ばか気たこと

世間には、ずいぶんばかばかしいと感ずることがたくさんあります。その中で、これはヒドすぎると感じたことはありませんか。

人のふり見てわがふり直せという考え方は、だれにでも共通でしょうから、ばかばかしいと強く感じたことは、いきおい、自分は絶対アノまねはしまいと思うはずです。そういう事柄に出合ったことはありませんか。

オダテに乗って喜んでいるのが第三者にばか気て見えるときがよくありますが、さてその第三者が、またオダテに乗せられる世の中ですから、ばか気たことは山ほどあるのです。

下劣なことをとくとくと自慢しているのもばか気ていますし、生意気の度が過ぎて、凡夫が仏を冷笑するような不遜なのも、寝るほど楽なものはないと、横着で世渡りできるという甘い考えの連中が、浮世のばかは起きて働くなんて変な批評をして、人生を皮肉ったつもりでいるのも、ばか気たことといえましょう。

ボスの尻馬に乗って騒ぎ回る連中、またばかばかしいのを承知の上で、仲間の仁義に雷同しているなども、どうかと思います。 

ご信心では、このばかばかしいと思われることを、除去することが大事です。むろん、妙法の御利益は、化学が進歩した時代の頭脳でもはかりがたいものがありますが、だからといって妙とは不可思議なりという神秘性ばかりを強調して、仏法は道理なりという面を隠蔽してしまうと、科学的に鍛えられている現代人には、迷信臭く感じられたり、ばか気たものと思われたりして、逆に信心から遠のかす因になる心配もあります。

第一、時代遅れとの感じを与えてしまっては、弘通上不得策です。開化第一を名乗って弘通した当宗ですから、時代の流れを凝視して、現代人を納得させる合理性とか、進歩性の大事なことを忘れてはならぬのです。 

生活建直し運動の一つのネライは、私どもの日常生活でばかばかしいと思う点を、切り捨てていく改良運動であることにお気づきでしょう。ただ、問題は何を標準にばかばかしいのと、ばかばかしくないのとを分別するかにあるのですが、私どもは、その標準を日蓮聖人の御指南に求め、その御指南をものさしにして、ばか気たことはどしどし改良し、個人の生活、家の生活を建直して安国の基礎を固め、あわせて人類安住の標本にもしようという理想をも持っているのです。

個人の謗法、家庭の謗法、国家の謗法を払い清めるのが、私どもの折伏行で、その精神を活用し、応用して生活上の欠陥を除去するのが、私どもの生活建直し運動です。したがって、これでよしという考え方を捨て、積極的に旧弊を改め、独りよがりの愚を知って、専門家などの言に傾聴し、労して効なしとか、虚礼のように、形式だけで実質のないことなど、総じてばか気たことは、断然払い清めて、世のため、人のためになろうという意気に燃えて、運動を推進したいのです。


修繕は貴し

「人間は病の器」といわれるくらいで、じつに巧妙にできている人体も、年中ガタがきていると申しても言い過ぎにはならぬ感じのするときがあります。表面には出なくとも、内面では、どこかが蝕まれているでしょうし、一日一日老化現象の進んでいることも間違いないことです。

諸行無常は世の常で、万事、同じ状態にあることは望めぬことですから、その変化が起こったときの対策は常に考えておくべきで、いたずらに愚痴や不平を言ったり、他のせいにして怒ったりするのは未熟な人のすることです。雨がもれば修繕したらよいのです。腐蝕していたら大手術をすればよろしいのです。修繕が不可能なら建直しを考えるのです。

いたずらに愚痴ったところでどうなるものでもありません。何とか生かすことを考えねばならぬのです。新しい材料を使って、モノを製造することは、だれでも気持のよいものでしょぅが、古いものに手を入れ、修理をしたりすることはおもしろくはありますまいし、面倒くさいといえばたしかに厄介な仕事です。利益の点からも、新製品を売る方が儲けが多いでしょうし、製造業者といえば尊敬されますが、修理業者は軽く見くびられがちです。

どうして自動車を作る人がエラクて、それを修理する人はエラクナイのであろうか。修繕業者は、ほっておけば死ぬはずのものを、よみがえらせる仕事をするのです。製造と修繕は少なくとも同格に見るのが至当なのです。ことにクツ直しなどをみくびる法なんてどうかしているのです。 

人間の場合なら、医者も立派な修繕業者です。作り出す能力は持っていません。ただぐあいの悪いところを修理する仕事だけしかできないのです。しかし世間では医者を先生として尊びます。それは人間の病痛をとる慈悲の行ないをするからです。

昔からコウモリガサの直しも、下駄の歯入れも、ものを生かす仕事にはかわりがなく尊いものでした。また修繕業者は折れたものをつぎ、サビたものはみがいて、物を生かそうとする医者の仁術に比すべきものがあるのです。しかも世人からは修繕屋として一級下のもののように取り扱われていながら、黙々と物の更生をはかっているのです。物に心があれば修繕業者を拝んでいるに相違ありません。修繕の徳を悟ってください。

妙とは蘇生の義と解釈されていることは、皆さんご存知のことでしょう。妙法とは、悪人を更生させる神通力をもった御法様ということです。女人成仏も畜生成仏も悪人成仏も二乗作仏の御利生も法華経のみが達成したものであって、他の御経では不可能だったのです。棚の隅にしまい込んであってもう役に立たない廃物を引き出して、修繕し、もとの姿に返し、立派に通用するようにする、そういう、不思議自在の働きを、ホメタタエた言葉が妙なる法、妙法と申し上げるのです。

したがって妙法の信者は修繕の徳を知る信行者でなけれはなりません。三毒強盛の人々が、信仰的には不具者であることを考え、それを修理するためのご奉公をするのが、日蓮門下のつとめだということもお互いに自覚せねばなりません。教化、折伏、参詣、助行などひとロにご奉公と呼んで日々行なう信心のつとめを軽々しく考えてはいけません。

この修繕の徳を自覚し、情は人のためならずと、菩薩行に精進する信心の持ち主が諸行無常の世に対処して妙法のヨミガエリの御利益を人々に教示し、現当の御利益を体得せしむるお役に立つ信者となれるのであって、この大果報を予想し喜び勇んで信行にはげんでください。

日晨上人要語録より


一人と多数

多勢に無勢で、多数と少数の力比べは多数が有利にきまっています。しかし盲人を十人寄せても一人の目明きにかなわぬときがあるように、烏合の衆では多数でも負ける場合もありましょう。一人だから、少数だから負けるのは当然だときめてしまうのはどうかと思います。

仕事によっては一人で充分できるものもあります。協同作業でなければ運営できないのもあります。最初は一人で始めたものも発展して多数の協同作業体に変わるものもあります。そんな場合に自分一人で始めたのだからと協同作業に変わった現在の性格を忘れて、ワンマンでやれると思い込んでいると、とんだ失敗を招くことがあります。

独裁で成功しても独裁で終わりを全うできるとはかぎりません。一家の主婦などは主人や家族とで協同処理する家事と、自分一人でやる家事と一人で二役も三役もの使い分けもやるのです。

信心行では「異体同心なれば万事を成ず」という協同体制下の修行面と、一人の改良は万人の改良というただ一人で率先垂範する修行面とがあります。信者はそのどちらの場合にも即応できるご奉公の鍛練が大事です。

組織の整った中で育った信者は、組織のない場所へ移転でもすると、とたんに手も足も出なくなるのがあります。大会社の組織の中で働いている人は、創業時代の人々のような自主独往の気慨が欠けているのが多いのと同様です。

ですから異体同心の心構えや、その実践に必要な注意事項を一歩一歩積み重ねる苦心や努力をするとともに、一方では事なかれ主義になったり、機械の部品みたいになったりする組織体から受ける弊害を極力防いで、いつでも、どこでも一人立ちができる信者になることが大事です。

釈尊は「唯我一人能為救護」といわれお祖師様は「日蓮さきがけしたり、吾党ども二陣三陣これに続け」とご策励くださいました。裟婆の衆生の苦悩を取り去る責任は自分一人にあるという貴いお考え方です。

ですからそのお流儀を学んで自分一人でもやるという気慨が大事で、それがないようではお弟子信者の資格も影がうすくなります。異体同心を必要とする協同体で協調精神が肝心ですが、他方、自己の能力を伸ばす努力も大事で、その双方が結合されたとき、より大きな力となって大功徳が涌き出します。

個人個人の持ち前や能力を抑制するような団体は、烏合の衆になる心配があります。ですから理想的な信者の集団は個人の力も、多数の力も、それぞれ立派に発揮できるものにしたいものです。

教区活動や宗門全体の運動に喜んで協調する訓練をすると同時に、一人一人でも立派にご奉公をやり通せるように信心の鍛練をしたいものです。素直に右へならえができても、一人になると意気地のないのも困りますし、その道に我ばかり強くて協調精神のない人も功徳の積めない困った人です。


御利益の広さ

色や形のあるものは、簡単に判断ができます。香りや味は目に見えなくとも、鼻や舌でわかります。他人の心となると、わかったようで、よくわからぬものです。眼・耳・鼻・舌などで感じ取れない対象だからでしょう。親切な人情を売り物にしていた人が、冷血漢であったり、ハイカラぶっている人が、考え方は時代遅れで意外に思うときがあります。

古歌に「落ちぶれて袖に涙のかかるとき 人の心の奥ぞしらるる」とあるように、人の心の奥底は特別の事情にふれないと、表面化しないので、平常はうかがい知ることが困難なのです。菩薩心なども深層にひそんでいるらしく、それが表面に出て活躍してくれたら、たちまち功徳が積めたのにと、悔まれるときがあります。

妙法の御利益も、広大無辺で、私どもの眼力で隅々まで見極められませんし、奥行きも想像できません。ただ、ホンの一部分を感得して、わかった顔をするだけです。しかも、その感得できる範囲は、病気や商売が好転したときか、災難をのがれた場合などで、目に見えるときがおもです。

中には精神的な面で感じたり、教理や、修行の道筋で、随喜する人もありますが、概して、いわゆる現証の御利益で随喜の心を起こす人が多いのです。ですから、現実に、お願いの目標を持ち、あるいは誓願のある人が、場数を踏みながら信行を重ねると、次から次へと、広く、深く、いろいろの御利益を感じます。それに反して、信心第一といいながら、日常の働き方などが安易な道を選んだり、横着だったりすると、だんだん御利益を感ずる場面が縮小されます。

月の光は、いつも変わりなく地上を照らしていますが、眺める人の立場によって感じ方に相違ができます。大海とか高山で見る月、春の夜の霞んだ月、秋空の澄んだ月、一人ボッチで見る月、愛人とでも見る月、すなわち場所や時や景物の違いで、千差万別の情趣を味わうことができるように、御利益も私どものあり方で、いろいろの妙味を体得できます。それで当宗は生活建直し運動を展開し、それを通じて、より広く深い御利益を感得しょうと試みているのです。

信者は不思議な心の持ち主であり、相手方の妙法も底知れぬ御利益の持ち主です。その信者側と妙法側の両岸を結んで御利益の受け渡しをする掛け橋が信心ですから、これまた、広げればいくらでも広がり、結び方は深くも浅くも自由自在です。

それが信心の性格ですからこれでよしと閂を入れるのは信心の本質に背きます。慢心や僻怠が御利益のいただけぬ障りとなるのも、信心増進を停めるからです。

したがって信心は、次々に目標の建直しをして、中絶することなく、精進することが大事で「願ふことなしと思へば怠りぬ」ですから、無目標になって、信心の掛け橋が痩せ細らぬよう警戒すべきです。


甘く見るな

商売で儲けがない場合、それは一種の危険信号です。それなのに、その原因を探ろうともしないで、姑息な一時しのぎをしたり、時勢のせいにしたり、罪を他に転嫁して、自分の「まずさ」を反省しない人、こういうのを「ものを甘くみる人」というのです。 

信用問題でも、絶対に世間に信用があると称している人が、実際はないときがあります。その原因は多くの場合、その人の軽率な日常の言動とか、ハッタリの強さにあるのに、それに気づかないで自分は正しいと甘く考えているからです。どんな些細なことでも、悪い結果があらわれればすぐその原因は何だと追求し、強く自己の行為を反省する練習が大事で、そうすればたいていなことは改善されます。 

