大目標と小目標

日蓮聖人は「先づ臨終のことを習ふて後に他事を習ふべし」と仰せられ、南無妙法蓮華経と唱え死にすることを忘れるな、万一、死に際に心を迷わすと未来成仏の因縁が断ち切れ、妙法を下種されたことがむだになるから信心第一を心がけよとの御妙判です。 

この御指南には、いろいろの大切な教訓が含まれています。特に、人生の終着駅に着目して、そこへ無事にたどり着くには、どういう勉強が必要か、それを他の事より優先的に考えて実行せよという点が大事です。つまり、人生の送り方には、どこへ行くのか行き先が定まらず、ただ流れにまかせて進む型と、めざす結末を計画して、それに向かって努力する型と二種煩ありますが、その後者を選べというのです。 

元来信心とは最良の帰着点をめざして進むものなのです。その帰着点とは寂光のことで、釈尊は衆生のまことの安住所である寂光を悟ると同時に、そこへの案内書を作って私どもに示されました。ですから信心には最初から目的地がハッキリしていますが、信心以外のことは目標は立てても、それに達すれば、またその次のがあって最後の帰着点は定めがたいのです。そこが信心と世間法との違い目です。 

したがって信者の場合は、今日の生活は寂光参拝のための手段なのです。ところがその手段である生活自体がやさしいものではなく、その中に飛び込むと、沈まぬように浮かんでいるのが精一杯で、いつの間にか目標を見失う人が多いのです。そして流れにまかせた型になって、目標をめざした信者の生き方でなくなるのです。それで目標に志向するケイコを日頃から盛んにやって、無目標の暮らし方を改良する訓練をする必要があるのです。 

そこで目標の画き方のケイコですが、二十年先、三十年先を計画するのも一方法です。老後の計画を早くから考えるのもよいことです。あるいは小キザミに目標を立てるのも一方法です。 

一ヵ年の計画では長すぎて、確実に前進するのに不向きの場合もありますから、一ヵ月ごとの計画を立てた方が、むしろ実行可能かもしれません。あるいは五ヵ年計画というのもあります。十年二十年の計画で進みたいところを、一応五ヵ年計画にして、その中に一ヵ年計画や、月別の計画を盛り込んで、その実現をはかる方法です。 

要するに目標を最初に定めて、それに向かって力を結集して進むケイコです。それでむだも少なく、効果的に日々を送ることができるわけです。以上のような目標をめざす生活をしつつ、さらに信者は大目標に突進するのです。 

臨終のことを先に習えということを、よくよく考えてください。よしや生活の目標が部分的には到達できなくとも、唱え死の大目的は達成せずにはおかぬと決定するのが信者です。生死に追われて目標を忘れたり、遊ぶ方には力を入れて肝心の目標を見失っていることに気づかぬようなボンヤリでほ前途が心配です。 

日晨上人要語録より


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