氏より育ち

古くから言い伝えられ、聞きなれていることわざの一つに、「氏より育ち」というのがある。氏素性が高貴であっても、それを頼りにして、修養や勉学を怠ると、折角の毛並みのよさ、家柄のよさを穢すばかりでなく、自身も没落の運命をたどることになるから、氏のよさよりも、後天的な鍛錬が大切だという意味です。

 つまり、先天的な素質と、後天的な鍛錬とを比較して、両方とも兼備されるなら一番よろしいのであるが、どちらかを重視せよというのなら、後天的鍛錬が人間にとってより大切だという風に解してよいのだと思う。

 元来、先天的素質は、殆んど大差なく、寧ろ、人間は平等だという例証があるので紹介しておきましょう。アフリカの未開人種の赤ん坊を一歳位のうちに文明社会へ収容して、文明社会の赤ん坊と同様に教育すると、知能や才能は、文明人と少しも違わないという結果が出ました。これは、氏の紫の花火(178頁)に紹介されたものをここへ引証させてもらいました。

 これを逆にした実験もあります。文明社会の赤ん坊が狼にさらわれ、狼に育てられ、遂に一言も言葉をしらぬ狼少年の話をご存知の方は多いでしょう。何れにしても、先天的素質よりも後天的鍛錬が如何に大切であるかは、この例証でお分かりのことでしょう。

 学するときは庶民の子も公卿となり、学ばせざるときは、公卿も庶民となる、という諺もあります。

 さて、昭和四十五年度の新入信者は、育成環境さえよければ全員信心増進して、現世安穏の大利益を蒙ることはまちがいなしです。只、育成環境とは、部内、班内の人々の温かい協力と、育てる心が絶対に必要なのです。暮から新年の多忙にとりまぎれて、新信者の育成を忘れることのない様に祈念してやみません。

 (乗泉寺通信45年12月号掲載)


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