

そんな中、昨年お教化させて頂いたKさんとお寺のことをお話しする機会が生まれました。Kさんは以前勤めていた同じ職場の先輩で、慣れない私に親切で的確に指導してくれましたが、数年前に他の病院へ転職していました。職場が変わり、しばらくは会う機会も減っていましたが、ふとKさんに悩みを聞いて欲しくて一緒に夕食を食べることになった時でした。 

その日は丁度、青年会のお講でした。お講へ御参詣した後にKさんと会い、彼女から「今日は何をしていたの?」と聞かれました。いつもならお寺のことは、ちょっと恥ずかしいので友人などに話さないようにしていたのですが、その時は全く恥ずかしいと思わず、不思議と彼女なら聞いてくれるのではないかと思い、青年会のお講のことやその日の御法門の内容を話しました。 

その時の御法門が、御回向についてでした。彼女は大変興味をもってくれ「私もお寺へ行きたい」と言ってくれました。勿論今もですが、私の友人や知人にお寺のこと、ご信心のことを正確に説明する自信はありません。 

ですが、折角彼女からお寺参詣をしたいと希望してくれたので、この機会を大切なものにしたいと思い、母にも協力を願い、彼女の自宅からも近い八王子の清流寺へ母とKさんでお寺参詣をして貰い、その後すぐに乗泉寺へ参詣を致しました。 

Kさんは驚いたことに乗泉寺へ初めてお参詣したその日に、その場で入信書に記入されました。私自身は「下種」や「お教化」という言葉の意味すら理解していないにも係わらず友人をお教化をしてしまいました。 

その後は、皆さんから「お教化が出来て凄いね!」と声を掛けて頂きましたが、今回のお教化は、決して私一人の力ではなく、色んな方のお力添えがあったからだと思っております。Kさんをお教化させて頂いてから、一緒にお寺参詣や御講参詣、御奉公が出来たことは勿論、勉強熱心である彼女の方がどんどんご信心のことに詳しくなり、今では逆に私が彼女から教えて頂くことも多くあります。 

また、育成御奉公の難しさも身にしみて実感致しました。私は親の代からの信行相続ですが、Kさん自身は、目にするモノ、耳にする言葉、ご信者さんの作法など全てが初体験です。ですから、彼女が抱く様々な疑問に対して、わかったつもりでいて気がつかなかったことが多くありました。 

個人的には、新入信やご信心をオススメしたい方、青年会世代を対象にしたごく簡単でわかりやすいテキストや配布物の必要性も感じました。 

更には、私自身が本門佛立宗のご信者であることを恥ずかしがらずに友人や知人に声を掛けることの大切さに気付かせて頂きました。Kさんをお教化させて頂いてから、私の周りでは不思議なことが多く起き始めました。 

職場の同僚や私の周囲の友人や知人などに悩みを相談される機会が増え、自然な流れでご信心のことをお話しするようになりました。皆私が思っている以上に、先祖供養のことや人間関係、病気などの悩みを抱えていることが分かりました。何人かの方は一緒にお寺参詣することが出来たり、一人でお寺参詣を続けられた方や御講師とお話した方もおります。 

現在こうしたご縁を頂いていることは、私の大切な友人や知人などしっかりと御題目でお救いしなさいと御法様から後押しをして下さっているようにも思えます。 

私はKさんのお教化を通して、非常に多くのことを学ばせて頂くことが出来ました。日々の御参詣や御奉公の中で色々な壁にぶつかりながらも、少しずつ信心増進をしながら成長出来ていることは、本当に有難いことであります。 

今後も楽しくお寺参詣、御講参詣や御奉公に励み、一人でも多くの友人を恥ずかしがらずにお寺へお誘い出来ればと思っています。(A.U)

門祖日隆聖人550回御遠諱御正当総講発表


門祖聖人550回御遠諱

本山宥清寺の門祖日隆聖人御尊像明、25日は、門祖日隆聖人550回御遠諱御正当の記念日です。乗泉寺では、午前10時半より渋谷本堂において、門祖日隆聖人550回御遠諱御正当総講を奉修いたします。 

