人との和

人の和合ほどむづかしいものはありません。それだけに、この点に成功したら、事業でも九十九%成功したと見て差支えないでしょう。それほど大事なものは、人の和合ということです。 

どんなに世の中のことが便利になって、所謂、物質文明が進んでも、結局人間あっての文化ですから人間同志が、いがみ合い、にくみ合い、軽視し合っていたら、決して仕合わせを感じることは出来ません。最後は人間のむつみ合いが実現しなければ本当の文化とは云えないでしよう。 

それ程大事な人の和ということに割合、関心のない方が多いので困ります。金さえあれば人なんかどうでもよいと考えたり、自分の地位さえ確定すれば人を泣かせても、幸福がえられると簡単に考えてはいけません。お金や、地位のためにチヤホヤされても、真の幸福は味えるものではありません。

この問題をもう少し具体的に考えて、どんな心構えで人とつき合ったらよいかというと、結局は、平凡なことですが、相手の立場に立って考えてあげる。その人の身になって行動してあげることが和合する根本の心構えです。恐らく世界中で一番大事なものは誰よりも自分ですから、自然と、自分中心の考え方が長い間にこり固まって習慣化してしっているのですから仲々、人の立場に立って行動することが骨です。 

けれど、その為必ず、どこかで他と衝突があり、結局はみんなお互いにみじめさを感じているのですから、思いきってその逆をやってみることが幸福への第一歩になるようです。 

信心をしないひとには自我中心の殻から仲々抜け出ることはむづかしいのですが、信者ならキットそれが出来るのです。尽してやった相手からその報いを期待しないで、御法様から、その御かえしが頂けることを信じて、一衆生に仕えることが和合への第一歩となるのです。 

昭和34年9月発行 乗泉寺通信より


友が大事

御教歌     白糸のそむればそまる人心なるゝは友よ友をえらめよ 

白糸がどのようにも染まるように、人の心もつき合う人の影響を受けます。「水は方円の器に随う、人は善悪の友による」せ言い、水が四角の器、円い器、どの容れ物にも自由自在に入りますように、人は善き友、悪き友によって性格が変わるのでして、まさに友は人間形成に大事な働きをします。 

論語に益者三友、損者三友という教えがあります。

○有益な人

①直を友とする。裏表のない正直な人。

②諒を友とする。誠実な人、真面目な性格の持ち主。

③多聞を友とする。見聞の豊かな人。たえず、新しい知識を求める人。 

○有害な人

①便辟(べんべき)=世なれたかたちで、こびへつらう人。

②善柔(ぜんじゅう)=あたりは柔らかくて誠実さに欠ける人。

③便佞(べんねい)=心なく口先だけ達者な人。口に蜜あり、腹に剣のある人。およそ人とのつきあいには縦と横とがあります。 

縦とは、親子、兄弟、親戚。これは必然的なつきあい、自分の自由意志に関係ありません。親子は個人の選択できないつきあい。物心がつき、気がついたら親子兄弟がいたという間柄です。 

横というのは、自由に選べるつきあい。気の合う人、合わない人、仕事上の人、その他、さまざまでして、それらの人たちにより、教えられ育ってまいります。「自分以外みな師なり」です。最近は生涯教育ということが叫ばれており、一生涯、教えられることばかりです。人生には賞味期限がありませんので、たえず、問題意識を楽しんでいろいろの知識を吸収してゆきましょう。 

愛別離苦、親しい人と別れる時の苦しみ、会うは別れの始めかな。どんなに好きな人でも必ず別離の悲しみがおとずれます。怨憎会苦、憎しみ合うもの同志、会っていかねばならない苦しみもあります。 

人間関係は難しいです。最初はよくても疎遠になることもあれば、始めは悪くても、つき合っていくうちに親密さが増して来る時もあります。深みと味のある人ですと、つきあえばつきあう程、喜びが増してきます。噛めば噛む程、味のある人、それは思いやりと温かみのある人です。「まさかの時こそ真の友」、「順境は友を与え、逆境は友を確かめる」とも言われ、苦しい時、救いの手をさしのべる人こそ真の友人です。 

当宗ではお助行という御奉公があります。病気や災難の時、お互いは御題目を唱え、御法におすがりして転重軽受のお計らいをいただくことが肝心です。信者同志のつきあいは佛縁によるもの。それだけに大切にしてください。信心という土俵の上でつきあうこと。そのなかでも、いわば信友、信心の強い人とのつき合いは大事にしてださい。めぐみとも申せます。 

功徳と罪障とをはっきり峻別し、功徳を積み重ねることを前向きにおしすすめる人、自信と勇気とをもって、口唱の尊さ、参詣と教化の喜びを説いてくださる人、つねに積極的に明るく、はげましてくれる人。そのような人とは積極的につきあっていきましょう。 

人の世の幸不幸は人と人との出会いから始まります。人生は出会い、ふれ合い、支え合いが肝心。よき人との出会いを求めていくと同時に人の世話を喜んでできる役中になってください。 

御指南    「信者は信心の事ばかりをいひもし、おもひもし、今日世上の迷のことを人がいふとも、随分相手にならぬ様にするこそ用心なれ。四五抄云、若値悪友、則矢本心(もし、悪友にあえば、すなわち、本心を失う)。」 

平成22年9月発行 乗泉寺通信より


信徒教養講座のお知らせ

境内回廊24日(日)は、午前9時半より、渋谷の講習会室において、信徒教養講座を開催いたします。テーマは「仏、仏の十号、仏の三身」。 

4月は120名、5月は90名と沢山の方が参加下さいます。全信徒が対象ですので、どなたでもお気軽にご参加ください。乗泉寺賞の対象となります。 

特に各部の班長さんは、信行と教養を身につけるために積極的に参加させていただきましょう。


ハッピーウェディング

本堂結婚式5月吉日、青年会で一緒にご奉公させて頂いていた信友が乗泉寺本堂にて結婚式をあげました。

お相手は、乗泉寺の教務…今流行りの僧職系男子でありますが、出会いは乗泉寺で開かれている習字教室だそうです。初デートは野球観戦、プロポーズは某遊園地…なんとも微笑ましい限りです。 

式当日は晴天に恵まれ、暖かな日差しの祝福を浴びながら境内の竹林での写真撮影。その後回廊を歩み本堂へ。和楽器による宗歌のBGMとともに参列者の祝福を受けながら新郎新婦入場。

乗泉寺御住職のもと、厳粛な雰囲気の中始まりました。三三九度、新郎新婦による誓いの言葉、指輪の交換…友の結婚式に参列でき、感動。記念撮影の後、披露宴会場へ。 

お寺のご奉公にも友人との関わりにもまっすぐで、常に思いやりの心を忘れない友人、これからもご信心という絆とともに暖かく幸せな家庭を築いていってね。お幸せに!! 

結婚式の形って色々ありますが、お寺での仏前式も和の味わいがありオススメです。ちなみに、私も三年ほどまえにこちらで結婚式をあげました。ウェディングドレスでしたが…。乗泉寺はモダンな境内ですので、写真の思い出にも人生にも素敵な1ページが撮影出来ます。 

次のhappyは誰かしら(*^^*)

青年会 M.H


私に出来ること

ありがとうございます。本日は、お参詣の皆様方にとって、自分の大切な人にご信心をお伝えしていく御奉公の参考になればと思い、私自身の体験談を発表させて頂きます。 

私は、信行相続の三代目で、両親は勿論ですが、特に祖母の生前のご信心前、帰寂した時の安らかな顔と姿を拝見し、日頃から教えて頂いておりますご信心第一の生活の大切さを祖母の姿から学ばせて頂きました。 

私自身が頂いた最初の御利益は、小学五年生の時、弱小だった野球チームで、どうしても上級生と一緒に優勝したいと思い、母親の勧めで十本祈願(お線香十本の御題目口唱)させて頂き、見事所属するチームが優勝致しました。そのような事の積み重ねから、願えば叶う嬉しさ、有り難さを徐々に知りました。 

今までは、家族も病気をすることなく、皆健康で、日々無事の御利益を感得しておりましたが、昨年姉が、三十三才の若さで乳がんと診断され、家族は勿論、沢山のご信者さんのお助行、お励ましを頂き、周囲の予想を遙かに超えた驚異的な回復、健康のお計らいを家族一同感得させて頂くことが出来ました。 

さて、私が現在の妻とお付き合いをしていた当時、彼女を大切に思うようになればなる程、私がご信心をさせて頂いていることを、何とか伝えようと思うようになりました。そして、ある時、自分なり言葉で素直に気持ちをぶつけました。それが良かったのか悪かったのかはわかりません。当時はご信心の事ではよく喧嘩もしました。また結婚するかどうかも、私は全て御宝前にお任せしていたので、とにかく沢山お看経をさせて頂くしかありませんでした。 

