部長の御奉公

御教歌

一組の 長なる人は 其組の をこたりせむる 役めなりけり

部長の御奉公で大事なことは部内信者の懈怠をせめあうことです。懈怠即謗法でして、油断しますとすぐに怠け心が頭をもち上げ、怠けぐせがつきやすいですから、たえず、部内信者の一人一人にきめこまかく、丁寧に、御奉公を指示しましょう。信心は生きもの、少しでも手をゆるめるわけにはゆきません。

終わりは次の始めで朝参詣、日中参詣、御総講参詣、御講参詣、他寺院参詣などなどありますので、喜んで積極的におしすすめて下さい。信者が集まったらこの次の御奉公を話し合い、これからどうするという問題意識を楽しみにしましょう。

「流水腐らず」で、たえず動きつづけることです。安定というのは動きが活発であることで、自転車も走っているから倒れないのです。動きが止まりますと、信心がにごってきます。

よく異体同心ということを申しますが、字句の解釈としては体が異なっていてもお祖師さまの心と一つになることですが、具体的に言えば、お互いに折伏し合っても、お互いの関係がくずれない、こわれない、はなれないということです。 絶えず、はげまし合う、これが異体同心でして、たんに仲が良いというだけではありません。

「信徒の中の謗法は懈怠なり。懈怠を責め合ふを当講繁栄の基本となす。いか程御法門しりたりとて、懈怠を責めぬ人は悪人也。御弘通を思はぬ人也。」

ところが、折伏をさせていただきますと、怨まれたり憎まれたり、いわば怨嫉がおこりますので、それに耐える為には、「忍の一字」に住する場合もあります。決して弘通は平坦な道ばかりでなく、雨降りや山坂の時が多く、まさに、憎まれ憎まれて繁昌する大法です。

部長が積極的に前向きで、しかも陽気で明るいと部内に活気が出てきて発展してきます。部長の御奉公は体に誓えますと、足の裏の存在です。体全体を支えております。お寺全体を支えているのが部長の御奉公ですから責任重大です。

教化、参詣、助行、御講、御有志など、いろいろの御奉公がめじろおしに山積しております。毎月発表される弘通方針を理解し、絶えず部内の人々に周知徹底しなければなりません。人に折伏するのは自分の心に言い聞かせることです。

声に出してはげますのは自分に対する折伏です。御看経をし経力をいただいてから折伏しましょう。自力ではだめです。「教えるは学ぶの半ば」と申します。お祖師さまは、「我日本の柱とならん。我日本の眼目とならん。我日本の大船とならん」

と仰せられておりますが、この三大誓願を自分自身にあてはめて、部長は部内においては、柱であり、眼目であり、大船です。柱とは支え、眼目とは正しい方向を指示することで、大船は寂光に導くことです。

従って、部長は自信と勇気と希望とをもつて折伏にはげみましょう。折伏は慈悲の最極です。お祖師からお預かりしている信者一人一人に信心の魂を植えつける、これが部長の役目に外なりません。

「一切善根中の善の第-は折伏の大慈悲也。」

 


10月13日御総講の御法門

10月13日御総講にて、川口御導師の御法門を聴聞させていただきました。

御教歌:思ふ事 口にいはせる 心こそ うべことの葉の たねにしありけれ

喜びの心についてお示しでございます。喜びの心があれば素直な気持ちが口から出てきます。しかし反対に喜びがなければ私達凡夫は愚痴が出てきてまいります。

御奉公で嫌なことがあって、他の人の愚痴ばかり出てしまうと、罪障を積んでしまうことになります。考え方一つで自分の信心の強弱がハッキリと出てきます。心の持ち方、考え方で信心を鍛えることが大切であるとお示しの御法門でした。

喜び、悲しみ、怒りや、妬み、色んな感情で信心が左右される事を忘れてはいけないと思いました。私は、感情のコントロールや言葉の使い方は全くできていない部分もありますが、喜びの心に近づけるようこれからも信行ご奉公に励ませていただきたいと思いました。(k.t)


10月の信徒教養講座

10月7日に信徒教養講座が開催されました。本年のテキストは盛岡・廣宣寺さんから出版されました、マンガ信行テキスト「廣子さん・宣子さん」を使用しております。ご信心ご奉公の実際的なことをマンガによって分かりやすくご説明を頂けます。ただし、テキストの冊数に限りがあるため、講義の後に回収をさせていただき、11月の最後の講義が終わった後にお配りできるよう考えております。

今月の御題は
①詰助行 ②信心発起 ③将引その2 ④御礼参詣
⑤心願成就 ⑥年末御礼 ⑦お初箱

でした。25日の御総講後1時に、同じ内容の第2回目があるので、1回目に出られなかった方は、そちらの方に出席することをお勧めいたします。信徒教養講座は乗泉寺賞の対象になっておりますので、是非皆様の御参加をお待ちしております。

11月の開催は、第1回目が13日の御総講後の1時に、第2回目が23日の9時半に、それぞれ1時間半開催されます。いよいよ今年最後の教養講座です。マンガテキストも配られますので、他の人も将引して参加しましょう。

尚、他寺院の発刊された小冊子ですので、無断転用は厳に禁じさせて頂きますのでご了承下さい。

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両面を見よ

信心ありげに見える人でも、商売とか仕事の上で、だらしがなかったり、常識が掛けていたら、良い信者の部には入れないでしょう。また逆に信心の勉強を少しもしないで、信心のことをトヤカクいうのも、軽率な人と申さねばなりません。

私どもの理想は、信心も気張り、仕事も熱心ということで、そういう人が本当の信者といえるのです。進歩的といわれた人達が、平和とか、反動とか、民主化といった一種の合言葉だけで議論をしていても、何だか物足りない感じがするのは、その人達が大衆の生活に根を張らずに議論だけしているためで、一方に傾きすぎたからではないでしょうか。

一口に信心といっても、精神と行動、信と行の調和が大事で、どちらに傾いてもまずいのです。最初、行動に重点を置いた人は、早く精神面でも信心を握る事が大事です。精神から入った人は、一日も早く修行の面でも、一人前になろうとする努力が大事です。

御利益でも、自他安穏、同帰常寂とご祈願しているように、自分だけでなく他の人も共々に、物心両面の安定が得られるようにと願うのが自他安穏という意味、同帰常寂というのは、未来成仏も落伍者なく御利益がいただきたいという意味ですから、現在と未来、自他ともにというネライです。つまり自行だけでなく化他の行もし、二世安楽の御利益がいただけなければ、佛立信者ではないということです。

改良でも、信心上の改良と、日常生活の改良とを、法華経の精神面で、車の両輪にように釣り合いを取りつつやれたら、その人は幸福になれるのです。

しかし、この調和を取りながら進行することは、口では簡単に言えても実行はなかなかむずかしいもので、いつの間にか一方に傾きたがるのです。その点の配慮が大事で、前方のみを見ているときは、後方を見る努力をし、左に傾いたときは右を見る余裕をつくり、夢を追っているときは現実を、現実に執着しているときは理想をというぐあいに反面を見る稽古が大事です。

奥さんが子供にばかり心が傾いて、夫を軽視すると、それが家庭争議のもとになったり、細君のことのみに心を奪われて、親を忘れる夫なども感心できません。青年が老人の言行からその良さを吸収する聡明さのないのも不幸ですし、老人が青年の立場を理解できないのも頑迷というものです。

教えるは学びのなかばで、教化運動のように、他のためによかれと努力することが、自分の経験を豊富にする結果を招来します。建直し運動のおかげで、信心のやり方まで改良できるヒントを得たり、あるいはいっそう信心の良さが分かったりします。

「法華を識るものは世法を得べし」で、信心をみがけば、仕事の方にも大効果がなければ信心したかいがありません。生活の建直しと、信心の改良との相互に影響し合う効果、それを銘記して、改良断行の年を迎えてほしいのです。

 


お祖師様ご祥月命日をお迎えして

今月13日は、お祖師様高祖日蓮大士のご祥月命日です。

ご入滅は満61歳ということでありますので、医療が進歩した今の時代に生きる私達からしますと、若くしてのご入滅ではないかと思ってしまうものですが、御祖師様が布教活動をなされた鎌倉時代(貞応元年1222年2月16日から弘安5年1282年10月13日)は、人々がまだ腰に刀を持ち歩く時代です。

また、気に入らない者や、意味もなく人々が切り捨てられたり、生活の安定や栄養状態も今とは違い、餓死する人々が後を絶たない時代で、平均寿命は現在よりもずっと低かったと思われます。

そのような時代の中、しかも大難四ヶ度小難数を知らずという、命を掛けたご苦労をなされたお祖師様におかれましては、61年の御生涯は大変な長寿であったと思われます。その厳しい時代に御祖師様は、私達に上行所伝の御題目をお残し下されました。