門祖聖人は、お祖師様(日蓮聖人)が御入滅なれてから、百四年目に御誕生になられました。 

その頃、日蓮門下は数多くありましたが、お祖師様の真意のみ教えに徐々に人間の考えが入り、汚されて伝えられておりました。 

その汚れ伝えられていた教えを、門祖聖人は、お祖師様の真のみ教えへと、清き流れにお戻しになれたのです。 

開導日扇聖人の御教歌には

此の君の いまさざりせば 遠つ親の 清きながれを 誰かくままし 

門祖聖人の御出現がなかったなら、お祖師様の正しい流れは途絶えてしまったであろう。と門祖聖人をお偲びされておられます。今、私達がこうして上行所伝の御題目の御信心をさせていただき、御利益に与れるのも、門祖聖人のお陰をいただいているからこそなのです。 

明日は報恩の気持ちを込めてお参詣に励ませていただきましょう。


70歳の節目での大きなお計らい

私は、今年72歳になります巳年生まれでございます。年はとっておりますが、にわか信者の様なところがありますので、まだまだいたらない点が多く、皆さまに迷惑をおかけしております。今日に至るまで数々のお計らいを頂いていますが、本日はその中でも最大のお計らいを頂いたお話をしたいと思います。 

昨年の9月初旬、まだ夏の暑さが残っている頃のことです。丁度妻が実家に帰省中の深夜のことで12時近くのことでした。急に胸が苦しく息が出来なくなって来ました。少し休めば落ち着くと思って休んでおりましたが、一向に胸の動悸は治まりません。 

それどころかますます苦しくなり、これはただごとではないと自分でも思い始めました。妻不在の深夜の事とて、途方に暮れていたところ、長男の在宅に気づき、直ちに救急車の手配をしてもらい、田無の病院に搬送されました。 

スタッフの判断で、ある程度の規模の病院でなければ処置できないと判断されたようでした。検査したところ、環状動脈がつまり、心臓に血液がいかなくなった急性心不全とのことで、朝まで待っていたら間に合わなかったそうです。 

翌日、カテーテルの検査の結果、バイパス手術以外にはないという事になり、心臓専門の榊原記念病院を紹介されて名医執刀のもとに手術が行われました。結果は見事大成功でした。1年後の昨年末の検査結果も良好でした。 

かえりみれば、手術の最中意識の混濁していく中で必死に御題目をお唱えしていた事を思い出します。我々信者は最後の頼もしいよりどころがあります。 

そのことが平常の安心につながっていると思います。70歳の誕生日をすぎてすぐの大きなお計らいをいただき、ますますの御奉公に邁進する所存でございます。(S.H)


佛立信者の家に生まれた喜び

私は佛立信心二代目です。母は結婚して子供を授かりましたが、初めての子供は生まれて直ぐ亡くなったそうです。そんな時、父が、教化親と成られる方から子供がよく育つからと言われて、その言葉を信じて御本尊様を頂いてきたそうです。 

今思うと御不敬は無かったのかなと思い返してしまいます。多分教化親さんと共に見えて母には何も言わずにおまつりさせて頂いたようです。次の日から、父は何もしません。御宝前のお給仕は母まかせ。母は田舎育ちで、敷地内にある神様に子供心にお願い事や、ごめんなさい等、人には言えないことを密かに参っていたようです。 

そんな信心のある母は、教化親さんから一週間毎日御宝前のお給仕等、親切に教えて頂きました。お講願主にもさせて頂きました。 この頃は添え講ではなく、各家で毎月お受けしていた様で、よく混ぜご飯を御供養としていた事を聞いています。私も生まれた時に御宝前がありましたので、朝夕のほんのご挨拶程度で、「無始已来」をさせて頂いておりました。 

又、子供心に何か御願い事がある時、お懺悔の気持ちをもった時、やはり、御宝前にお祖師様にお話させていただいて信心前をはぐくんで来たと思います。 家の柱御宝前があることは大切な事です。 

今、東日本大震災以後、信仰を考える人が多くなったと聞きます。人生25年づつ区切って計画を立てたとすると、今年77歳になる私は最後の25年です。佛立信者らしく寂光参拝をさせて頂きたいと願っておりますが、その後、私にとって初めての試練にぶち当たりました。罪障怨嫉です。今まで、あまり考えたり身に読んだ事はありませんでした。 

私は、結婚と共に準宗徒として、御奉公も言われるままにさせて頂き、もう50年になりますが、昨年通信の「慈聞抄」にも書かれておりましたが、言葉の影響、言葉一つでやる気が出たり、無くしたりする。本当の菩薩行を行ずるならば、必ず怨嫉が現れる。生かすも殺すも言葉一つ身にしみて受けました。 

これからは、更に良く御法門を聴聞して、幾多の苦難も乗り越える覚悟をして行きなさいとのご慈折と心得て頑張りたいと思います。 近年就活、婚活と言われています。私の様な老人は認知症と体力も衰えてきます。 

佛立信者は何時迄も脳活を目指し、お教化に励まさせて頂き、終活は死。これは「臨終を先に習え」と教えて頂いておりますので、化他即自行で一遍でも多く御題目を唱え、唱え死にさせて頂ければ本望です。(H.S)


距離をとれ

題・信者のまじはり新古をいはず

御教歌 信心の 奥ある人は 何となく 浅きなじみも むつまじき哉 

信心をしっかりと掴んでいる人は、浅いつきあいでも、他人とは思えないほど親しみ深く、そこには何ともいい知れない奥床しさが漂います。思いやり、慈しみ、情け深さ、しかも、謙虚な態度、上品それでいて筋金入りの信の強さなどがあります。人を引きつけずにはおかない人間的魅力の持ち主です。凡夫が菩薩になる。これが佛立信者のあり方です。 

人間とは人の間と書きます。人と人との間で生きておりますので、肩が触れ、足を踏まれ、時には騒々しいと思い疲れることもあります。ある程度の間隔を置く、人間として距離を設けることが大事です。余り短すぎるとついぶつかり合います。 

○「夜目、遠目、傘の内」夜、薄暗い雨の中を、女の人が傘をさして歩いております。その後ろ姿はいかにも美しく見えます。物事は遠くから眺めると、綺麗に見えるものです。 

○「従僕に英雄なし」世間から英雄と讃えられている人も、日々身の回りを世話している人からみれば、ただの人にすぎません。毎日、鼻と鼻を突き合わせていれば、何の変哲もありません。側にいれば案外人間的な泥臭さが漂い、わがままで個性が強く、協調性のない話の分からない面もあって、気難しい短気な性格の持ち主であったりします。それを遠くからみていると、偉人であり、超人のように見えるときもあります。これを距離の美学と申します。 

お互いに余りにも側に居て、肩をすり合わせておりますと、つい、その人の良さが分からなくなります。良い点を認め会いましょう。身も心も完全無欠な人はおりません。欠点が衣を着ております。余り期待し過ぎますと落胆も大きいです。 

性格上の欠点を攻撃し合うより、長所を生かし合うことです。持って生まれた性格は、直し難いものがあります。相手を攻めるより、自分を改良するように努めることです。世間でも、結婚前は両目でよく見て、結婚後は片目で見ろと申します。 

信者同士は、信心という土俵の上で付き合って下さい。つい長い付き合いだと、礼儀を忘れて言葉使いもぞんざいになりがちです。一回一回丁寧な態度をとり、馴れ馴れしい言い方は避けることです。 

御指南「信者ハ信心の事ばかりをいひもし。おもひもし。今日世上の迷のことを人がいふとも。随分相手二ならぬ様二。するこそ用心なれ。」 (扇全13ー210頁) 

お互いに、信心上の功徳になることのみ話題にしましょう。世間の景気不景気や雑談にのみ興じていたのでは、時間が勿体無いです。罪障を造らず、功徳を積まさせて頂く時間を持つことです。 

そこで、お互いに罪障の深い身の上だという自覚を持つことです。苦果の依身、地獄這い上がりの凡夫、三毒強盛の悪凡夫とも言われ「無始已来謗法罪障消滅」と日夜に御祈願させて頂いております。 