ですから、因果の報いほど正確にやってくるものはないと厳粛に考えて、善処するのが信者というものです。それを甘く考えて横着な手段で建直しの成功をはかっても、うまくいくはずはありません。 

街路で、この頃目につくものは、交通事故による死亡何人、怪我人何名という掲示です。交通禍の恐ろしさを如実に示していますが、はたしてどれだけの人が、それを見て用心する気になっているでしょうか。これこそ、本当の危険信号で絶対甘くみてはならぬのです。「山に躓かず蟻塚につまずく」という言葉もあるくらいで、小事を甘くみると、実際ヒドイ目にあいます。 

法華経には、不軽菩薩が人間を礼拝して歩いた故事が記載してあります。人間中には畜生に劣るのもたくさんいますが、不軽菩薩はその人間を拝んで歩いたのです。このことは、信心ではいろいろの意味がありますが、要するに人間を甘くみてはならぬと教えたものです。お客を甘くみると商売は失敗します。大衆を愚とする政治家は、しまいには、自分が相手にされなくなります。 

また、時間を甘くみる人も感心しません。「今日一日ぐらい」と一日を軽視したり、仕事以外の時間すなわち余暇の大事なことを忘れて、テレビなんかにかじりつくことだけしか考えぬ人は、前途が思いやられます。偉大な業績は、怠らず努力を続けるところに実現するものですから、時間を甘くみず、余暇の活用も考える人になってほしいのです。 

氷上で車を押すとき、足がすべっては、力が出ません。しかしホンのわずかな足掛りがあれば、すべらないで、力が出ます。毎日、十五分間良書を読むとか、また貯金をするとか、お看経を多くいただいて、目的に対する足掛りにすれば、大きな力が出、たいへん役に立つのです。家事や仕事の処理でも、甘くみないで、正確にする習慣がつけば、量が増えても、複雑化しても、ますます力量が発揮できます。 

不軽流を学ぶ私どもの暮らしの中でほ、物事を甘くみる「クセ」を改良しましょう。ことに信心上のご奉公に対しては、慣れれば慣れるほど、念には念を入れ、熱意をこめる工夫をしましょう。


大目標と小目標

日蓮聖人は「先づ臨終のことを習ふて後に他事を習ふべし」と仰せられ、南無妙法蓮華経と唱え死にすることを忘れるな、万一、死に際に心を迷わすと未来成仏の因縁が断ち切れ、妙法を下種されたことがむだになるから信心第一を心がけよとの御妙判です。 

この御指南には、いろいろの大切な教訓が含まれています。特に、人生の終着駅に着目して、そこへ無事にたどり着くには、どういう勉強が必要か、それを他の事より優先的に考えて実行せよという点が大事です。つまり、人生の送り方には、どこへ行くのか行き先が定まらず、ただ流れにまかせて進む型と、めざす結末を計画して、それに向かって努力する型と二種煩ありますが、その後者を選べというのです。 

元来信心とは最良の帰着点をめざして進むものなのです。その帰着点とは寂光のことで、釈尊は衆生のまことの安住所である寂光を悟ると同時に、そこへの案内書を作って私どもに示されました。ですから信心には最初から目的地がハッキリしていますが、信心以外のことは目標は立てても、それに達すれば、またその次のがあって最後の帰着点は定めがたいのです。そこが信心と世間法との違い目です。 

したがって信者の場合は、今日の生活は寂光参拝のための手段なのです。ところがその手段である生活自体がやさしいものではなく、その中に飛び込むと、沈まぬように浮かんでいるのが精一杯で、いつの間にか目標を見失う人が多いのです。そして流れにまかせた型になって、目標をめざした信者の生き方でなくなるのです。それで目標に志向するケイコを日頃から盛んにやって、無目標の暮らし方を改良する訓練をする必要があるのです。 

そこで目標の画き方のケイコですが、二十年先、三十年先を計画するのも一方法です。老後の計画を早くから考えるのもよいことです。あるいは小キザミに目標を立てるのも一方法です。 

一ヵ年の計画では長すぎて、確実に前進するのに不向きの場合もありますから、一ヵ月ごとの計画を立てた方が、むしろ実行可能かもしれません。あるいは五ヵ年計画というのもあります。十年二十年の計画で進みたいところを、一応五ヵ年計画にして、その中に一ヵ年計画や、月別の計画を盛り込んで、その実現をはかる方法です。 

要するに目標を最初に定めて、それに向かって力を結集して進むケイコです。それでむだも少なく、効果的に日々を送ることができるわけです。以上のような目標をめざす生活をしつつ、さらに信者は大目標に突進するのです。 

臨終のことを先に習えということを、よくよく考えてください。よしや生活の目標が部分的には到達できなくとも、唱え死の大目的は達成せずにはおかぬと決定するのが信者です。生死に追われて目標を忘れたり、遊ぶ方には力を入れて肝心の目標を見失っていることに気づかぬようなボンヤリでほ前途が心配です。 

日晨上人要語録より


因縁とは

同じ老人で、腰の曲がった人も曲がらぬ人もいます。ボケた人もボケない人もいます。それが果報の相違というもので、そうなるには、よって来たる原因があります。その原因を因縁といいます。

では因縁とほ何か。因と縁との和合力で、因は自身の力、縁は助縁で他からの援助です。素質が良くても、悪縁と和合すると悪果の報いがきます。成仏の大果報をいただくには、本人に仏の因=仏性=があって、その上に成仏の道を悟ったお釈迦様の教え、すなわち助縁が必要です。

もし本人に成仏の素質がないと、いくら教えてもむだ、また、素質があっても善法がなければ、これもだめです。そんな因と縁との関係を考えると、お釈迦様がこの裟婆にお出ましになって、法華経を説き末法に南無妙法蓮華経を残されたのは、人間に成仏の素質(仏性)ありと認めたからで、仏様はむだな教えは説きません。

ですから、私どもは三毒強盛の荒凡夫でも、妙法経力という助縁があれば、現当二世の御利益をいただく因縁がそろうわけで、その因縁を信じ、自信と希望を持って喜んで御題目の修行をするのが私どもの信仰です。

因縁と果報の関係は、因果応報とか、善因善果、悪因悪果と熟字するように、いつも対応しています。小果報は小因縁の結果、大因縁は大果報を生みます。成仏は人間にとって一番大事な果報ですが、その果報を生む因縁は何か。

お釈迦様がこの婆婆にご出現になったのは、「一大事因縁」のためとおっしゃっておられますから、大事の中の大事である成仏の助縁の法を授けるためのご出現で、それに対する信心とは、その一大事因縁の法を信行する意味です。したがって私どもの信心は、一大事の因縁が和合してみごとに成果を収めないと、無意味になることを忘れないでください。

また、仏法では三世の因果といって、前世の因縁から今生の果報を生み、今生の因縁が来世に報うという考え方があります。私どもは生まれつき前世の因縁で悪い果報を持っていますが、一方妙法を護持できる大果報を持っています。その大果報を破滅させず守り育てる努力を常にしないと、逆に悪い果報に押しつぶされます。

今生は過去のまいた善と悪との因縁が報いていて、勝つか負けるかの戦いを継続しています。ですから、絶対、妙法のご縁にすがって、罪障の縁を断ち切る覚悟が大事です。信者が御本尊を生活の中心に奉安し、御宝前へのお給仕を生身の御仏に仕える心でするのは、結局、御宝前のお敬いから、妙法五字と信心が和合して、この一生を善き因縁の一生にするためです。

また、教化折伏のご奉公に気張るのは、妙法の善縁を、世の人々に結びつけて、よき因縁の人にしてあげる菩薩行で、人生最上の功徳の生まれる源です。お互いに教化折伏にはげみましょう。

日晨上人要語録より

 


大事な十二月

物事を始める最初の段階で目標・方針・計画をハッキリさせて実行に移れば、手順よく万事が運びます。それを「一年の計は元旦にあり」と昔から申します。そして、その次には、目標・計画などの実施の段階、三番目は、実施したことのケリをつける段階があり、そこでは結果を吟味し反省する点に主眼を置きます。 

