慈聞抄

御教歌

仏前の 香花燈明(こうげとうみょう) ふき掃除

 すればわが身の 福徳と成(なる)

 

 お互い御同前の生活の中心は御宝前です。御宝前は、家の柱、身の柱、御宝前にお仕えさせていただくことにより、くずれない幸せを自分の身に感得できます。法華経の法師品には、花(け)、香(こう)、瓔珞(ようらく)、抹香(まっこう)、塗香(ずこう)など十種供養が説かれております。信心の基本は身口意の三業にわたり御宝前にお給仕させていただくことにあります。

 身の供養=御宝前のお給仕、お清めの御奉公、お祖師様のお住まいをつねにきれいにする。お初水をとり、お花をあげ、新鮮な食物をお供えしましょう。

 口の供養=御題目口唱、ご法味をおあげする。朝夕勤行怠らず、口唱の音声を絶やさない。御供水をいただきつつ口唱行にはげみ、口唱の味を体で憶えてください。

 意の供養=御法を敬う。供養、恭敬(くぎょう)、尊重(そんじゅう)、讃歎(さんたん)して、尊敬と感謝のこころをもっておつかえすること。

 また、亡くなった人の冥福を祈るときには、追善供養が大事です。ご冥福とはあの世へ行っても幸せになることを祈るという意味です。

 御宝前を中心としてお祖師様に喜んでいただこうと信心修行にはげみますと、福徳という果報を得ることができます。福徳には二つの意味がこめられております。

1・体のお計らいをいただく。たとえ体が弱いなら弱いなりに長く命を全うすることができます。御題目を全身で唱える。お寺参詣、お講参詣にはげみますと、経力で知らず量らずのうちに体が丈夫になってきます。妙の力によって駄目が駄目でなくなります。

2・御奉公が楽しく喜んでさせていただけ、億劫がらずに積極的に前向きに明るくなります。陽気に生きがいをもって毎日を暮らすことができます。御奉公という動きのなかに喜びが涌いてきます。一日に一回は親から頂いた二本の足を使ってお寺参詣にはげんでください。

 信心が研ぎ澄まされますと、目に見えないものが見えて来、今まで分からなかったことが分かってきます。信心の眼(まなこ)で見ますと、功徳を積むことの大切さ、と同時に罪障の恐ろしさを感得できるようになります。信者成佛、謗者堕獄という言葉の重みを実感できます。

信心は机の上、書物の中にはなく、一人一人の心の中に涌いてくるものです。書物もそれなりに信心増進には必要ですが、上手に活用をしてください。今は紙の洪水でして印刷物が多いですが、願わくば書物は紙の起爆剤となって、信智増進に役立てば結構です。なかでも御利益談を読み聞かせてください。

信心教育は一対一が原則です。一人一人に丁寧に、きめこまかく、親切心と思いやりといたわりの心をもって、時にはきびしく、育成にはげみましょう。時間がかかります。あわてず、あせらず、あてにせず、ということを心がけてください。

「故に信心は、机の上、書籍の中になし。唯(ただ)、人の心の中に起る信なれば、信の一時栓也と。」(小児含乳歌・扇全11巻235頁)

ところで、気象用語でいう「三寒四温」をもじって、「三感四恩」という言葉もあります。

「三感」とは感謝、感激、寛容。特に近頃は、ありがとうという感謝の心が薄らいできました。

「四恩」とは親の恩、師の恩、友人の恩、社会の恩。恩という字は因(もと)の心と書き、人間として基本的に守らねばならない大切な心です。恩とはめぐみということ。

今日生きているのも、多数の人々によって生かされて生きているという自覚を持つことが大切です。


精進の徳

御教歌:よしあしを 世のうき草と よそにして たゆまずのぼる 法の川舟

 船が川下から川上に上る時、川にはえている「よし」や「あし」などの浮き草に気をとられることなく、ひたすら、たゆみなく上流を目指して船をこいでゆきます。世の毀誉褒貶に一喜一憂せず、ご弘通一筋の道を歩み続けることが肝心です。

 朝詣りにしても、それが身について喜びとなるまでには月日がかかります。「いやいや、こつこつ、にこにこ」の繰り返しで、家を出る時には気がすすまなくとも、お寺で口唱と御法門聴聞して、仲の良い信者と雑談、帰りぎわには喜びに満ちあふれる場合があります。自分の怠け心に打ち勝って御参詣の喜びを感得致しましょう。

 およそ人の世の幸不幸は、人と人とが出会うことから始まります。よき人との出逢いは幸運をもたらします。よき人とは佛立菩薩道を実践している人です。たえず、信心を励ましてくれる人との付き合いは大事にしましょう。信心は生きもの、一寸の油断もできません。休むと休みぐせが付きやすいです。

 信心には横の面と縦の場合とがあります。横とはお互い同信のつき合い。信者同士のつき合いは長いですからそれだけに、一回一回、礼儀正しく丁寧に、言葉や態度にも気配りが大事です。家庭内のことや自尊心を傷付ける言動は避ける、過去の暗い出来事にはふれない、などの配慮をせねばなりません。案外、人には言われたくない、見られたくない所があるものです。

 古人に、「裏を見せ表を見せて散る紅葉」という歌がありまして、常に物ごとには表と裏、相反する両面が存在します。美しい面ときたない面、人の幸せを喜ぶ心と人の幸せを妬む心、勝てば官軍 負ければ賊軍、というのもあれば、負けるが勝ち、損して得取れ、すべてをつかめばすべてを失う、失敗は成功のもと、などどちらも大事でして、物事は一方的に結論を出すわけにはゆきません。お互い御同前は、信心という土俵の上で物を考え、話し合い、実行しましょう。土俵からはずれると具合が悪いです。

 御教歌:講中を たがひにすゝめ はげまして 御恩報じの 奉公をせよ

 また、縦の関係とは御宝前と自分とのことです。佛さまの無限の慈悲や恵みを拝受するという信心前が大事。冥の照覧を信じて、蔭日向なく御奉公に精進、地道で真面目な努力、善因善果、悪因悪果を心得てよい種まきに努めましょう。

 御教歌:大かたは 人めつゝしむ ばかりにて 冥の照覧 おもはざりけり

 ところで最近は命の大切さが叫ばれております。かけがえのない尊い命。一回しかなく逆もどりできない命ですから、一日一日を大切に輝いて生きることです。今日より若い日はありません。たとえば六十歳になったら六十歳の新入生。失ったものを数えるより、残った時間を生かしましょう。恨みは川に流し、恩は石に刻むことです。過ぎ去ったいやな思い出にひたるより、新しい人生を切り開きましょう。

 「鶴は千年、亀は萬年。我は天年」でして、天年とは天が与えてくれた命を全うすること。毎日、自分なりに信心の歴史を築きあげてゆく、日々を楽しんで御奉公させていただいて下さい。

 「講中の御奉公というは、御講つとむると、参詣と、講内の折伏と、毎日の御看経と、助行とに身を労し、心を尽すより外御弘通の御奉公と申ことはなきものをや」                   (名字得分抄・下 扇全14巻149頁)

 

 

 


後続者養成

御教歌:ふるひにも あたらしいにも よらぬもの 信者は利益 あらはしにけり

(本尊抄会読・扇全6巻143頁)

ご信者にとって大事なことは、御利益のいただきかたを知ること、逆に最も恥ずかしいことは、それを知らないことです。「信者成佛謗者堕獄」は当宗の鉄則でして、素直正直な信心の所には必ず佛の慈悲の恵みが流れてきます。「御利益に配達なし」でして、つねに口唱の御法味を絶やさない、同時にお寺参詣を欠かさない、これが必須条件です。佛さまの慈悲はだれかれの別なく平等で、古い信者も新しい信者も差別しません。そこで古い信者の大事な点を列挙してみます。

①まず、後に続く人の為に模範を示すべきです。何十年という信心の歴史を積んでおりますので、その精神を活かして、明るく楽しい信心に徹してください。先輩の信者の背中を見て、それを手本として後輩の人が育ってきます。信心が古くなりましたら、「自信と勇気と希望とをもって」信心の尊さや御奉公の喜びを後に続く人に説いてください。これが大事な御奉公です。

②後続者育成の使命があります。人を育てる為には年月がかかります。根気強く、しかも親切心をもって、きめこまかく指導してゆかねばなりません。教えて、つきはなして、抱きかかえる、これの連続です。教育とは教え育てる、この二つは一体でして、信心教育には、負けん気と根気と慈悲の三要素が必要です。