私達信者は、お祖師様のご苦労に対して感謝の思いを持ち、一人でも多くの方にこの上行所伝の御題目の素晴らしさを弘める、菩薩行に励ませていただきましょう。(T.K)


真に残るものは何か

よかれあしかれ、ともかく歴史上に名を残した人々のかげには、声なき無数の大衆があった。所謂、サイレント・マジョリティといわれる人々である。

 これらの大衆があってこそ、その上に名を成す人々があったともいえるのであろう。「一将功成りて、万骨枯る」というのも決して強調し過ぎた表現とはいえない。

 ところが、名を残した幸運の人でさえ、諸行無常で、どんな財宝も権勢もあとかたもなく消え果てている。正に水沫泡煙の如し、というべきであろう。

 昔から、人生五十年といわれていたが、現在では七十年~八十年と訂正しなければならぬほど、長生きする人々が多くなった。仮りに百年生きたとしても、何一つ我々の死後に残っていくものはない。全く“箸かたし持ってはいなぬ娑婆のもの”としか言いようがない。

 結局、日蓮聖人のご一生をお手本として生きるところに、我々が永遠の生命を得ることになる。つまり、法華経の行者として身もこころも、一切の言葉や行いをも、法華経にまかせて金言の如く修行すること以外に、真の生き方はないと悟るべきだろう。

 法華経の金言にまかせて修行したことによる大難四ヶ度・小難数をしらずの怨嫉を、現証の利益によって克服され、そのことを記録して残されたものが今日の日蓮聖人の御遺文である。「日蓮が慈悲広大なれば、南無妙法蓮華経は万年の外、未来までも流るべし」と、その慈愛の心を表現されている。

 これが生きた御指南となって、今日の我々の行動の源泉となっている。これ程生命の長い文字は、ほかに見ることができない。

 我々も小型ではあるが、一人一人日蓮聖人の弟子旦那として、如説修行によるその体験を、後世に残そうではないか?これよりほかに、真に残るものはないと思う。

 

 


得度式の様子

去る10月1日お総講終了後得度式が執り行われました。

4月1日より乗泉寺に入寺された金澤善人君と指田敬太くんは、6ヶ月にわたる所定の見習いご奉公を修め、僧名「金澤廣善」「指田行敬」と命名せられ、教務部入りを允許されました。

得度式では、約200名の御信者に見守られる中、お導師よりご剃髪を頂戴しました。その後誓いの言葉のなかで「仏祖の御心に叶ったご弘通ご奉公に精進させていただきます。」と御宝前に誓願を立てられました。

得度式の後は、お導師より允許証を拝受し、別室にて高祖大士御妙判、開導聖人御指南の拝読の儀が執り行われました。

得度後の祝宴会では多数の御信者が列席され、廣善師、行敬師の出家をお祝い致しました。その後は、世田谷別院の日晨上人・日歓上人の御墓前にて無事得度の御礼がされました。

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10月に入りました

キンモクセイ季節も秋めいてきました。10月は衣替えの季節でもありますので、季節の変わり目を実感することができるものです。最近では、スーツ姿の方でも、あまり衣替えを意識されない方もいらっしゃるようで、街中で季節の変わり目を実感することができないような気もしますが、それでも、朝晩の気温の変化など、少しずつ秋の訪れを感じるところです。

さて、10月13日はお祖師様高祖日蓮大士の祥月御命日です。数々の御法難を乗りこえられ、命をかけて私達に上行所伝の御題目をお残し下されたお祖師様の御恩を感じ、その御恩に報いる人助けの菩薩行に、精一杯努めることが大切です。

恩を感じる、親に対する恩、先生に対する恩、先輩に対する恩、同僚に対する恩、そういった回りの人から、様々な助けを受けて私達は日々生活をしております。そういった回りからの恩恵を感じる、恩を知るということはとても大事なことであります。

自分は一人で生きている、という考えでは、自分勝手な振る舞いばかりをしても平気となってしまい、周囲にも迷惑をかけることとなってしまいます。

ですから、大事なことは、周囲からの恩を感じ、そして恩に報いようとする行為を実践することです。父の日、母の日、誕生日そういった時に何かをプレゼントすることも大事なことであります。

そして、私達衆生をお救い為されようとされたお祖師様に対しても、報恩の思いをもって、口唱行菩薩行の実践に努めることが肝心です。


9月17日御総講の御法門

9月17日御総講にて、川口御導師の御法門を聴聞させていただきました。

 御教歌:よろこびて 持たばたもて 法華経を うたがふならば たもつかひなし

 当宗のご信心には下記の3つの信心前があります。

 ① 初心:朝夕のお看経を欠かさない。

 ② 中心:異体同心を守る。協調性がある。

 ③ 後心:ご信心第一の生活を送る。

 御教歌の「たもつ」は「握って離さない」ということです。私達のご信心は常に揺れ動いているものですから、握って離さないことが肝心です。ご信心を握って離さないことが、ご利益の頂き方です。その為にも、ご信者はおしゃべり、お食事をしながら、互いに懈怠しない様に励まし合うことが大切です。

 ご信心をさせて頂いていると、御奉公を大変に思うことがあるもので、特に一人信心の場合ですと、懈怠におちいりやすいものです。もちろん、一人信心であってもお看経をさせていただくことはでいますが、それだと御法門を聴聞して教えの筋を学ぶことはできませんし、ご信者同士の会話で思わず笑ってしまうといったことがありません。

 やはりご信心を続けさせて頂く為には、そういった喜びも必要だと思います。お寺参詣の帰り道や、御講終了後に世間話をして楽しい時間を過ごすのも信心増進の秘訣なのではないでしょうか? (S.M.)

 


信眼を開く

御教歌:信心の まなこひらけば この娑婆が 即寂光と みえわたるかな

 (受持即身成仏義・扇全5巻402頁)

 信心の眼が開かれてきますと、見えないものが見えてきて、今迄分からなかったことが分かってきます。功徳と罪障、つまり功徳の尊さ、罪障の恐ろしさを感得でき、善因善果、悪因悪果という鉄則を理解できるようになります。

 人を喜ばせたら自分が喜ばれる。人を泣かせたらいつかは人に泣かされる。人を敬えば人から敬われる。あたりまえのことのようですが、なかなか分かりにくいです。親の因果が子に報いる、と申します。

「天網恢々、疎にして漏らさず」という諺があります。天は大きな網を張っており、その網は恢々、いかにもあらいように見えますが、何事も決してもらすものではありません。長い目で見ますと、よい人には幸を授け、悪い人は不幸を免れません。

因果の道理は直接目に見えたり、耳に聞こえたり、匂いをかいだり、舌で味わったり、身に感じたりという五感にうったえてくるものではありません。世の中には目に見えないけれど大切なことはたくさんあります。思いやり、いつくしみ、いたわりなどは大切な心です。人の痛みの分かる人になりましょう。

お互い御同前は、どちらかと言えば、社会的地位があるわけでなく、さりとてあり余る財産もない、ただの平凡な一市民の人が多いです。ただし、他の人と違う点は上行所伝の御題目をいただいていることです。

御題目というなにものにもかえがたい、大事な宝を授かっておるので、そこに自負と自身と勇気と喜びとを持ってください。その尊い御題目を人々の心に植え付ける、いわば教化折伏に生きがいを持ちましょう。それが善根中の善根です。

下種折伏の修行、つまり本因妙の修行の中におのずから本果妙という悟りを得ることができ、その場所が本国土妙です。本因本果本国土の三妙は口唱折伏の行の中に顕現しております。因中に果あり。

信者はお寺の御宝前にお参りし、今日一日体のお計らいと共に喜んで随喜の心を以て教化折伏のご奉公ができますようにということを御祈願致しましょう。一日一回はお寺参詣、基本中の基本でして、これが大原則。

動きの中にお計らいをいただくことができます。恐ろしいのは動きが止まること。動きがにぶりますと、罪障が頭をもちあげ、功徳の道がふさがれます。

確かにこの世は娑婆世界、苦しみが多く、それに耐え忍んでゆかねばなりませんが、信心を貫き通しますと、苦しみの世界が楽しみの世界、寂光に変わってきます。このことを「娑婆即寂光」、とか「我此土安穏」(法華経寿量品・開結427頁)と仰せられております。苦しみを通してまことの喜びを味わうことができます。

高祖大士御妙判 「病によりて道心はをこり候か」

(妙心尼御返事・昭定1103頁)

病気によって健康の尊さが分かり、正しい佛の道に入ることができます。自分を苦しめた病に対し恩に感ずる。それこそ禍転じて福となすといえます。それを思いますと、病という突然、我が身にふりかかった災難が自分を良い所へ導いてくれた恩人となります。

人間は不幸を体験しないとなかなか幸福を本当に感ずる心が養われません。苦しさのなかに本当の人間の心の大切さを知ることができます。

「雖近而不見と信心の目がひらけば、我此土安穏ありありと見えわかるなり」

(受持即身成仏義・後編・扇全5巻398頁)