食わず嫌い

食べてみないでいやときめてしまうことを食わず嫌いという。すべて物事を試みないで、むやみにきらうことをいうのです。

信心は、実行しないで、はじめから虫がすかんとか、低級であると軽視するのも、一種の食わず嫌いといえるでしょう。

たべものでも食わず嫌いでは自然、偏食の傾向となり、折角、おいしいものもたべずということになったのでは、自分の世界をそれだけせまいものにしてしまうことになります。

それと同様に、信心のことも、始めから、俺は無信心だときめている人がいます。食わず嫌いの類です。むしろ、信心しないことをインテリの特徴のように考え違いしている人もいるようです。実に浅はかな凡夫の智恵で、仏の教えを軽くみるのですから、あわれな狭い世界しか見ないことになります。広大無辺な、仏の世界をしらぬこと蟻が蟻の穴へ這い入るより外、道がないのとおなじことといえるでしょう。

お教化は彼もよろこびわれもよろこぶ、無限によい果報を招く功徳の根元です。お教化をしたことがないし又、人にすすめる気はないなどと平気で公言する人は、これも食わず嫌いの一種だと思います。

お教化したあとのよろこび、御利益の味を知ったひとは、お教化をやめよといってもやめられません。ドリヤン(南方の果物)の味をしった人は、忘れることができないでやみつきになるように、お教化は信者の御利益の泉です。

お教化には、折伏がつきものです。どういう折伏をしたら、どのような反応があるか、その折伏によって、面白いように、現証があらわれるのですから、折伏の味わいを知ったら、やめられるものではありません。やっぱり、食わず嫌いでは、それだけ自分の活躍する世界が小さいのです。大いに、教化、折伏、御奉公のうまみ味を味わってほしいものです。(乗泉寺通信、S47.10掲載)


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