真に残るものは何か

よかれあしかれ、ともかく歴史上に名を残した人々のかげには、声なき無数の大衆があった。所謂、サイレント・マジョリティといわれる人々である。

 これらの大衆があってこそ、その上に名を成す人々があったともいえるのであろう。「一将功成りて、万骨枯る」というのも決して強調し過ぎた表現とはいえない。

 ところが、名を残した幸運の人でさえ、諸行無常で、どんな財宝も権勢もあとかたもなく消え果てている。正に水沫泡煙の如し、というべきであろう。

 昔から、人生五十年といわれていたが、現在では七十年~八十年と訂正しなければならぬほど、長生きする人々が多くなった。仮りに百年生きたとしても、何一つ我々の死後に残っていくものはない。全く“箸かたし持ってはいなぬ娑婆のもの”としか言いようがない。

 結局、日蓮聖人のご一生をお手本として生きるところに、我々が永遠の生命を得ることになる。つまり、法華経の行者として身もこころも、一切の言葉や行いをも、法華経にまかせて金言の如く修行すること以外に、真の生き方はないと悟るべきだろう。

 法華経の金言にまかせて修行したことによる大難四ヶ度・小難数をしらずの怨嫉を、現証の利益によって克服され、そのことを記録して残されたものが今日の日蓮聖人の御遺文である。「日蓮が慈悲広大なれば、南無妙法蓮華経は万年の外、未来までも流るべし」と、その慈愛の心を表現されている。

 これが生きた御指南となって、今日の我々の行動の源泉となっている。これ程生命の長い文字は、ほかに見ることができない。

 我々も小型ではあるが、一人一人日蓮聖人の弟子旦那として、如説修行によるその体験を、後世に残そうではないか?これよりほかに、真に残るものはないと思う。

 

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください