両面を見よ

信心ありげに見える人でも、商売とか仕事の上で、だらしがなかったり、常識が掛けていたら、良い信者の部には入れないでしょう。また逆に信心の勉強を少しもしないで、信心のことをトヤカクいうのも、軽率な人と申さねばなりません。

私どもの理想は、信心も気張り、仕事も熱心ということで、そういう人が本当の信者といえるのです。進歩的といわれた人達が、平和とか、反動とか、民主化といった一種の合言葉だけで議論をしていても、何だか物足りない感じがするのは、その人達が大衆の生活に根を張らずに議論だけしているためで、一方に傾きすぎたからではないでしょうか。

一口に信心といっても、精神と行動、信と行の調和が大事で、どちらに傾いてもまずいのです。最初、行動に重点を置いた人は、早く精神面でも信心を握る事が大事です。精神から入った人は、一日も早く修行の面でも、一人前になろうとする努力が大事です。

御利益でも、自他安穏、同帰常寂とご祈願しているように、自分だけでなく他の人も共々に、物心両面の安定が得られるようにと願うのが自他安穏という意味、同帰常寂というのは、未来成仏も落伍者なく御利益がいただきたいという意味ですから、現在と未来、自他ともにというネライです。つまり自行だけでなく化他の行もし、二世安楽の御利益がいただけなければ、佛立信者ではないということです。

改良でも、信心上の改良と、日常生活の改良とを、法華経の精神面で、車の両輪にように釣り合いを取りつつやれたら、その人は幸福になれるのです。

しかし、この調和を取りながら進行することは、口では簡単に言えても実行はなかなかむずかしいもので、いつの間にか一方に傾きたがるのです。その点の配慮が大事で、前方のみを見ているときは、後方を見る努力をし、左に傾いたときは右を見る余裕をつくり、夢を追っているときは現実を、現実に執着しているときは理想をというぐあいに反面を見る稽古が大事です。

奥さんが子供にばかり心が傾いて、夫を軽視すると、それが家庭争議のもとになったり、細君のことのみに心を奪われて、親を忘れる夫なども感心できません。青年が老人の言行からその良さを吸収する聡明さのないのも不幸ですし、老人が青年の立場を理解できないのも頑迷というものです。

教えるは学びのなかばで、教化運動のように、他のためによかれと努力することが、自分の経験を豊富にする結果を招来します。建直し運動のおかげで、信心のやり方まで改良できるヒントを得たり、あるいはいっそう信心の良さが分かったりします。

「法華を識るものは世法を得べし」で、信心をみがけば、仕事の方にも大効果がなければ信心したかいがありません。生活の建直しと、信心の改良との相互に影響し合う効果、それを銘記して、改良断行の年を迎えてほしいのです。

 


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