知らず知らずのうちに、過去から作って来た罪障を、先ず消滅させて下さいとお願いすることです。これが出発点です。自分の至らなさを懺悔することです。罪根深重の身の上です。良いことが生じた時、御利益を頂いた時には、御法の恵みと感謝するのです。 

悪いことが起こった場合には、自分の罪障だと信じて信心の改良に努め、御祈願に専念することです。これが信者の考え方です。自業自得が信心の鉄則です。何事も自分の蒔いた種の結果です。反省改良に努め、弘通に専念させて頂きましょう。

慈悲廣大より


第一回リトミック教室

リトミック教室ありがとうございます。先月の27日に今年度からスタートするリトミック教室とくんげ会音楽隊の練習第一回を行いました。 

お講師に本堂で御看経をあげていただいてから、おしゃべりサロンに移動してリトミック教室を行いました。先生の声かけに続き、子供達も元気に挨拶をし始まりました。 

今回は小さな子どもが中心だったので、動物の絵を見せて名前をあててもらったり、タンバリンを使って音の合図にあわせて叩いたり親も一緒に楽しく出来ました。またリングを使った遊びでは、青年会にも参加してもらい、みんなで盛り上がりました。 

リトミック教室終了後、音楽隊の練習でくんげ会の歌を歌いました。また、門祖会の課題曲を先生より頂きました。自分もはじめて参加しましたが、なれない親子さんでも楽しく参加できる内容だと思いました。 

次回は2月24日(日)です。10:15~本堂にて御看経、10:30~おしゃべりサロンにてリトミック教室と音楽隊の練習を行います。 

先生の指導のもと充実した時をお子さんお孫さんと過ごすことのできる教室だと思います、ぜひ皆さんご参加下さい!(H.U)


受験助行

受験助行受験のまっただ中ですが、各ブロックでのお助行はどのように行っていますか?世田谷別院では今年は2名ほぼの受験生がいるということでお寺で皆でお参りさせて頂いたり、家に行かせて頂いたりしています。 

特に、最近取り組ませて頂いているのは受験生の試験当日に試験時間に合わせてお参りさせて頂くことです。

時間に合わせてお参りをさせて頂くことで、受験生をお看経でサポートすることができます。 

受験助行は自分のためではなく、人のためにさせて頂くことに喜びを感じる大事なことです。なので受験に問わず各ブロック積極的にお助行をさせて頂きましょう。(K.I)  

◎受験助行の体験談 

私は1月末に、第1志望の推薦入試を受験しました。その時、青年会の方々に実力発揮と学業成就、災難除滅のお助行をして頂きました。結果は駄目でしたが、一般の私立高校と都立高校の受験に向けて気持ちを切り替え、勉強に集中することが出来ました。そのお蔭で2校受けた私立の一般受験に合格することが出来ました。 

そして、都立高校の一般入試の前日には、世田谷別院で青年会の方々に実力発揮のお助行をして頂きました。そのお蔭で、緊張もほぐれ、自信を持つことが出来ました。受験当日には、青年会のY君が私の家で、母親と一緒に試験を受けている時間に合わせて朝から夕方まで、お看経をあげていてくれました。 

それを思うと、大変心強く、試験を受けている間もずっと勇気を貰いました。そのお蔭でいつも以上に頑張ることが出来、無事に合格することが出来ました。こうして今、楽しい高校生活を送れるのは、受験の為にお助行をして頂いた、青年会の方々のお蔭です。 

今回、このようお計らいを頂いたので、今年からは僕もお助行をする側として、出来るだけお助行や御講参詣し、一生懸命お看経をあげ、色々な方々の力になっていければいいな、と思っています。段々と高校生活にも慣れてきたので、これからはもっとお寺の御奉公に参加出来ればと思っています。ありがとうございました。(R.S) 

Y君をはじめ、お助行に参加された方の話しによると、「自分もお助行を通して力を頂いたので、受験助行を通してより多くの方々の為に御奉公をさせて頂きたい」また「受験のお助行を受けられた方は、試験に合格する、しないに係わらず、結果として皆それぞれにとって一番良い方向に進んでいるように思います」と語っておられました。 

乗泉寺青年会では毎年、受験生を対象に受験助行を開催しております。受験生の方々は、是非とも各ブロックの青年会までご連絡いただきたいと思います。


因縁とは

同じ老人で、腰の曲がった人も曲がらぬ人もいます。ボケた人もボケない人もいます。それが果報の相違というもので、そうなるには、よって来たる原因があります。その原因を因縁といいます。

では因縁とほ何か。因と縁との和合力で、因は自身の力、縁は助縁で他からの援助です。素質が良くても、悪縁と和合すると悪果の報いがきます。成仏の大果報をいただくには、本人に仏の因=仏性=があって、その上に成仏の道を悟ったお釈迦様の教え、すなわち助縁が必要です。

もし本人に成仏の素質がないと、いくら教えてもむだ、また、素質があっても善法がなければ、これもだめです。そんな因と縁との関係を考えると、お釈迦様がこの裟婆にお出ましになって、法華経を説き末法に南無妙法蓮華経を残されたのは、人間に成仏の素質(仏性)ありと認めたからで、仏様はむだな教えは説きません。

ですから、私どもは三毒強盛の荒凡夫でも、妙法経力という助縁があれば、現当二世の御利益をいただく因縁がそろうわけで、その因縁を信じ、自信と希望を持って喜んで御題目の修行をするのが私どもの信仰です。

因縁と果報の関係は、因果応報とか、善因善果、悪因悪果と熟字するように、いつも対応しています。小果報は小因縁の結果、大因縁は大果報を生みます。成仏は人間にとって一番大事な果報ですが、その果報を生む因縁は何か。

お釈迦様がこの婆婆にご出現になったのは、「一大事因縁」のためとおっしゃっておられますから、大事の中の大事である成仏の助縁の法を授けるためのご出現で、それに対する信心とは、その一大事因縁の法を信行する意味です。したがって私どもの信心は、一大事の因縁が和合してみごとに成果を収めないと、無意味になることを忘れないでください。

また、仏法では三世の因果といって、前世の因縁から今生の果報を生み、今生の因縁が来世に報うという考え方があります。私どもは生まれつき前世の因縁で悪い果報を持っていますが、一方妙法を護持できる大果報を持っています。その大果報を破滅させず守り育てる努力を常にしないと、逆に悪い果報に押しつぶされます。

今生は過去のまいた善と悪との因縁が報いていて、勝つか負けるかの戦いを継続しています。ですから、絶対、妙法のご縁にすがって、罪障の縁を断ち切る覚悟が大事です。信者が御本尊を生活の中心に奉安し、御宝前へのお給仕を生身の御仏に仕える心でするのは、結局、御宝前のお敬いから、妙法五字と信心が和合して、この一生を善き因縁の一生にするためです。

また、教化折伏のご奉公に気張るのは、妙法の善縁を、世の人々に結びつけて、よき因縁の人にしてあげる菩薩行で、人生最上の功徳の生まれる源です。お互いに教化折伏にはげみましょう。

日晨上人要語録より

 


2月に入りました

立春寒参詣も本日を含めて、あと4日となりました。東京では7年ぶりの大雪に見舞われ、厳しい寒さの中での寒参詣となりましたが、多くの方にお参詣、また御奉公にお励みいただき、ありがとうございます。

残りあとわずかです。明日、明後日の土日は、総参詣の日ですので、ご家族や部内のご信者さん、皆で励まし合って、お参詣の功徳を積ませていただきましょう。

今月の16日は、高祖日蓮大士の御降誕(誕生)の日です。また、25日は、門祖日隆聖人の550回御遠諱の御正当日です。

両聖人のお陰で、私達は今現在、仏様の全てのお力が込められた、上行所伝の御題目を唱えることができ、御利益の中で生活を送らせていただいております。

その両聖人が一番にお喜びになるのは、一人でも多くの方が、御題目によって御利益を感得していただくことにあります。

お互いに報恩の気持ちを強くして、寒参詣が終わりましても、引き続きお寺参詣に励み、御題目の功徳をもって、苦しむ人悩める人に御信心をお勧めさせていただきましょう。

16日・・・高祖大士御命日総講 渋谷本寺 10時半

25日・・・門祖聖人550御遠諱御正当総講 渋谷本寺 10時半