○「当講内は初心の人をそだつるを第一と心得べき也。初心が後心になるもの也。謗法あらば、あらく呵責せず、よくわけのわかるように説き示すべし」

(青柳厨子法門抄第二・扇全3巻11頁)

③「古法華利益なし」という場合の古いというのは、お看経があがらないことです。口唱なしで御計らいをいただくことはできません。いいかえれば、口唱、参詣を怠るからです。

それにひきかえ、新しい信者はよく教務さんや先輩のご信者の指導を仰ぎ、御奉公の仕方を憶えてください。自分なりに、信心の歴史を築きあげてゆきましょう。思いがけない出来事に遭遇した時、御法におすがりして、一つ一つ問題を解決し、充実した信心生活をつらぬき通してゆかねばなりません。信心には現証入の信心と法門入の信心とがあります。病気全快、家庭円満、心願成就などの現証をいただいた信心は根が張って磐石です。

○「現證入の信者は真実の信者にて、人の言葉に動く事更になし。法門入の解者は信心定まらず」

(十巻抄第三・扇全14巻412頁)

○「現證の事は当講始より明治廿三年迄。三十四年め也。其間に見聞する現謹は九死一生の病、難治に定たる病、又は大工、手傳、車引、ヤケド、ケガ、公事訴訟事、何によらず、可不思議、奇妙の御利益を蒙りたり事、見る事、聞く毎に、清風は驚き感心せざる事なきが上にて。」

(十巻抄第三・扇全14巻412~413頁)

現今、見聞いたしますと、借金の山、ゴミの山、犯罪の山、増税の山、それに愚痴の山という山ばかり。物で栄えて心でほろびるとも言われます。それにつけてもお互いは蓮華人となって、泥中に美しい花を咲かせるべく、一日も長生きして妙法弘通に精進しましょう。口唱と朝参詣は信心を育てます。そのうえ御法門聴聞によって信心を引き締めてください。信者は他の人とともに、他の人の為に御奉公に励みましょう。養生の基本は快食、快便、快眠にあることを肝に銘じてください。

○「如何程の善人学匠にても化他弘通の志なき者は不成佛也。如何なる愚者女人にても化他の心あるは菩薩也。如来の御使也。」

(暁鶏論・中、扇全11巻108頁)

御奉公の意はお祖師さまのお使いに徹することです。

自分を忘れてお使いさせていただくのですから、自信と勇気とをもってください。「己れをすてて他を利するは慈悲の極み」ですから、無私に徹し、無我の愛に生きましょう。


功徳の花で身を飾る

御教歌:信心を すゝめんと思ふ こゝろこそ そこが功徳の わく処なれ

 (末代幼稚信要学・扇全12巻337頁)

 当宗の信心は御題目で人を助け、人の幸せを心から喜び合うことで、その意がたえず根底になければなりません。自唱他勧と申して、自分も唱えると同時に人にすすめる為の口唱、いわば、弘める為の口唱行です。

 ○「我本行菩薩道文菩薩道の御時が信行也。信行が菩薩行也」

 (末代幼稚信要学・扇全12巻336頁)

 信心の強弱をどこにおくかと申しましたら、功徳と罪障とをはっきりと峻別することができることにあります。功徳になることを考え出し、更にそれをおしすすめる時の喜びと楽しさを感得できる、これが信心の強さと申せます。一人一人に御題目の尊さを足を運んで自身と勇気と希望とをもって語りかける、これの繰り返しが菩薩道であり、功徳を生み出す源泉です。功徳というのは、教化折伏という下種の信行の中に、自ずから湧いてくるものです。

 当宗の信心修行は、給仕第一、信心第二、学問第三。これは単に順序をいうのではありません。まずお給仕が根本です。お給仕させていただくうちに信心がおこってきます。すると、その理論づけとして知識なり、知恵なりを求めようとします。給仕とはつかえることです。最初に御宝前につかえ、次に教務につかえ、更に同信の信者につかえる。何はともあれ、お寺の御宝前におつかえする。お寺参詣、これが基本中の基本です。特に朝参詣が大事。生涯参詣を心掛けましょう。お寺参詣をつづけていくうちに信心の芽がめばえ、弘通意欲がおこってきます。

 全人教育といって、人間全体が佛立菩薩に変わってこなければなりません。善聴参詣に励み、心の庭の手入れをして、心の雑草を抜き、美しい花を咲かせて下さい。「心に喜び、顔に笑い、かわす挨拶、ありがとうございます」という佛立信者の日常の生活態度を身につけましょう。人への思いやりやいたわり、優しさという崇高な心が生じてこなければなりません。

