ばか気たこと

世間には、ずいぶんばかばかしいと感ずることがたくさんあります。その中で、これはヒドすぎると感じたことはありませんか。

人のふり見てわがふり直せという考え方は、だれにでも共通でしょうから、ばかばかしいと強く感じたことは、いきおい、自分は絶対アノまねはしまいと思うはずです。そういう事柄に出合ったことはありませんか。

オダテに乗って喜んでいるのが第三者にばか気て見えるときがよくありますが、さてその第三者が、またオダテに乗せられる世の中ですから、ばか気たことは山ほどあるのです。

下劣なことをとくとくと自慢しているのもばか気ていますし、生意気の度が過ぎて、凡夫が仏を冷笑するような不遜なのも、寝るほど楽なものはないと、横着で世渡りできるという甘い考えの連中が、浮世のばかは起きて働くなんて変な批評をして、人生を皮肉ったつもりでいるのも、ばか気たことといえましょう。

ボスの尻馬に乗って騒ぎ回る連中、またばかばかしいのを承知の上で、仲間の仁義に雷同しているなども、どうかと思います。 

ご信心では、このばかばかしいと思われることを、除去することが大事です。むろん、妙法の御利益は、化学が進歩した時代の頭脳でもはかりがたいものがありますが、だからといって妙とは不可思議なりという神秘性ばかりを強調して、仏法は道理なりという面を隠蔽してしまうと、科学的に鍛えられている現代人には、迷信臭く感じられたり、ばか気たものと思われたりして、逆に信心から遠のかす因になる心配もあります。

第一、時代遅れとの感じを与えてしまっては、弘通上不得策です。開化第一を名乗って弘通した当宗ですから、時代の流れを凝視して、現代人を納得させる合理性とか、進歩性の大事なことを忘れてはならぬのです。 

生活建直し運動の一つのネライは、私どもの日常生活でばかばかしいと思う点を、切り捨てていく改良運動であることにお気づきでしょう。ただ、問題は何を標準にばかばかしいのと、ばかばかしくないのとを分別するかにあるのですが、私どもは、その標準を日蓮聖人の御指南に求め、その御指南をものさしにして、ばか気たことはどしどし改良し、個人の生活、家の生活を建直して安国の基礎を固め、あわせて人類安住の標本にもしようという理想をも持っているのです。

個人の謗法、家庭の謗法、国家の謗法を払い清めるのが、私どもの折伏行で、その精神を活用し、応用して生活上の欠陥を除去するのが、私どもの生活建直し運動です。したがって、これでよしという考え方を捨て、積極的に旧弊を改め、独りよがりの愚を知って、専門家などの言に傾聴し、労して効なしとか、虚礼のように、形式だけで実質のないことなど、総じてばか気たことは、断然払い清めて、世のため、人のためになろうという意気に燃えて、運動を推進したいのです。


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