甘く見るな

商売で儲けがない場合、それは一種の危険信号です。それなのに、その原因を探ろうともしないで、姑息な一時しのぎをしたり、時勢のせいにしたり、罪を他に転嫁して、自分の「まずさ」を反省しない人、こういうのを「ものを甘くみる人」というのです。 

信用問題でも、絶対に世間に信用があると称している人が、実際はないときがあります。その原因は多くの場合、その人の軽率な日常の言動とか、ハッタリの強さにあるのに、それに気づかないで自分は正しいと甘く考えているからです。どんな些細なことでも、悪い結果があらわれればすぐその原因は何だと追求し、強く自己の行為を反省する練習が大事で、そうすればたいていなことは改善されます。 

ですから、因果の報いほど正確にやってくるものはないと厳粛に考えて、善処するのが信者というものです。それを甘く考えて横着な手段で建直しの成功をはかっても、うまくいくはずはありません。 

街路で、この頃目につくものは、交通事故による死亡何人、怪我人何名という掲示です。交通禍の恐ろしさを如実に示していますが、はたしてどれだけの人が、それを見て用心する気になっているでしょうか。これこそ、本当の危険信号で絶対甘くみてはならぬのです。「山に躓かず蟻塚につまずく」という言葉もあるくらいで、小事を甘くみると、実際ヒドイ目にあいます。 

法華経には、不軽菩薩が人間を礼拝して歩いた故事が記載してあります。人間中には畜生に劣るのもたくさんいますが、不軽菩薩はその人間を拝んで歩いたのです。このことは、信心ではいろいろの意味がありますが、要するに人間を甘くみてはならぬと教えたものです。お客を甘くみると商売は失敗します。大衆を愚とする政治家は、しまいには、自分が相手にされなくなります。 

また、時間を甘くみる人も感心しません。「今日一日ぐらい」と一日を軽視したり、仕事以外の時間すなわち余暇の大事なことを忘れて、テレビなんかにかじりつくことだけしか考えぬ人は、前途が思いやられます。偉大な業績は、怠らず努力を続けるところに実現するものですから、時間を甘くみず、余暇の活用も考える人になってほしいのです。 

氷上で車を押すとき、足がすべっては、力が出ません。しかしホンのわずかな足掛りがあれば、すべらないで、力が出ます。毎日、十五分間良書を読むとか、また貯金をするとか、お看経を多くいただいて、目的に対する足掛りにすれば、大きな力が出、たいへん役に立つのです。家事や仕事の処理でも、甘くみないで、正確にする習慣がつけば、量が増えても、複雑化しても、ますます力量が発揮できます。 

不軽流を学ぶ私どもの暮らしの中でほ、物事を甘くみる「クセ」を改良しましょう。ことに信心上のご奉公に対しては、慣れれば慣れるほど、念には念を入れ、熱意をこめる工夫をしましょう。


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