 「法は人によりて弘まる」と申します。法それ自体が自ずと弘まるのではなく、それを持っている人柄を通して法が弘まります。あの人のしている信心なら本物であり、困った時には必ず救って下さる、という期待と希望とをもって信心の門をたたきます。従って教化親の人柄が大きな要素と申せます。特に人徳が大事、たえず心を磨く、これは一生の課題です。まずはお寺の御宝前にお詣りして、身体の健康と心の掃除に専念して下さい。

 御教歌:あの人は 信者でありし ひとのため 手本となりて 名で教化せよ

 御講尊日晨上人からは計り知れない程の御慈教を賜りましたが、そのなかでも特に印象に残っていることを二つだけ述べさせていただきます。

 (一) 御弘通家でした。たえず法を弘めることを強調。現状維持は破壊に通ずと、問題意識を楽しんで明るく前向きの姿勢で教化に専念され、たえず厚い壁を乗り越えて前進また前進、終わりは次の始め、と停滞は許されませんでした。次から次へと新機軸を打ち出し、励まされました。休みなしです。

 (二) 分からせる努力を怠りませんでした。佛立宗の教えをかみくだいて、平易な言葉とやさしい文章で御教導下されたのです。あたたか味のこもった言葉使いとへり下った態度、特に信者の一人一人を大切にされ、「信者は宝物だよ」と申された言葉は今も強く印象に残っております。

 「人の苦を助けてたのしみとし給ふは菩薩の御心也。故にきゝてもたのしく、うれしきもの也。信者御利益談を喜ぶは菩薩也」 

 (開化要談・教、扇全14巻37頁)

 


今年こそ

御教歌:あらためて ことしこそはと おもふらめ やすまずあゆめ 信行の道

(てこのかたま・扇全15巻141頁)

 新しい気持ちをいだいて、精一杯心をこめて御奉公にはげみましょう。たえず、これからどうするかという問題意識を楽しんで、前進また前進させていただくこと。人生は決して穏やかな日々ばかりではなく、波風の激しい時もありますけれど、それを乗り越えてゆく所に生きがいを感得することができます。

コップに水が半分入っていた時、“あと半分しかない”というのと、“まだ半分ある”というのとでは考え方が異なります。“しか”と“まだ”との相違ですが、“しか”というのはなかば諦め気分、それに対して“まだ”というのには積極的な前向きな意欲が感じられます。私達は年齢を重ねても、つねに空老から実老へ、苦老から楽老へと変えてゆかねばなりません。

 お互い御同前は、周囲を明るく灯し続けつゝ、自分の身をちぢめてゆく、いわばローソクの火に譬えられます。特に「陽に説け」と教えられておりますので、陰気で暗いというより、陽気で明るいということが肝心です。それには、口唱と御法門聴聞とかたり好きの三好きの御奉公に励んでください。

 ① まず、口唱が肝心。当宗は口唱の味を身で体得することです。朝夕勤行怠らず、特に朝の御看経を重視しましょう。朝参詣に励むこと。特に一日に一回はお寺の御宝前にお参りすることです。お寺での口唱は弘通が基本です。一年に一戸の教化が授かりますようにと、お祖師様のお袖におすがりするという思いのこもった口唱に励んでください。

自分の頭の上のはえはお祖師様に払っていただくことです。そうすればおのずから罪障消滅の御計らいがいただけます。お寺は弘通の道場ですから法を弘めるという下種折伏が口唱の根本にならなければなりません。

 ② 御法門聴聞に心がけましょう。善聴参詣で聞き上手になって、自分自身の身にあてはめて、信心の洗い直し見直しをし、信心の垢をおとし、信心の改良につとめましょう。

 ③ かたり好き。良い話を人に話すこと。御利益談を喜んで伝えること。これが信者の大事な御奉公です。信者が集まったら、信心の尊さ、御利益の喜びを話し合ってください。得てして「好事門を出でず。悪事千里を走る」と申して、根も葉もない噂話だけが一人歩きして、人から人に伝わりやすいですから気をつけましょう。

  「只、御題目の唱へずき、御法門のききずきになりて、御利生を人にもかたりずきになって、今度の一生は日蓮大士の御弟子旦那の御奉公をたのしみに、しとげ給え。」

(安楽教導抄・扇全5巻45頁)

 


罪障消滅とは

御教歌  折伏を すれば我身の つみ滅す   所願成就 これが肝心

〔百座法門・四、扇仝12巻248頁〕

 お互い御同前は、御看経の時、無始巳来の御文を言上させていただきますが、そのなかで罪障消滅の御祈願を致します。罪障は御利益をいただく障りとなります。そこで、罪障を大別すると、身と口と意の三業に分けられます。

① 身体の罪障。無病息災というのは言葉の上だけで、お互いは病の器でして、幼児期、青年期、壮年期、老年期、それぞれの時期に特有の病を持っており、それを一つ一つ克服してこそ長寿を全うすることができます。特に入信の動機は病気が多いです。

「病によりて道心(信心)はをこり候か」(妙心尼御返事・昭定1103頁)と御妙判に仰せの如く、病気になって始めて健康のありがたさを痛感します。身が不調になりますと、健康の喜びが分かります。健康にまさる幸せはありません。入信の門は「病貧争死」です。

②跳の罪障。言葉の働きには功罪がはっきりします。「口唱」とか「折伏教化」という時には功徳が積めます。黙っていて教化は決してできません。信心の喜びや尊さを人々の心に植えつける。

信心の定規をあてはめて相手の人生観(物の見方や考え方)を変えてゆく。敵を味方にする。これが御奉公の根本精神です。説いて説いて説きつくす。これの繰り返しが教化運動です。

その反対に、あらぬ噂話を流したり、信者同志の欠点をせめたてたり、時には、自尊心を傷つけるよう言動、全人格を否定するような無責任な発言、それによって言われた人の心に深い傷をつけてしまったら、これは大きな罪障をつくることになります。

「舌根斧を生ず」で舌のはたらきが功徳の根をたちきってしまいます。短所を指摘するより長所を見つめましょう。③意(思いかた)の罪障。上手な思いかたと下手な思いかたとでは天地の相違があります。

根本の罪障とは思いかた如何にかかっております。前向きで明るく、これからどうするという問題意識を楽しむこと。常に周囲にほほえみと暖かさを与える、おもいやりやぬくもりが大切です。たえず、人の幸せを喜び合うことです。

共歓共苦の精神を持ちつづけましょう。その逆に、冷たく、すぐに人をつきはなしたり、陰気で暗く、しかも皮肉と嫌味の性格の持ち主、しかも、無知、無能、無責任、特に都合が悪くなると、すぐに責任転嫁、それに加えて欲望肥満症、これでは周囲から敬遠されます。この身口意の三業にわたっての罪障を消滅する為には教化折伏が第一です。

「門祖日、我身罪障消滅の為には折伏第-也と、折伏せぬは無慈悲の第-也」

    (開化要談・教、扇仝14巻21頁)

教化折伏により、おのづから自分の罪障がおさえられます。教化子を一人授かり、育成の御奉公にはげみますと、教化親の信心が磨かれます。教育とは教えることと育てること、この両方に調和をとってゆかねばなりません。

あせらず、あわてず、あきらめず、こつこつと地道な努力が必要です。決して、すんなりと順調に物事がはこんでゆくものではなく、まさに山あり谷あり、晴れたり曇ったり、またはどしゃぶりであったりします。

入信したての信者が役中になる為には、それなりの時間と手間ひまがかかりますので、長い目でみて、周囲からあたたかく、援助の手をさしのべて下さい。何よりも思いやりと親切心が大切です。口唱と参詣が大事です。

特にお寺参詣を強調しましょう。一日一回、お寺の御宝前にお詣りする。これが身につきますと、身付きの功徳となって、くずれない幸せをいただくことができます。まさに、「継続は力なり」です。

 「然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定て今生-世に消滅すべきか、弼(いよいよ)はげむべし、はげむべし」

                   (四條金吾殿御返事・昭定1801頁


部長の御奉公

御教歌

一組の 長なる人は 其組の をこたりせむる 役めなりけり

部長の御奉公で大事なことは部内信者の懈怠をせめあうことです。懈怠即謗法でして、油断しますとすぐに怠け心が頭をもち上げ、怠けぐせがつきやすいですから、たえず、部内信者の一人一人にきめこまかく、丁寧に、御奉公を指示しましょう。信心は生きもの、少しでも手をゆるめるわけにはゆきません。

