修繕は貴し

「人間は病の器」といわれるくらいで、じつに巧妙にできている人体も、年中ガタがきていると申しても言い過ぎにはならぬ感じのするときがあります。表面には出なくとも、内面では、どこかが蝕まれているでしょうし、一日一日老化現象の進んでいることも間違いないことです。

諸行無常は世の常で、万事、同じ状態にあることは望めぬことですから、その変化が起こったときの対策は常に考えておくべきで、いたずらに愚痴や不平を言ったり、他のせいにして怒ったりするのは未熟な人のすることです。雨がもれば修繕したらよいのです。腐蝕していたら大手術をすればよろしいのです。修繕が不可能なら建直しを考えるのです。

いたずらに愚痴ったところでどうなるものでもありません。何とか生かすことを考えねばならぬのです。新しい材料を使って、モノを製造することは、だれでも気持のよいものでしょぅが、古いものに手を入れ、修理をしたりすることはおもしろくはありますまいし、面倒くさいといえばたしかに厄介な仕事です。利益の点からも、新製品を売る方が儲けが多いでしょうし、製造業者といえば尊敬されますが、修理業者は軽く見くびられがちです。

どうして自動車を作る人がエラクて、それを修理する人はエラクナイのであろうか。修繕業者は、ほっておけば死ぬはずのものを、よみがえらせる仕事をするのです。製造と修繕は少なくとも同格に見るのが至当なのです。ことにクツ直しなどをみくびる法なんてどうかしているのです。 

人間の場合なら、医者も立派な修繕業者です。作り出す能力は持っていません。ただぐあいの悪いところを修理する仕事だけしかできないのです。しかし世間では医者を先生として尊びます。それは人間の病痛をとる慈悲の行ないをするからです。

昔からコウモリガサの直しも、下駄の歯入れも、ものを生かす仕事にはかわりがなく尊いものでした。また修繕業者は折れたものをつぎ、サビたものはみがいて、物を生かそうとする医者の仁術に比すべきものがあるのです。しかも世人からは修繕屋として一級下のもののように取り扱われていながら、黙々と物の更生をはかっているのです。物に心があれば修繕業者を拝んでいるに相違ありません。修繕の徳を悟ってください。

妙とは蘇生の義と解釈されていることは、皆さんご存知のことでしょう。妙法とは、悪人を更生させる神通力をもった御法様ということです。女人成仏も畜生成仏も悪人成仏も二乗作仏の御利生も法華経のみが達成したものであって、他の御経では不可能だったのです。棚の隅にしまい込んであってもう役に立たない廃物を引き出して、修繕し、もとの姿に返し、立派に通用するようにする、そういう、不思議自在の働きを、ホメタタエた言葉が妙なる法、妙法と申し上げるのです。

したがって妙法の信者は修繕の徳を知る信行者でなけれはなりません。三毒強盛の人々が、信仰的には不具者であることを考え、それを修理するためのご奉公をするのが、日蓮門下のつとめだということもお互いに自覚せねばなりません。教化、折伏、参詣、助行などひとロにご奉公と呼んで日々行なう信心のつとめを軽々しく考えてはいけません。

この修繕の徳を自覚し、情は人のためならずと、菩薩行に精進する信心の持ち主が諸行無常の世に対処して妙法のヨミガエリの御利益を人々に教示し、現当の御利益を体得せしむるお役に立つ信者となれるのであって、この大果報を予想し喜び勇んで信行にはげんでください。

日晨上人要語録より


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください