罪障消滅とは

御教歌  折伏を すれば我身の つみ滅す   所願成就 これが肝心

〔百座法門・四、扇仝12巻248頁〕

 お互い御同前は、御看経の時、無始巳来の御文を言上させていただきますが、そのなかで罪障消滅の御祈願を致します。罪障は御利益をいただく障りとなります。そこで、罪障を大別すると、身と口と意の三業に分けられます。

① 身体の罪障。無病息災というのは言葉の上だけで、お互いは病の器でして、幼児期、青年期、壮年期、老年期、それぞれの時期に特有の病を持っており、それを一つ一つ克服してこそ長寿を全うすることができます。特に入信の動機は病気が多いです。

「病によりて道心(信心)はをこり候か」(妙心尼御返事・昭定1103頁)と御妙判に仰せの如く、病気になって始めて健康のありがたさを痛感します。身が不調になりますと、健康の喜びが分かります。健康にまさる幸せはありません。入信の門は「病貧争死」です。

②跳の罪障。言葉の働きには功罪がはっきりします。「口唱」とか「折伏教化」という時には功徳が積めます。黙っていて教化は決してできません。信心の喜びや尊さを人々の心に植えつける。

信心の定規をあてはめて相手の人生観(物の見方や考え方)を変えてゆく。敵を味方にする。これが御奉公の根本精神です。説いて説いて説きつくす。これの繰り返しが教化運動です。

その反対に、あらぬ噂話を流したり、信者同志の欠点をせめたてたり、時には、自尊心を傷つけるよう言動、全人格を否定するような無責任な発言、それによって言われた人の心に深い傷をつけてしまったら、これは大きな罪障をつくることになります。

「舌根斧を生ず」で舌のはたらきが功徳の根をたちきってしまいます。短所を指摘するより長所を見つめましょう。③意(思いかた)の罪障。上手な思いかたと下手な思いかたとでは天地の相違があります。

根本の罪障とは思いかた如何にかかっております。前向きで明るく、これからどうするという問題意識を楽しむこと。常に周囲にほほえみと暖かさを与える、おもいやりやぬくもりが大切です。たえず、人の幸せを喜び合うことです。

共歓共苦の精神を持ちつづけましょう。その逆に、冷たく、すぐに人をつきはなしたり、陰気で暗く、しかも皮肉と嫌味の性格の持ち主、しかも、無知、無能、無責任、特に都合が悪くなると、すぐに責任転嫁、それに加えて欲望肥満症、これでは周囲から敬遠されます。この身口意の三業にわたっての罪障を消滅する為には教化折伏が第一です。

「門祖日、我身罪障消滅の為には折伏第-也と、折伏せぬは無慈悲の第-也」

    (開化要談・教、扇仝14巻21頁)

教化折伏により、おのづから自分の罪障がおさえられます。教化子を一人授かり、育成の御奉公にはげみますと、教化親の信心が磨かれます。教育とは教えることと育てること、この両方に調和をとってゆかねばなりません。

あせらず、あわてず、あきらめず、こつこつと地道な努力が必要です。決して、すんなりと順調に物事がはこんでゆくものではなく、まさに山あり谷あり、晴れたり曇ったり、またはどしゃぶりであったりします。

入信したての信者が役中になる為には、それなりの時間と手間ひまがかかりますので、長い目でみて、周囲からあたたかく、援助の手をさしのべて下さい。何よりも思いやりと親切心が大切です。口唱と参詣が大事です。

特にお寺参詣を強調しましょう。一日一回、お寺の御宝前にお詣りする。これが身につきますと、身付きの功徳となって、くずれない幸せをいただくことができます。まさに、「継続は力なり」です。

 「然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定て今生-世に消滅すべきか、弼(いよいよ)はげむべし、はげむべし」

                   (四條金吾殿御返事・昭定1801頁


12月13日お総講御法門

乗泉寺川口日智上人の御法門を拝聴させていただいたことをご紹介させていただきます。尚、内容につきましては私自身の主観も入っておりますのでご了承下さい。

 御教歌:わすれてはおもひ出してはげめども をこたりがちに成ぞくやしき

 “忘れる”というのは、私達が仏様から授かった大切な能力です。しかしながら、物事には忘れて良い事と、そうでない事がありますから注意も必要です。

 当宗ではお金の貸し借りは厳禁です。お金を貸した方は憶えていても、借りた方が忘れてしまうというケースもあります。そうなれば、いざこざが起こり、ご信心に大きな傷が付いてしまうからです。

 また、当宗の信者はご信心の功徳を残すことを忘れてはなりません。ことわざに、「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と申しますが、佛立宗では「信者は死して功徳を残す」ことが大事であります。

 (所感)

記憶力は非常に大切なものですから、やはり学校のテストでも記憶力を重視する問題が多く出題されます。子供の頃に、「憶えたものを絶対に忘れない記憶力があったら、テストで良い点が取れるのに」と夢見た人も少なくないでしょう。

 しかし、大人になると、そういった絶対的記憶力にはプラス面もあるが、同時にマイナス面もある事に気付かされます。年を重ねればそれだけ、忘れたい嫌な思い出が増えてくるものです。忘れるという能力がなければ、その思い出は生涯 生々しく私達にまとわり続けます。ひょっとすると、この「忘れる」という能力があるからこそ、私達は日々を前向きに生きていけるのかも知れません。(S.M)

 


利口ばか

おのれが貴く生きるのには、時代のせいにしたり、環境が悪いとのみ考えたり、他人を罰したりしないで、自分を罰して自省すべきです。たとえば、コンナ地位では手も足も出ない、やりようがないというのは地位を罰しているわけで、それではだめです。どんな地位でも責任もあれば理想もある。

それなのに現在の地位での理想が発見できなければ、いかなる地位になっても理想を見い出すことは困難です。なかにはよい指導者がいない、良友がないという人もいますが、それも未熟な考え方です。

孔子は、「三人行けば必ず我師有り、その善き者を選んで之れに従い、その善からざる者は改む」(論語)この言葉によれば不善の人でも、反省の手本となるのではないかと断言しておられます。師友なしとはいえません。

 また、善を行うチャンスがないと、他を罰している人もありますが、自分に善を行う心があれば、いつでも、どこでも徳を積む機会があります。お釈迦様がある時、盲目の一老女が針に糸を通すことができなくて嘆いているのを見て、わざわざ立ち止まって盲女のために糸を通してやりました。善を行う機会は路傍にもあることの一つの証拠です。

このように、貴く生きようとする場合は他を罰してはいけません。他に責任を転嫁して、自分をよしとすることに、ヤッキとなるような人は、「利口ばか」の一種のような気がします。

 異体同心の祖訓でも、仏祖のみ心を中心に奉載して、お互いに責任を分け合い、他を罰せず、自己反省を第一としなければ、どうしても口のみの異体同心になって、その良さを発揮する事は出来ないでしょう。

 科学技術の急激な進歩、経済力の未曾有な上昇に伴って、反面では精神面のダラシナサが目立ってきた今日、だれでも精神の刷新を口にしないものはありません。思慮分別のある人でしたら、このままでは人類の前途は憂慮に堪えないと思わぬものはありますまい。友情ということを一つ考えても、まったくナッテないと思うでしょう。それで、古人を例にあげて反省の資料に提供してみました。

 もう一つ「悪者ばかりで家庭円満」という道話を転載してみる事にいたします。ある村でのできごと、一軒の家は七人暮らしであったが、争いごと一つしないのに、もう一軒の家は三人家族でありながら毎日家内にゴタゴタが絶えず、極めて二軒は対照的でした。

ある日三人家族の主人は、七人家族の家を訪ねて「お前さんの家は家内も大勢なのに、けんか一つした話も聞かないが、どうしてお前さんの家はそう仲良く暮らせるのか一つ教えてもらいたい」といった。

七人家族の主人は「いや、あなたの家には善い人ばかりがおそろいだが、私の家は悪人の寄り合いだからですな」と笑っているので、三人家族の主人は合点がいかず「どうもわかりませんね、七人も悪人がそろっていれば なおさらけんかが募る訳なのに、悪人ばかりだからけんかがないとはどういうことですか」「いやなんでもありませんよ。

例えば、私の家ではだれかが茶碗を蹴飛ばしても、火鉢がひっくり返っても、『私が悪かった』『いやそこへ置いた私が悪かったのだ』と家中のものが悪いものになる競争をするような有様ですからけんかの起こりようがありませんよ。

それをあなたの家では、みんな善い人になろうとして『ここに茶碗を置いたのはだれだ、こんなところに置くからオレがけとばしてしまった』『いやけとばすのはあなたの不注意だ、私は知らない』と、みんなが罪を逃れようとするからけんかの絶え間がないと違いますか」。

 こう言われて、三人家族の主人は初めて目が覚めて、なるほどと感心したという話。悪人だと思っているので、人を責める前に自分が悪いのだと思えるのです。善人ぶっている人は、おれは悪くないといううぬぼれがあるので、他が悪いと判断したくなるのです。

 門祖日隆聖人は、妙法の信者は「我身大悪人と観念して、ひとえに経力(妙法)にすがるべし」と仰せられた。罪悪深重の身の上だと考えられれば、素直に妙法に信伏随従できるのです。えらがったり、善人ぶると、うまく妙法に溶け込めないのです。

 


くんげ会のリトミック

12月7日、くんげ会のリトミック教室を開催しました。

リトミック教室はだいたい月に一度、毎回30分から40分くらいおこっています。参加してくれる子供達の年齢はまちまちで、0歳児から未就学児、小学低学年の子供までいます。

リトミック風景

 

先生が子どもを主導してくれながら、パパママも一緒に参加してくださるので、みんな一緒になってワイワイ楽しい雰囲気です。

12月の教室では5名の子どもが参加してくれました。ひとしきり音楽に合わせた後には、栗や落ち葉をつかって遊びました。また、今回はたくさんのお菓子を用意して、タンバリンの上にのせた分だけ持ち帰りました。

 

リトミック風景2渋谷という大都会の真ん中にありながら、時の流れが止まったかのような境内で、子ども達はのびのびと遊び回り、パパママも安心してほがらかな一時を過ごせました。

1月の日程は決まり次第くんげ会ホワイトボードに記載します。一人でも多くの方に参加していただけますようお勧め申し上げます。(くんげ会・U.A)

 


まごころ込めた御奉公に随喜されて法灯相続教化成就

ありがとうございます。4月にお教化させて頂きましたことで、ご披露させていただ

きます。長年、教区に所属されていたKさんは、班長から副部長さんへとお役に励まれ、たくさんの御奉公をされていらっしやいました。

30代半ばで膠原病(こうげんびょう)を患われて通院しながら、子育て、お仕事、そしてお寺、御講席へのお参詣など、御奉公を続けていらっしゃいました 。

ところが、昨年の春頃から、かなり体調を崩され11月に71歳で亡くなられました。

まだまだこれから一緒に御奉公に頑張っていこうと思っていただけに、とても残念な思いとともにかなりの寂しさを覚えました。亡くなられたKさんには、独身のご子息が二人いらっしゃいます。

ご葬儀や納骨、七日七日のお助行等は、連合長ののサポートを頂きながら無事終えることが出来ました。葬儀等全くわからない二人のご子息は、無事に葬儀が執り行われた事に大変感謝されていらっしやいました。

納骨やこれからの事も、何度かお会いしたり、メールや電話でのやりとりを交わしておりましたら、ご長男の方が「今後は自分が佛立宗を継いでいきます。」との連絡を頂き、入信されました。

乙講の願主にもなって頂きました。まだ独身の二人のご子息にとって、私たち佛立宗の役中が葬儀や納骨、そして自宅のお戒壇のお給仕などについて、細やかな御奉公をさせて頂く姿を見て、お二人の心に真心が通じたのだと思います。

これもすべて、連合長さんの行き届いた配慮と心遣いの御蔭です。今までは、亡くなられたお母さまがお会式に参詣されていらっしゃいましたが、今年春の門祖会や開導会にも、二男の方がお参詣してくださいました。

これからも色々と連絡を取りながら育成の御奉公等に頑張らせて頂きます。ありがとうございました。


氏より育ち

古くから言い伝えられ、聞きなれていることわざの一つに、「氏より育ち」というのがある。氏素性が高貴であっても、それを頼りにして、修養や勉学を怠ると、折角の毛並みのよさ、家柄のよさを穢すばかりでなく、自身も没落の運命をたどることになるから、氏のよさよりも、後天的な鍛錬が大切だという意味です。

 つまり、先天的な素質と、後天的な鍛錬とを比較して、両方とも兼備されるなら一番よろしいのであるが、どちらかを重視せよというのなら、後天的鍛錬が人間にとってより大切だという風に解してよいのだと思う。

 元来、先天的素質は、殆んど大差なく、寧ろ、人間は平等だという例証があるので紹介しておきましょう。アフリカの未開人種の赤ん坊を一歳位のうちに文明社会へ収容して、文明社会の赤ん坊と同様に教育すると、知能や才能は、文明人と少しも違わないという結果が出ました。これは、氏の紫の花火(178頁)に紹介されたものをここへ引証させてもらいました。

 これを逆にした実験もあります。文明社会の赤ん坊が狼にさらわれ、狼に育てられ、遂に一言も言葉をしらぬ狼少年の話をご存知の方は多いでしょう。何れにしても、先天的素質よりも後天的鍛錬が如何に大切であるかは、この例証でお分かりのことでしょう。

 学するときは庶民の子も公卿となり、学ばせざるときは、公卿も庶民となる、という諺もあります。

 さて、昭和四十五年度の新入信者は、育成環境さえよければ全員信心増進して、現世安穏の大利益を蒙ることはまちがいなしです。只、育成環境とは、部内、班内の人々の温かい協力と、育てる心が絶対に必要なのです。暮から新年の多忙にとりまぎれて、新信者の育成を忘れることのない様に祈念してやみません。

 (乗泉寺通信45年12月号掲載)


12月1日お総講御法門

乗泉寺川口日智上人の御法門を拝聴させていただいた内容を、紹介させていただきます。尚、内容につきましては私自身の主観も入っておりますのでご了承下さい。

御教歌 あけくれに 御法の為に 身を労し 心尽すを それがたのしみ

あけくれに=明けても暮れてもという意味です。お互い佛立信者は、御法の為の「為」という字の付く人生を送ることが大切です。この頃は「健康指向」という言葉があり、快食・快眠・快便が人間にとっての健康であるそうです。

そして、身体とは別に心の健康もあります。心の持ち方は人それぞれで、気の弱い人もいれば強い人もいる。気の短い人もいれば、長い人もいる。しかし、どんな人でも初めて病いにあうと、命の大切さが分かってくるものです。

どういった時でも、御題目口唱が大事で、どんな心の持ち主でも素直正直な心を持ち、御題目にお縋りして、一遍でも多くお唱えさせていただかなければ、お計らいが頂けないのです。

明るく、楽しく、元気に信行御奉公、口唱行に励むことが大切ですよと、お示しの御教歌でございます。

(所感)
私自身、まだ大きな病気にかかったことがないのは、大きな御利益だと思っています。しかしこの先、どんな災難にあうかわかりません。

大難が小難、小難が無難というお計らいがいただけるよう、日頃からの御看経につとめ、毎日、楽しく元気に御奉公させて頂けるよう、励ませていただきたいと思いました。(K.T)