この三段階が一巡すると次の計画・実施・結果の三段階の繰り返しが、また続き、そういう繰り返しで物事は動いています。毎日毎日の繰り返し、月々の、年々の繰り返しもあり仕事によっては長期間のも短期間のもあります。 

一生を三段階で幕をとじる人もあり、過去世・現世・未来世の三世にわたる繰り返しも私どもは教えられています。そして、その巡り方が回を重ねるにつれ、上向き、下向き、横ばいの三種の違いが出てきます。私どもの信心ぶりも昨年の十二月、その前の年の十二月と比較すると、違いがわかるはずです。

教化子ができたり、役務が変わったりもしていますが、だれしも自分は良い方へ向かっているとのうぬぼれがあるもの、しかし「始めは事なきようなれども遂に亡びぎるはなし」との御指南のように、懈怠の芽が出だしていて、恐ろしい結果を招く種まきをしていることに気づかぬ人もあるでしょう。宗門とか寺院でも、第一段階の目標・方針・計画をハッキリ明示しておかないと、教講の自主的な動き出しは期待できません。協力者があり、共通のご祈願をよく理解した人々がたくさんいても、よほど気を入れてやらぬと実施の段階で失敗します。 

また、やってるうちにソッポを向いている人、だめだだめだという悲観論者、口先だけの協力者などがいて、その味方のデコボコ状態がわかり、石の上にも三年ということわざなどが、身にしみて感じられるときもあります。弱い人だとあきらめムードに引きずり込まれます。そして、光陰ほ矢のごとく教化の締め切りがせまり、暦の上では十二月がやってきたりして、一巡したその年度の結果を吟味し評価する第三の段階に突入します。 

ここでまた気を入れて今日までの動向成果を冷静に反省しないと、次の繰り返しがうまくまいりません。教化はどうだったか参詣者は増えたのか、減ったのか、助行の成果はどうだったか、後継者の養成ぶりはどうだったか、などを具体的に吟味して、まずかった点は率直に改良を誓い、適切な方法を講じないとだめです。一人でやってやきもきしないで仲間とも相談し、愚痴はかりこぼさずに体当たりでやる決意ができないと、また来年も無功徳な年になりかねません。そして、一生むなしく過ごしてしまってはたいへんです。

十二月は第三段階のきわめて信心上でも重要な月だということを銘記して、年があけたらやりますなどと、ノンキな先の見えない考え方を拒否し、十二月こそ運命を決する月と信心第一の観点から、光明のかがやく考え方をしてください。 

日晨上人要語録より


信者の生活(1)

信者の生活と、一般人との相違点とか、特色の違いなどを知ることは、信心を助長する上に大事な要素だと思うので、それについて列記してみます。 

まず、第一の特色は、御宝前中心の暮らし方です。平常は特別に、これが自分の生活の中心だと考えている人は少ないと思いますが、一例をあげれば父親か、母親か、家の戸主か、あるいは子どもかだれかが、中心の座にいるものです。 

「ウチほカカア天下」だと細君中心を公言する家庭もあれば、宗教とか、先祖伝来の家憲が中心となって動いている家庭もあるでしょう。人間の生活には、どうしても中心になる柱のある方が運営しやすいとみえて、自然、中心的存在を設定するのでしょう。 

したがって、その中心を見つめれば、その家庭の色合いや、動き方がだいたい見当がつきます。むろん、中心のないテンデンバラバラの家庭もありますが、それは例外として、中心は何かという観点で考えれば、信者ほ御宝前中心の生活でなければ、信心第一とは申せないのです。そこで御宝前中心の生活とは、どんな生活かを信者は常に考えておかねはなりません。 

御教歌    いきています仏といふは信心の まなこでおがむ利益也けり 

と、御教歌にお示しのように妙法の御本尊は生身のみ仏で常に私どもを見守ってまします。そのみ仏が信賞必罰を厳然と行なわれることを信じ、陰ひなたなく、骨惜しみなく、お喜びをいただこうと心がけて、日々を暮らすのが信者というものです。知識の有無貧富の差などは超越して、御宝前のおぼしめしに同化(とけこむ)する信心第一の生活に徹したいものです。 

信者の生活は、妙法の御利益を常に感謝しつつ暮らすものでなければなりません。一般的に見ても、感謝の心の強い人は、不平不満を解消する妙手を早く考えつきますが、感謝の念のうすい人は、傾いた土台に立って物を見るように、正しい姿のつかみ方がうまくまいりません。したがってものを活かす考えが浮かんできません。その間の呼吸がわかると、感謝の生活のありがたさが了解できるのです。 

しかし、一般にそれがなかなかわかりにくく、すさんだ気持になりやすいのです。要するに相互間の差を物でばかり見る結果、かくれた力などが見えず、物質的差別にこだわって満足感が起こらず、また貧欲のために欲求不満になりやすく、しかも世間には不満の声が充満しているので、ついつりこまれて不平をいう癖がついて、感謝の芽が日の目を見ないでツボミがちになるのです。 

ところが信者の場合はそういう環境にあっても、信心が増進すれば、妙法の御利益をいろいろのかたちで感得ができ、自分の使命感も悟れるので、物の裏づけがない場合でも感謝の心が持続でき、それが万事の活力の元になります。このありがたい感謝の心を起こさせるのが信心の徳なのですから、信者はそのよさを忘れず、感謝の生活を築くことを忘れぬように。 

日晨上人要語録より


家族ぐるみで

家族ともどもにとか、家族全体でという意味で「家族ぐるみ」という言葉を用います。ことに信心は「家族ぐるみ」が理想ですから、参詣も、お看経も家族ぐるみでなさいませ……と、ご披露の際にはすすめるわけです。 

あるお寺では、信者ほ毎日一万べんのロ唱を家族ぐるみでしましょう……とすすめています。五人家族なら一人が二千べんずつロ唱をすれば、一日一万べんになるという計算だそうですが、何とかして「家族ぐるみ」の信心をさせ、口唱にはげむようにさせたいとの苦心の結果打ち出されたススメ方と想像されます。 

婦人の信者で、よくご奉公もし、お教化もする人が、家族に対しては朝夕の御宝前のおつとめもやかましくいわず、放任主義の人があります。はじめはキット、アノ手コノ手ですすめたのでしょうが、思うようにならない。強いていうと家族同士がにらみ合う形になりそうで、時期を待つより仕方がないと、折伏の矛をおさめ、せめて自分だけご奉公ができれば、ありがたいことだと観念して、家庭外でのご奉公に専念しているからでしょう。実際家族はニガ手な場合が多いものです。

なかには会社で、上役には必要以上にべコペコしているクセに、家庭では御宝前にお辞儀一つしないで、ふんぞりかえっている倣岸非礼な男性もないわけではありませんから、奥さんの心配もたいへんです。しかも、子どもが成長するときまりが悪いのか、増長して信心を軽しめるのか、母親に同調しないで、反抗的なのも相当おります。ですから家族ぐるみと口でいっても現実にはそう簡単にはまいらぬのが普通でしょう。 

この頃、特に気がつくのですが、正月元旦の神社仏閣の参詣者の増加です。日頃はぜんぜん神社など顧みない人が正月は出かけるのです。しかし、最初の一回はやっても、後ほ放ったらかしです。日常の勉強とか経験の積み重ねの大事なことを忘却していて、しかも横着なやり方で満足している人もいますから、形式的な家族ぐるみも警戒を要します。 

今度の日蓮大士ご隆誕七五〇年記念の報恩教化育成ご奉公を貫徹するには、家族の信心を自覚するのが第一歩と考え、教化誓願者増加運動の一環に、夫婦や親子が組んで一戸の教化誓願を立てるようすすめております。あるいは五人家族が連名で誓願者となるのもけっこうです。

要は家族をホッタラカシにせず、家族ぐるみで教化のご奉公に関心を持ってもらおうというのです。家族のことですから逃げもかくれもしませんから、落ち着いて無理強いしたりして摩擦を起こさぬように用心し、知恵をしぼり真剣にご祈願をして「家族ぐるみ」という、理想的な家族が増加するよう気張りましょう。

日晨上人要語録より