安定の道

人々が商売したり、家事にはげんだり、会社に通勤したりするのは何のためでしょう。国家・社会のためともいえますが、直接には各自の生活を安定させたいためです。教育事業もその安定の道を教えたり学んだりするため、不道徳な行為を取り締まるのもお互いの生活を安定させるためです。

ですから、現実生活の安定に役立つものは善・破壊するものは悪といえましょう。ところが、久遠の昔から、みんながいろいろの方法で、その生活の安定をめざして活動しているわけですが、なかなか安定した社会が実現しません。それどころか逆に時代が進むにつれて、不安定の度が増す感じです。

自動車の激増に対し、信号機を増設したり、交通規則を改正したりして、事故防止に躍起となっていますが、昨今の交通事故による死亡者は、日清戦争の戦死者より多いなどと聞くと、不安がつのるばかりです。

つまり、私ども凡人が、これはすてきだと喜んでいることも、いつの間にか弊害が出て悩みの種に変わることがあります。所得倍増の計画でも、予定どおりには進まず、中途で黒字倒産する業者も出るありさまで、最初の計画が、思わぬ方向にゆがめられた感じです。

ですから、安定策と平行して弊害の防止対策も考えねばなりません。眼前の一時しのぎに憂き身をやつして、長い目で見る稽古が不足だと危いとか、才知だけではだめで、徳を積むことが大事だとか、化他心を忘却した利己一辺倒も危険だとか、学問も慢心を起こすと災いを招くとか、色欲や名誉心も野放しにすると、不安を生む可能性が強いことなどを心得て警戒せねばなりません。

次に、安定策にいろいろあることも考える必要があります。「知らぬが仏」という安心の道もあります。「寄らば大樹の蔭」という手もあります。蔵の財による安定策も、手腕力量による安定策もあります。自転車に乗っているときのように、動いているのが安定という場合もあります。信心でも、御利益とは心身の安定を得ることですが、その安定にもいろいろの型があります。

おまかせして安心感をいただく場合、功徳の積み上げが火にも焼けず水にも漂わぬ安全性をつくる場合、異体同心で相互に支持し合う安定の道、また、稼ぐに追いつく貧乏なしで自転車乗車と同様、停止せずに修行に精を出していることが安定策の場合もあります。しかし、弊害の方もすぐ出てきますから、油断は大敵、信心第一が肝心です。

ことに信者は、停止しないで動いている現実生活の新しい問題と年中対決しつつしかも信者としての真実の生き方を求めるのですから、たえず前進していないと、安定状態の保持がむずかしいのです。それをシッカリ自覚し、修行の苦労をいとわず前進また前進を心がけてください。それが安定の道です。


第7ブロック 石巻・耀護寺へ

乗泉寺通信12月号より去る10月7日、第7ブロック9名、青年教務会からお教務さんが5師で耀護寺さんへお参詣し、震災復興支援助行をさせていただきました。青年教務さんの大きなお看経の声が本堂中に響きわたり、とても気持ち良くお参りをさせていただくことができました。

ちょうど新会館の上棟式もありました。耀護寺さんのご信者さんの数は、それほど多くないにもかかわらず、新会館の建立を祈念してからなんと3年でしかも借入無しで建てることが出来たと伺い、志が厚いご信者さんが多いと感心すると同時に、自分自身も見習って改良しなければならないと反省させられました。

御法門の前には
一、お唱えします。毎日の祈り(口唱)
一、お伝えします。私の御利益(教化)
一、お参りします。お講にお寺に(参詣)
一、お磨きします。家族みんなで(お給仕)
一、お仕えします。御法のために(役務)
一、お供えします。わが身のために(御有志)
と皆で唱和させていただきました。

その後、宮崎正良師の御法門を聴聞させていただきました。
御教歌 唱えつゝ いかがあらんと 思ふとも 利生を見るぞ 妙の法力 

お題目様をお唱えさせていただいても果たして、この御祈願が叶うだろうかと不安に思うことがあります。しかし、それでも、お唱えさせていただく。その事で現証が現れ信心が起こってまいります。これこそ御法様の御経力に他ならないとの御法門で、たとえどのような心境でも御題目をお唱えし続けることが大切なんだと学ばせていただきました。

その後、震災でお祖母様を亡くされ、ご両親が行方不明のままの御信者さんの家の跡地でお看経をさせていただきました。ご本人は38度の発熱で体調を崩され、あいにく一緒にお参り出来ませんでしたが、未だに津波の爪跡が所々にあり、胸が締め付けられ、早期震災復興を願わずにはいられませんでした。(A.H)


御初穂を大切に

稲穂信心の中心は御宝前で、お祖師様に喜ばれる信心を目指して、信心修行御奉公に励ませて頂くことです。一番最初にお上げさせて頂くのが御初穂です。

時間・お金・水・身体などに分けられます。一日二十四時間、身体を動かすうち、その最も早い時に御宝前に御挨拶させて頂く、これが朝参詣です。 時間の使い方に工夫をこらすことです。

まず、信心の為の時間を最初にとる。時間は作り出すもので、暇でも出来たら参詣させて頂こうというのと、用事を後に回して参詣させて頂くというのとでは、かなりの相違があります。思いのこもった参詣が大事です。

最初にお上げさせて頂くのと、残った物をお上げさせて頂くのとでは、志の上で天地雲泥の違いがあります。

御教歌 御初穂は 第六天に奉り 仏に上げる 己が残物 

慈悲広大より


開筵式第一日目の風景

以前にもアップいたしましたが、麻布桜田町にあった当時の乗泉寺で行われた開筵式の風景を追加します。今回は第一日目の写真集です。

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写真左、青年会(左上) お参詣風景(他)
写真右、朝の準備風景

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写真左、浅田現国師ご法門(右上) 御供養渡し(左上) 御講有ご退出(右下)
写真右、御供養のお菓子渡し(左上) 休憩所(右上)青年会員(他)

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写真、お参詣風景


つかのまの生命

ちかごろは環境衛生がよくなったので、蚊や蠅が以前よりは、すくなくなったように思う。しかし、全くいないというわけではない。その反面、ごきぶりは、台所を主として、いたるところにふえているようだ。

これらは、人畜にたかって、その血を吸う。当然、伝染病を媒介する。人間にとって、まことに有害なむしけらである。血を吸う雌と、そうではない雄との見分けはつかぬので、蚊がとまればピシリとたたく。彼等にとっては致命的な一撃である。ほんの、つかのまの生命だ。

ふりあげた手をとめて、ほんの一瞬、これは雌か雄かと考えて、人間に無害な奴なら、たたくのをやめて、フッと吹きとばしてやろうかと思う。が、次の瞬間、心に何の痛みもおぼえぬまま、一打ちで蚊を打ち殺してしまう。人間の立場から考えれば、罪でもなんでもない極めて当然なことにちがいない。

しかし、蚊の立場になって考えてみると、一寸の虫にも五分の魂で、殺される方にとっては正に一大事にちがいない。人間が虫けらを一撃のもとに打ち殺すように、もっと大きなものから、人間が虫けら同様、一撃のもとに打ち殺されることはないのかと反問してみる。こう考えてくると、背筋が寒くなるような思いがした。人口の密集している大都会に、大震災がやってきたことを想像してごらんなさい。

つかのまの生命を、次の瞬間に一撃のもとにうばわれるとも知らず、吸血している蚊と、われわれ人間と何程のちがいがあるのだろうか。つかのまの生命だからこそ、貴重なりという自覚が生まれてくる。しかも、それは自分のものではなく、与えられている生命であること忘れてはならない。

昭和48年10月 乗泉寺通信


心の御利益

身読会と言う所は何をしているか分からない方がいらっしゃるのでチョットお話させていただきます。

月に二回の十六日と三十日の御総講の時に、境内、洗濯、掃除機のゴミの処理等その他諸々の御奉公です。

私が会員になって長くいつの間にか八十歳を過ぎましたので、これからは若い方に入っていただき頑張ってやって欲しいと思っております。

私が身読会に入って楽しく御奉公を続けて参りましたが、主人が病気になり三、四年が過ぎた頃から、介護疲れのせいか、気の重い苛立つ日々を送るようになって行きました。 投げ出したくなる気持ちになる日も有りました。

月二回の御総講の日だけ娘が主人の世話をしてくれるので、お寺に出かけ身読会の御奉公をする事で気分転換になりましたが、日が経つにつれ、益々心が晴れなくなってしまいました。

お看経を毎日あげていましたが、主人の事を考えると、集中できずにいたので、これではいけないと一生懸命いつも以上に口唱しました。いつの間にか少しずつですが心が穏やかになって行く事が分かりました。

そのお陰で長い介護生活を経て主人を見送る迄、腹を立てる事も少なく一生懸命主人の世話が出来たのも「心の御利益」をいただけたのだと思います。

一人になると今度は寂しい日々になりましたが、八十を過ぎた今でも身読会の人達と楽しく御奉公が出来るのも御利益に違いないと信じております。 

御教歌 くるしみの 海にいづむと 見えつるも 御法の浪に うかぶ諸人
K.E


お役の御奉公をお受けして頂いた御利益

ありがとうございます。昨年暮れのことです。教区の会議中、「村松さん、来年教区長のお役を受けて頂けませんか」という話が持ち上がりました。

私は現在、八王子別院の参事の御奉公をさせて頂いておりますし、明年、平成二十四年度も引き続きお役を続けさせて頂くことになっていますので、両方のお役を頂くことに少々不安を感じてしまいました。

しかし、教区の皆さんが一同に「村松さん、皆で協力させて頂きますので、是非お受けください。」と、心強いお言葉を頂きましたので、教区長のお役をお受けさせて頂くことに致しました。 

それから年が明け、元旦の朝のことでございます。四時半に起きて、自宅の御宝前で新年のご挨拶と、昨年の御奉公成就のお看経をさせて頂き、家族揃って世田谷別院へ初参詣に車で向かう途中、膝に少し痛みを感じました。

その時は大したことはないだろうと思ったのですが、自宅に戻りますと、更に痛みが増してきて膝が曲がらない状態になってしまいました。それでも、正午からは多摩親会場で新年の初お看経と御講師との初顔合わせがありますので、行かない訳にはいきません。膝の痛みをこらえながらも多摩親会場に向かいました。

幸い親会場では椅子なので膝の痛みが少し和らいだ感じがしましたが、いざ御講師と初顔合わせの為、座ろうとしたところ、膝に激痛が走って座れません。膝を曲げることも出来ない状態だったので、早々に自宅へ帰らせていただきました。

医者に行くにも何分お正月のことですから、三が日は休みで行かれません。二日、三日はとにかく痛みを我慢して自宅でのお看経も失礼ながら足を横にして、お参りさせて頂きました。四日の朝になりますと、静かに家で休んでいたこともあり、痛みは幾分和らいでおり、正座も出来るようになったので、この分なら医者に診せなくても大丈夫だなと思い、病院に行くのを見合わせ様子をみることに致しました。

そして翌五日の朝、起きぬけに「今日は痛みはどうかな」と心配したのですが、膝の痛みは驚くことに全くありませんでした。正座をしても全然痛みを感じませんし、普通の生活がまた出来るようになりましたので、六日から始まった寒参詣も現在無事元気でお参詣させて頂いております。

これもひとえに御法様のお陰、特に今回は素直にお役の御奉公をお受けさせて頂いた御利益と感得させて頂いた次第であります。これからもお寺参詣に、お看経、お役の御奉公と一生懸命御奉公に気張らせて頂きたいと思います。ありがとうございました。
(M.M)

