食わず嫌い

食べてみないでいやときめてしまうことを食わず嫌いという。すべて物事を試みないで、むやみにきらうことをいうのです。

信心は、実行しないで、はじめから虫がすかんとか、低級であると軽視するのも、一種の食わず嫌いといえるでしょう。

たべものでも食わず嫌いでは自然、偏食の傾向となり、折角、おいしいものもたべずということになったのでは、自分の世界をそれだけせまいものにしてしまうことになります。

それと同様に、信心のことも、始めから、俺は無信心だときめている人がいます。食わず嫌いの類です。むしろ、信心しないことをインテリの特徴のように考え違いしている人もいるようです。実に浅はかな凡夫の智恵で、仏の教えを軽くみるのですから、あわれな狭い世界しか見ないことになります。広大無辺な、仏の世界をしらぬこと蟻が蟻の穴へ這い入るより外、道がないのとおなじことといえるでしょう。

お教化は彼もよろこびわれもよろこぶ、無限によい果報を招く功徳の根元です。お教化をしたことがないし又、人にすすめる気はないなどと平気で公言する人は、これも食わず嫌いの一種だと思います。

お教化したあとのよろこび、御利益の味を知ったひとは、お教化をやめよといってもやめられません。ドリヤン(南方の果物)の味をしった人は、忘れることができないでやみつきになるように、お教化は信者の御利益の泉です。

お教化には、折伏がつきものです。どういう折伏をしたら、どのような反応があるか、その折伏によって、面白いように、現証があらわれるのですから、折伏の味わいを知ったら、やめられるものではありません。やっぱり、食わず嫌いでは、それだけ自分の活躍する世界が小さいのです。大いに、教化、折伏、御奉公のうまみ味を味わってほしいものです。(乗泉寺通信、S47.10掲載)


ニコニコ美学

和顔悦色施

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原典をたしかめてはいないが、多分、雑宝蔵経に?無財の七施ということが説かれてある。その中に和顔悦色施ということがあって、ニコニコとして他によろこびの顔を見せるだけで、立派に布施の行をすることになるという意味です。

果して顔施(げんぜ)ということです。いろいろな雑誌にも書かれているので読者の方も知っていられるにちがいないと思うが、少し広く拡大して解しておきたいので、これについてのべます。

イ、お互いに顔を見合ったとき、心配そうな顔付きだと、こちらの心もそれに影響されて曇りがちとなりますが、ニコニコしていればやはりこちらまで愉快になるのは人情です。最近は車が多いのでとてもあぶないので注意しないといけないと同時に、我れ勝ちに先行しないで、人に一歩譲る気持ちで運転するのが、一種の顔施となるのです。布施行となるのです。

ロ、先輩とか同僚とかで多少、言葉の使い方のちがいはあってもよろしいのですが、朝、夕顔を見たら、先きに「お早よう」とか、「ありがとうございます」等のあいさつをしたいものです。相手よりも先に和顔を以て挨拶したら、こちらが布施の供養をしたことになるのです。内心は、俺の方が先輩だから、相手が云うまでは、知らんふりをしてようという気の小さい根性では、とても顔施の功徳はつめません。家庭内でも同様であってほしいものです。

ハ、御宝前でお看経するときの顔は、最高に、和顔を以て、口唱行にはげむのがよろしいのです。眼を閉じたり、顔をしかめたり、よそ見をしながらのお看経は、心の乱れを表現しているのです。

人間の和顔がどれほど美しいものか、そして、相互にどれ位いよい影響があるのか、ニコニコ美学を研究することを提唱します。お互いに実行いたしましょう。
(乗泉寺通信47年1月号掲載)


生き甲斐

人間と他の生き物とのちがいは、生き甲斐をもとめるか、もとめないかという一点にあると思う。人間も、その他の生き物とは本質的にちがいはないが、生き甲斐という点になると、他の生き物には一寸手におえぬ次元にぞくする。

さいきん新聞や雑誌などで、この問題が採りあげられてきた。何を生き甲斐とするかは、人によって違うのは、顔の異なるごとく当然であるが、大体、共通点をあげることができる。

人間の求める最大公約数的な生き甲斐は、極端にいうならば、幸福の追及ということにつきる。子孫の繁栄も、個人の富も、家庭の平和も、所詮は個人主義という土台の上に築かれた幸福をもとめているにすぎない。

ところが、個人の仕合せが平等に得られないで、不幸な人が一方には存在している。ということを冷静に考えていくと、個人の仕合せをもとめることが、果して、人間の生き甲斐として、価値あることなのかどうか、一抹の空虚感を消し去ることができない。