終わりは次の始めで朝参詣、日中参詣、御総講参詣、御講参詣、他寺院参詣などなどありますので、喜んで積極的におしすすめて下さい。信者が集まったらこの次の御奉公を話し合い、これからどうするという問題意識を楽しみにしましょう。

「流水腐らず」で、たえず動きつづけることです。安定というのは動きが活発であることで、自転車も走っているから倒れないのです。動きが止まりますと、信心がにごってきます。

よく異体同心ということを申しますが、字句の解釈としては体が異なっていてもお祖師さまの心と一つになることですが、具体的に言えば、お互いに折伏し合っても、お互いの関係がくずれない、こわれない、はなれないということです。 絶えず、はげまし合う、これが異体同心でして、たんに仲が良いというだけではありません。

「信徒の中の謗法は懈怠なり。懈怠を責め合ふを当講繁栄の基本となす。いか程御法門しりたりとて、懈怠を責めぬ人は悪人也。御弘通を思はぬ人也。」

ところが、折伏をさせていただきますと、怨まれたり憎まれたり、いわば怨嫉がおこりますので、それに耐える為には、「忍の一字」に住する場合もあります。決して弘通は平坦な道ばかりでなく、雨降りや山坂の時が多く、まさに、憎まれ憎まれて繁昌する大法です。

部長が積極的に前向きで、しかも陽気で明るいと部内に活気が出てきて発展してきます。部長の御奉公は体に誓えますと、足の裏の存在です。体全体を支えております。お寺全体を支えているのが部長の御奉公ですから責任重大です。

教化、参詣、助行、御講、御有志など、いろいろの御奉公がめじろおしに山積しております。毎月発表される弘通方針を理解し、絶えず部内の人々に周知徹底しなければなりません。人に折伏するのは自分の心に言い聞かせることです。

声に出してはげますのは自分に対する折伏です。御看経をし経力をいただいてから折伏しましょう。自力ではだめです。「教えるは学ぶの半ば」と申します。お祖師さまは、「我日本の柱とならん。我日本の眼目とならん。我日本の大船とならん」

と仰せられておりますが、この三大誓願を自分自身にあてはめて、部長は部内においては、柱であり、眼目であり、大船です。柱とは支え、眼目とは正しい方向を指示することで、大船は寂光に導くことです。

従って、部長は自信と勇気と希望とをもつて折伏にはげみましょう。折伏は慈悲の最極です。お祖師からお預かりしている信者一人一人に信心の魂を植えつける、これが部長の役目に外なりません。

「一切善根中の善の第-は折伏の大慈悲也。」

 


信眼を開く

御教歌:信心の まなこひらけば この娑婆が 即寂光と みえわたるかな

 (受持即身成仏義・扇全5巻402頁)

 信心の眼が開かれてきますと、見えないものが見えてきて、今迄分からなかったことが分かってきます。功徳と罪障、つまり功徳の尊さ、罪障の恐ろしさを感得でき、善因善果、悪因悪果という鉄則を理解できるようになります。

 人を喜ばせたら自分が喜ばれる。人を泣かせたらいつかは人に泣かされる。人を敬えば人から敬われる。あたりまえのことのようですが、なかなか分かりにくいです。親の因果が子に報いる、と申します。

「天網恢々、疎にして漏らさず」という諺があります。天は大きな網を張っており、その網は恢々、いかにもあらいように見えますが、何事も決してもらすものではありません。長い目で見ますと、よい人には幸を授け、悪い人は不幸を免れません。

因果の道理は直接目に見えたり、耳に聞こえたり、匂いをかいだり、舌で味わったり、身に感じたりという五感にうったえてくるものではありません。世の中には目に見えないけれど大切なことはたくさんあります。思いやり、いつくしみ、いたわりなどは大切な心です。人の痛みの分かる人になりましょう。

お互い御同前は、どちらかと言えば、社会的地位があるわけでなく、さりとてあり余る財産もない、ただの平凡な一市民の人が多いです。ただし、他の人と違う点は上行所伝の御題目をいただいていることです。

御題目というなにものにもかえがたい、大事な宝を授かっておるので、そこに自負と自身と勇気と喜びとを持ってください。その尊い御題目を人々の心に植え付ける、いわば教化折伏に生きがいを持ちましょう。それが善根中の善根です。

下種折伏の修行、つまり本因妙の修行の中におのずから本果妙という悟りを得ることができ、その場所が本国土妙です。本因本果本国土の三妙は口唱折伏の行の中に顕現しております。因中に果あり。

信者はお寺の御宝前にお参りし、今日一日体のお計らいと共に喜んで随喜の心を以て教化折伏のご奉公ができますようにということを御祈願致しましょう。一日一回はお寺参詣、基本中の基本でして、これが大原則。

動きの中にお計らいをいただくことができます。恐ろしいのは動きが止まること。動きがにぶりますと、罪障が頭をもちあげ、功徳の道がふさがれます。

確かにこの世は娑婆世界、苦しみが多く、それに耐え忍んでゆかねばなりませんが、信心を貫き通しますと、苦しみの世界が楽しみの世界、寂光に変わってきます。このことを「娑婆即寂光」、とか「我此土安穏」(法華経寿量品・開結427頁)と仰せられております。苦しみを通してまことの喜びを味わうことができます。

高祖大士御妙判 「病によりて道心はをこり候か」

(妙心尼御返事・昭定1103頁)

病気によって健康の尊さが分かり、正しい佛の道に入ることができます。自分を苦しめた病に対し恩に感ずる。それこそ禍転じて福となすといえます。それを思いますと、病という突然、我が身にふりかかった災難が自分を良い所へ導いてくれた恩人となります。

人間は不幸を体験しないとなかなか幸福を本当に感ずる心が養われません。苦しさのなかに本当の人間の心の大切さを知ることができます。

「雖近而不見と信心の目がひらけば、我此土安穏ありありと見えわかるなり」

(受持即身成仏義・後編・扇全5巻398頁)

 

 


信心相続と御利益

御教歌  妙法は  信心をもて  相続し  御利益をもて  人をたすくる

〔開化要談・八、扇仝13巻207頁〕

信心は自分一代だけで終わらせず、後続者養成が大事です。たえず信心相続を考えて御奉公に励みましょう。それには御利益をもって人助けの信行に気張ることが肝心です。

信者にとって最も大切なことは御利益のいただき方を知ること。逆に最も恥ずかしいことは御利益のいただき方を知らないことです。御利益は信の一字に徹して御宝前から授かるのでして、仏の慈悲の恵みです。まずはお寺のお詣りが基本です。

「御利生うくる傳授・口唱に心をつくせ、身を労して日参せよ」

                                                    (長松堂毎日行法記・扇仝6巻46頁)

御利益をいただく秘訣は何か。これはお寺参詣に徹し、心をこめて口唱の一行にはげむ。「お詣りできない」理由をならべるより、「お詣りできる」ことを考ゝえ、実行に移しましょう。

理屈と膏薬はどこにでも張りつくと申しまして、いいわけと弁解に終始するより、まずはお詣りさせていただきましょう。親からいただいた二本の足をつかっての日参、これが基本中の基本です。生涯参詣という言葉があります。

この世に生きている限り、お詣りをたやさない。この決意と信念とを持って下さい。頭で理解したものは崩れやすいですが、身で憶えたものは離れがたく、これが身付きの功徳で、信心は気孔から入ると申します。

お寺は弘通の道場で、道場である以上、信心を鍛え信心を磨く場所です。お詣りして生きる勇気なり希望なりが湧いてこなければなりません。特にお寺参詣した時は他を思いやる口唱行が大事。

部内の信者の一人一人が信心を改良して御利益をいただきますようにという弘通の思いのこもった口唱が大切です。更に信心の喜びと尊さを自信と勇気をもって人に説くことができますようにという願いをこめた口唱行に徹して下さい。

善悪の基準は弘通にあり、弘通に役立つことは善、弘通に役立たないことは悪です。ところが怠け出しますと、怠けぐせがつきやすく、一日おこたると、翌日もおこたり、これがたび重なりますと、怠っても何とも思わなくなります。

我々の心は坂道においた球のようなもので、そのままにしておいたのでは、自然に坂道をころがります。従ってたえずくい止める、これが折伏の一行で、お互いに励まし合うことです。信者が集まったら信心の楽しさなり喜びなりを話し合いましょう。

功徳になることは考えにくいですが、罪障になることはすぐに思いつき実行に移しやすいです。人に施せば施すほど、与えれば与えるほど、増えていくもの、これが功徳です。

信心の智慧がついてきますと、功徳になることと、罪障になることがはっきりと分かり、功徳の大切さ、罪障の恐ろしさが理解できてきます。たえず、御法門聴聞に心がけ、信心の智慧をつけて下さい。信心増進の糧は御参詣と御法門聴聞にあります。

特に善聴参詣に励んで良い話を聴く耳を持つことです。御題目にて人助けの御奉公に励むという菩薩行が当宗の信心の本筋です。逆に罪障が頭をもち上げてきますと、良い話を聞いてもすぐにはじきかえします。

 「菩薩とは教化の事也。教化とは弘むる也。利益廣大」

                                                                           (本尊抄曾讃・扇仝6巻134頁)

 「信心で相続する信心宗也。御利益で弘まる経力宗也」

                                                           (開化要談・八、扇全13巻207頁)

泣いて暮らすも一生ならば笑ってすごすのも一生です。人生には賞味期限はありません。終わりは次の始めで、歳を重ねれば重ねる程、光り輝いてこなければなりません。予想もつかない出来事が次から次と起こってくるのも事実です。

「一寸先は闇が良い」とも言われますから、油断は禁物です。上り坂、下り坂、まさかの連続、それだけに毎日を大切に生きて下さい。信者の一日は朝詣りから始まります。


-朝参詣-

御教歌 朝起は なる程妙な 徳がある して見ぬ人は これもわからず

信者の一日はまず朝参詣から始まります。早朝に起床、身じたくをし、自宅の御宝前のお清めをすませ、それからお寺に向かいます。元気一杯、今日という一日を無事にすごせますようにという願いをこめて、お寺参詣はげみましょう。

都合により、朝早くお詣りできない人は日中でも結構、一日に一回はお寺の御宝前に参詣しましょう。「一日一生」でして、一日のなかにその人の今日までの累積の徳と、これから先の予測とがこめられております。

まずは健康のお計らいと、それと同時に心のお計らいをいただきましょう。思いかたが上手になって、明るく前向きで、笑顔と微笑とをたやさない、陽気で物を善意に受けとり、罪障に負けずに功徳の積める一日を送ることができますように、という願いをこめてお詣りにはげんで下さい。

朝詣りはお初穂です。一日の始めに体を御宝前にささげる。人間生活の大切な水をお上げする。お賽銭などの財を奉納する。一日24時間のうちの最初の時間を御宝前に、更に御仏飯をお供えする。

などなど、体とお水と財と時間と食物などのお初を御宝前にお上げさせていただくことになります。次にお詣りしたら心をこめて御看経をいただき、よく御法門を聴聞し自分の信心改良と信心増進とにつとめましょう。善聴参詣ですので善く聴くことです。

聴きかたを上手にするには、なかなか努力が要ります。「口耳(こうじ)四寸の学」(旬子)と申して、耳から口までわずか四寸、耳から聞いて口に出すので身体に残りませんが、それでも何回も聴聞しているうちに身体にしみこんでゆきます。

そのことが分かったというのは、人に自信と勇気とをもって話ができることです。「教えるは学ぶの半ば」(書経)でして、教えることは自分が学ぶことに外なりません。更に御経文には、
「若し一人を勧めて、将引して法華を聴かしむ」(法華経随喜功徳品)と仰せです。

自分ばかりでなく、たとえ一人でも将引して御法の尊さを体得させることは大切な御奉公です。たえず、部内教区内など周囲の人々にも朝参詣の功徳をきめこまかく、丁寧に心をこめて説き聞かせましょう。お寺の御看経は御弘通が主流です。

御教化が一戸授かりますようにと、お祖師様のお袖におすがりして、心をこめて口唱行にはげんで下さい。信心修行には横と縦とがあります。横とは部内、教区内、連合などの人間関係で、お互いに切瑳琢磨し、異体同心の実をあげてゆきましょう。

信者同志はすすめはげまし合いながらも、お互いの関係がくずれない、こわれない、これが異体同心ということです。できるだけ相手の長所とつきあうようにしましょう。よく世間では、みつけよう長所、みなおそう今、みがこう己、ということを申します。

また一方、縦の面では、口唱行にはげんで御法のめぐみをいただくようにつとめましょう。当宗の信心は口唱の味を感得することにあります。

「又われと日参してみよ、いかなる願も成ぜずといふことなし」
「朝参り日参のお人は眞の信者也。早く帰りて一日の用を弁ずる人也。五年十年つづく人也」