御教歌
ゆけるだけ ゆけとてすゝむ 信行に ゆかれぬやうに ならぬ御利益

信行体験談集 涌出第22号 平成24年寒参詣発表


なんで腹を立てるか

どういう場合に立腹するかということを、いろいろの角度から考えてみるとちょっと興味があるものです。

豊臣秀吉が信長の前に初めて出たとき、信長はお前の顔はまるで猿のようじゃと無遠慮に言い放ったそうですが、秀吉は少しも気にかける様子もなく平然としていたとのことです。意気地がないために腹を立てることができないのかというとそうではなく、大望を抱く身であれば小事に腹を立てぬと決意したからでしょうし、心底から敬いのある場合には、そんなことでは腹が立ちません。すぐ怒るのは身勝手の方が強いからです。

ところが世間にはくだらぬことに青筋立てて怒る人の方が多いようで困ったことです。しかしまた発憤して奮励努力してついに成功したという美談もありますから、腹を立てるのが一概に悪いというわけでもありません。宗教界が腐敗して教師がその本分を忘れて日を送っていることに業をにやして宗教改革に身を投じたというような、宗教史上の傑僧の話などで業をにやすということも腹の立て方の一種です。公憤とか私憤とかいう怒り方の区別もあります。

以上のようなことを前提にして、さて身近な人を眺めまわしてどんなことで腹を立てているかを検討してごらんなさい。同じ事柄で若人は怒るが老人は怒らぬ場合があります。老人にでも、うるさ型になる人と、好々爺になる傾向の人とがあります。内ずらはやかましく、外ずらのおだやかな人、またそれと反対の人もあります。年中ぶつぶつ不平をならべている人もあり、いつでも目上に突っかかっている人があります。代議士で演壇に上がればいつでも反対派に対して大声叱咤しているのなどは、公憤のうちに入りそうですが、どうも自己宣伝をやっている感じを受けます。腹を立てるのにも十人十色でかんにさわるところが異なっているようです。

そこであの人はどんなときに腹を立てるか、それをしらべるとその人の心持ちがわかるようです。煽動されて腹を立てるのはおっちょこちょいの感じがします。えらがり屋はどんな場合に怒るか想像がつきましょう。欲ばりは、出す話になると、ぶつぶつ言い出します。妖妬心の強い人の怒るのは陰険で、怒る理由がわからぬときがあります。また、高血圧患者の中には、ほんの些細なことにどなり出すのがいますし、心配事があったり多忙でいらいらしているときなどは、一触即発の危険が多いようです。

ですからなんで立腹したのかをしらべると、その人の心の動きがわかるわけです。したがって腹の立ちやすい人は用心が肝心で自分では正しいといばっていても、見る人が見ればその人の性質をちゃんと見抜いてしまいます。思い内にあれば色外にあらわれるのです。怒りを敵と思えと教えた家康の言葉や忍の一字が成功の元だということも、仇やおろそかに聞いては罰があたります。


12月に入りました

水仙12月になり、急に寒さが厳しくなってまいりました。体調に十分お気をつけ下さい。今年も残すところあと1ヶ月となります。皆さんの平成25年はどのような年だったでしょうか?

年末年始は忙しくなり、時間を取るのが難しくなると思いますが、本年度の御礼と、来年度も家内一同が健康で元気よく御奉公させて頂けるように、年末年始の諸御奉公をしっかりさせて頂きましょう。

諸奉納についても、「まずはお寺の御宝前の荘厳を整えてから」という心構えで、乗泉寺通信をしっかり確認し、お炭代やお鏡餅料等のご有志等、財の功徳を積ませていただきましょう。

またご自宅の御本尊・御戒壇のお塵払い、お清めをさせていただき、無事新年をお迎え致しましょう。尚、年末総祈願、御祈願札の入れ替えもさせていただきましょう。