ところが、自分中心の幸福追求主義を、他人中心の利他主義に切りかえてみると、どういう現象がおこるか、これは決して、不可能なことではないので、試してごらんなさい。

自分中心の幸福追求には味わえなかった生き甲斐が感じられるのです。元来人間は、利他本意に出来ていて仕合せを感得する動物であったのに、どういうわけか、自己中心主義に軌道が変わってしまったらしい。

さいわい、法華経の極意も、実は、人を助けんとする利他的行為の中に、自らも助かるという教えが説かれている。

われわれの一挙手一投足が、利他的行為に結びつくならば、そこにすばらしい生き甲斐を発見することはまちがいないと信ずる。


朝型と夜型

手を取り合って

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受験生のある家庭や、学期毎の試験で徹夜する高校生をもつ家では、母親が、全く重労働に匹敵するほど苦労する。夜食の心配をしたり、火の仕末や戸締まりやらで、中々自分の時間が取れないらしい。


殊に、年寄りが同居している場合完全に、朝型と夜型が一軒の中に共存しなければならない。

広い住宅が東京ではなかなかのぞめないので、問題は深刻であろう。テレビなどを見て、夜遅くまで遊ぶなら話し合って改良すればいい。しかし、必要があって夜遅くなる場合、本当にその必要な宵張りを理解し、同情してやらぬと、問題はこじれる一方である。育ちざかりの子どものある場合、これも家庭内にある必要悪と認めて、割切るほかに道はないようだ。

この朝型と夜型の対立も、永久に続くものではない。特に人生のある一時期の現証と達観して、相手の立場を理解することから始めるのがよい。相手の立場が、よく解るようになれば、無理に先方を自分の方へ従わせようという気もなくなる。

一方的に、どちらかへ統一しようとすると必ず、不平や不満がおこる。従わなければ、腹が立つからだ。争いとなると、問題の焦点がそこにとどまらないで、他の問題にまで、争いが移動していく。だから、ともかく相手の立場を理解することから、更に一歩進んで尊重することが大事である。

人間は、それぞれの立場を尊重し合うようになると満足する。そこに、異質なものを認め合うようになる。となると、人間は万能ではないから異質なものを必要とするときが必ずある。その必要なときにお互いに必要なものを相互に求め合い、与え合うので、共存することができるのである。

ですから、相手の必要なものをお互いに大切に持つことが共存するための要諦であろう。


ちえくらべ

親子お寺の教区や部によっては、お年寄りの信者さんばかりのところと、子供さん連れで活気にあふれたとてもにぎやかな部とがあります。

泣いたり、お茶をひつくりかえしたりして大騒ぎとなるときもありますが、子供さん連れで若い母親が沢山おまいりして頂くのは、教務としてとても嬉しいものです。

御法門のとき、静かに聴聞させようとして若いお母さんが、やっきとなって、気をもんでいます。けれど、子供は不思議にはしやいで嬉しくてたまらぬらしく、叱られると、その時はよいが、又、すぐに飛びまわります。

 

子供の性格や、年令、性別、それに対する母親のなだめ方、そんなことがいろいろに組み合されて、千変万化の親と子の「ちえくらべ」が展開されます。

こういうとき、ハタ迷惑になるから子供を連れて母親も外に出て、御法門を聴聞しないというやり方になりやすい。これで一往の対応策としてよいように思っていられる方があるでしょう。然しこれで満点の処置といえるでしょうか。

親と子のちえくらべでどちらが勝ったと判定しますか。少し工夫して、智恵を働かせて子供を静かにさせ、自分も御法門聴聞し、他の人にも迷惑をかけない方法を工夫したとき、親と子のちえくらべで、親の勝ちといえるのです。

事前に子供によく話をしておくか、御祈願しておくとか、何か静かにしていられるような本を与えるなどして、工夫してはどうでしよう。只連れて行かなければそんな心配もないかわりに、法灯相続への道も遠のくのです。なんとしても連れてお参りして、しかも、うまく聴聞させる工夫が肝心です。(昭和44年11月号、乗泉寺通信)


教育ということ

家庭の都合で、全く学校へ行けなかった人、小学を中退、退学した人々のため、大阪に、夜間中学がつくられたそうです。創設者の苦心談や、夜間中学で学んでいる人達のよろこびや、悲しい過去の体験などを、NHK の朝の放送で、見た人は、皆、感動させられたことと思います。
教室
こういう人々が、全国ではまだ140万人もあるそうですから、少しでも早く、もっと多くの人々が教育を受けられるようにしてあげたいものと切望したい。

ただ、この放送を見て私が感じた事は、教育という問題を、あらためて考えさせられたということです。

昼間は働きながら、夜間中学に通って学ぶ人々が、いかに真剣であるか、体験した人の語ることからも、十分想像されます。

黒板に走らせるチョークの音のみが、よくきこえ、教室では、息づまるような真剣勝負の緊迫した空気で、居眠りは誰一人しない、せき払いもしないという。これほど充実した教室は、親のすねをかじって、ぬくぬくとした環境で昼間学校へ通っている恵まれた人々には、一寸想像できないのではあるまいか。

勿論生徒ばかりでなく、教える先生の方も、真剣そのもので、解るまで丁寧に教えていく、つまり、教える側と教えられる側との呼吸が、ピッタリ一致したときに、教育の効果が、おどろくべきスピードで発揮される。

食欲のない人に、いくら物を食べさせようとしても、効果がない。と同様で、学ぶ意欲のないものにいくらやれといっても、全く教育効果があがらぬ。

教える側と、その態度が悪いと、ツイ教える意欲を失ってしまいます。勿論どちらかが一方的に悪いということは考えられません。相方ともに、通共の責任があるわけです。どうして意欲を起こさせるかは、教育にたずさわるものの心をひどくなやます、教育の根本問題だといえるでしょう。

昭和44年8月 乗泉寺通信


つかのまの生命

ちかごろは環境衛生がよくなったので、蚊や蠅が以前よりは、すくなくなったように思う。しかし、全くいないというわけではない。その反面、ごきぶりは、台所を主として、いたるところにふえているようだ。

これらは、人畜にたかって、その血を吸う。当然、伝染病を媒介する。人間にとって、まことに有害なむしけらである。血を吸う雌と、そうではない雄との見分けはつかぬので、蚊がとまればピシリとたたく。彼等にとっては致命的な一撃である。ほんの、つかのまの生命だ。

ふりあげた手をとめて、ほんの一瞬、これは雌か雄かと考えて、人間に無害な奴なら、たたくのをやめて、フッと吹きとばしてやろうかと思う。が、次の瞬間、心に何の痛みもおぼえぬまま、一打ちで蚊を打ち殺してしまう。人間の立場から考えれば、罪でもなんでもない極めて当然なことにちがいない。

しかし、蚊の立場になって考えてみると、一寸の虫にも五分の魂で、殺される方にとっては正に一大事にちがいない。人間が虫けらを一撃のもとに打ち殺すように、もっと大きなものから、人間が虫けら同様、一撃のもとに打ち殺されることはないのかと反問してみる。こう考えてくると、背筋が寒くなるような思いがした。人口の密集している大都会に、大震災がやってきたことを想像してごらんなさい。

つかのまの生命を、次の瞬間に一撃のもとにうばわれるとも知らず、吸血している蚊と、われわれ人間と何程のちがいがあるのだろうか。つかのまの生命だからこそ、貴重なりという自覚が生まれてくる。しかも、それは自分のものではなく、与えられている生命であること忘れてはならない。

昭和48年10月 乗泉寺通信


今でも感謝申し上げております

日慶上人
ありがとうございます。
日慶上人の思い出をつづらせていただきます。

今から六十数年前、我が家は都電が通っていた中目黒の駅前にありました。

上人がまだ目黒方面をお受持になられた頃、お友達から自転車が送られたそうです。

中目黒から乗泉寺までは坂道がきつく、上人が御奉公からお寺に帰るのが大変という事で、我が家に自転車を置かして下さいと申されましたので、お預かりしておりました。

御講等へ向かわれる時に家へ寄られ、自転車に乗って御奉公へお出かけになっておりました。そしてお帰りの際には必ず自転車を置きに来られました。その時に、上人の大きな身体、大きな手で、幼い私の頭をなでて下さる優しいお講師で「南無妙法蓮華経と沢山唱えてから食べるんだよ」と言って、上人が頂いたお菓子等をお分け下されました

私はそれがとてもうれしくて、約束したお看経をしてからいただきました。その時の上人の優しいお顔は今でも思い出します。幼い子供にもお看経の大切さをお教え下さった事、今でも感謝申し上げております。ありがとうございます。(K.S)

日慶上人御13回忌思い出集より


直道抄(1)

御教歌
罪深き 人といふのは 仏説を
 かろしむる故 信ぜざる也

私どもは、常々、ご信心の修行によって自らの罪障を消滅していかねばならない、とお教え頂いております。お看経のたびごとに「無始已来謗法罪障消滅」とお唱えしますように、凡夫は誰でも、前世から、上行所伝の御題目のみ教えに背いてきた罪を背負っているのです。

方便(仮)の教えを捨てて真実の佛立信心をさせて頂くことが、この罪障を消滅出来る唯一の道なのです。しかし、罪障が深いということを自覚するのは、なかなか難しいものです。私どもは、物事が自分にとって都合よく進んでいる時には、油断をしてしまい、反対に、思うようにいかない時にはあきらめてしまいやすい傾向があります。

そのため、せっかく御題目口唱に励みながらも、不平不満を言ったり、我を張って自分の考えを押し通したりしてしまうことも少なくはありません。このように、末法の凡夫は、罪障の故に仏様のみ教えをなかなか素直に受けられず、結局煩い悩むことが多くなってしまう、という悪循環を生じやすいのです。

これを解消するには、まず、お懺悔をさせて頂かなければなりません。私どもの罪障は、自分でも意識することができないほど奥深いものでありますから、毎日「無始已来謗法罪障消滅」とお唱えし、御題目口唱を重ねることによって、自分には間違いがない、という慢心を抑えてゆかなければなりません。そして、素直な心でお参詣、御法門聴聞、そして化他行へと気張り、また、職業等世法の面も全て信心増進につなげてゆく工夫が必要です。 

例えば、重病で医師に見離された人が、決定してご信心一筋に励んだ結果回復した、という場合などは、信行の功徳による定業能転としか言いようがありません。「道の源、功徳の母」と言われるご信心に全てがつながってゆけば、善い種が善い結果を導くという望ましい循環の輪の中へ入ってゆけるのです。

開導聖人はお書き添えの御指南に
「謗法を佛説に背きながら懺悔改良せざる所は、諸天のにくみ給ふところ也 故に守りなし」と仰せになっています。み教えからはずれているようなあり方を懺悔、改良させて頂かなければ、御宝前からご守護を蒙ることもできるはずがありません。

私どもは、あらゆる事象を信行へと結び付けるならば、現世における御利益、そして臨終の際の寂光参拝という大果報を頂戴できるのです。せっかくそのような最高・真実の御法にお出会いしたのですから、どのような時でも懺悔、改良を忘れず、罪障を消滅し功徳を積んでゆくため、み教えの通り精一杯御奉公に励まさせて頂くことが肝心です。


直道抄

佛立第二十二世講有・乗泉寺第二十一世住職、日慶上人の御13回忌法要を、来月10月22日に渋谷・乗泉寺において厳修させていただきます。日慶上人は、乗泉寺を正常化された大御導師です。そのご恩を思い起こす一助として、上人がご執筆になれた直道抄を本日より数回にわけて掲載させていただきます。

日慶上人
御教歌

何もかも みなよいことヽ かはりゆく
世は人につれ 人は世につれ

私どもが裟婆世界において生きてゆくうえで、御題目様から頂ける果報の見出し方をお示し下された御教歌です。 


世の中が時々刻々変化してゆく無常の中で、その変化に対応しつつご信心をお持ちすることが、私どもにとって大切なのです。
 

御教歌の下の句に「世は人につれ人は世につれ」と仰せのごとく、世の中の変化というものは、人によってもたらされる部分が多く、また逆に、科学や経済等の発達に伴って人々の生活様式が変わってゆくという面もあります。しかし、世の中が変化してゆく状態を的確に把握して対応をはかるのは、なかなか難しいことです。

例えば、医学の進歩によって、ひと昔前には救い得ないとみなされていた病気を治すことが可能になったような例もありますが、一方では、延命措置や脳死判定、あるいは薬の副作用等の新たな問題も生じております。恐らく、誰もが予期することのできなかった問題でありましょう。

このように、私どもが住む裟婆世界における出来事は、どこまでが確かなものであるのか、見きわめがつきにくい事柄が多いようです。そのような中で私どもがお持ちしてゆく、本門肝心上行所伝の御題目のご信心は、口唱信行によって功徳を積み、その功徳から身付きの果報が得られることを教えて頂くものであります。

殊に、変化の多い世の中では、その時に応じた物事への対応力とでも呼ぶべき果報を頂くことができるのです。すなわち、何事もご信心第一にさせて頂けば、世の中に何か変化があっても、その弊害を受ける度合いが少なくなる、ということです。

このような、変化に対応できる御利益を蒙るために必要となるのは、御宝前のお導きに全てをお任せしながら、日常信行を着実に積み重ねてゆくことです。この「お任せ」の信心によって物事を長い目で見て、御奉公を続けてゆく間に、世の中の変化に気付いて、もっとご信心に励まなければ、と自覚を深めたり、或いは変化の多い世の中でも御利益を頂いて、更にご信心への随喜を深めてゆくことが、善因善果のあり方に結び付くのです。

具体的に申しますと、自宅において、毎朝のお看経の際、今日無事で過ごせますように、とのご祈願をさせて頂くことは、世の中の変化に対処してゆけるようなお計らいを蒙るためのご祈願につながります。そして、夕方のお看経で商売繁盛等の御礼をさせて頂ければ、商売等をなお一層継続できますように、とのご祈願に結び付いてゆくのです。

したがいまして、私どもは、凡夫考えでご信心をおろそかにしたりせず、世の中の変化に応じた御利益を蒙ることができるよう、日常信行に怠りなく励まさせて頂くことが肝心です。