ご信者でない方とのお付き合いは、正直言って面倒くさい、大変だと思いました。しかし、誇りを持ってご信心している身として、自分自身に負けたくない気持ちも強かったので、私は、難しい宗義などで妻を説得させようとはせず、「あの方は、お参詣で病気が治った。」、「御奉公をして、こういう御利益を頂いた」など沢山の御利益談を話しました。 

後は根気よく、妻の話を聞くことにしました。妻との対話の中で、生まれながらのご信者という立場では、気がつくことが出来なかった視点や考え方もわかり、自分の思いばかりを相手に伝えよう、分かって貰おうと一人よがりな考えではいけないのだという、当たり前と言えば当たり前のことを学ばせて頂くことが出来ました。 

ご縁があって博多光薫寺のご住職に、妻のことを相談したことがありました。そのご教導の中に、「押し付け信心ではダメ!相手を尊重して相手の家族や先祖も大切にする気持ちを忘れてはいけません。一番は朝参詣ですよ。焦ってはダメです。」とご指導を頂いたことがあります。まさに自分自身に対する言葉であると受け止め、現在まで真摯に実践するように心掛けております。

まだまだ私も彼女も、ご信心の上では、一緒にスタート地点に立った段階であると受け止めています。私としては、もっともっとご信心の有り難さを彼女に知って貰いたいと思っているので、先ずは自分自身がより一層ご信心を増進させ、妻が驚くような現証御利益を一緒に目の当たりすることが出来ればという願いがあります。 

今、一緒にご信心させて頂くようになり、妻に対して「本当にありがとう」という感謝の気持ちで一杯です。今回妻へご信心をお伝えする上で、学ばせて頂いたことや苦労した経験を生かして、今後は、自分自身の大切な友人や縁のある知人、ご病気などで悩まれている方々へ自信をもって御題目のご信心をお勧めしていきたいと思います。(あゆみ会 K.T) 

開導会青年の一座より


佛立信者の家庭に嫁いで

ありがとうございます。本日お参詣の皆様のように熱心なご信者とは言い難い私が、本日このような場で皆様にご披露させて頂くのは大変心苦しく、恐縮しております。私は、二〇〇七年に主人と結婚し、ご信心に触れるようになりました。主人の家は、祖母の代からのご信者で、主人は3代目(母方から数えると4代目)にあたり、生まれた時からご信心一筋です。 

一方、私は、特定の宗教をもたない家庭で育ちました。本日は、私がご信心を受け入れるようになっていった心境の変化を、皆様にお伝え出来ればと考えております。 

結婚するだいぶ以前になりますが、交際を始めて数カ月が経過した頃、主人より「自分には信仰している宗教があり、毎朝お寺にお参詣させて頂いている」といった話を聞きました。正直なところ、私は宗教に対してそんなに良いイメージは持っておらず、主人の話に「これはなんだか雲行きが良くないぞ?」と一抹の不安を抱きました。 

その後、主人より初めてお寺に連れて来て貰い、本堂で大勢の方が大きな声で「南無妙法蓮華経」とお唱えしている姿を拝見し、その一心不乱な様子に少なからず衝撃を受け、主人の信仰に対する私の不安は確信に変わりました。「別れるべきか、もう少し様子をみるべきか・・・」と思いましたが、主人やその家族は本当にとても良い方々で、ご信心が悪いものではないと感じたので、そのまま数年お付き合いを続けました。 

お付き合いする中で、徐々にご信心に対する抵抗は弱まってきましたが、結婚に踏み切るにはやはり大きなハードルでした。主人とは何度も話し、喧嘩も沢山しました。本山・宥清寺の本堂でプロポーズしてくれた際に、「南無妙法蓮華経って十回言って」と言われましたが、何かが心につかえ、一回も言えませんでした。主人の「すぐに信じなくてもいいよ。赤ちゃんに一から教えると思って少しずつ伝えていくから。」という主人の言葉を信じ、結婚を決めました。 

結婚してからは、熱心なご信者である主人に連れられてお会式にお参詣したり、お講に参加させて頂いたり、当時の住まいの近くにあった板橋・信泉寺に週末だけ朝参詣させて頂いたりしましたが、お寺に対するイメージはそんなに変わらなかったように思います。それでも主人は、ことあるごとに私をお寺へ連れて行き、「お寺に来れたからご褒美あげるね」とお菓子などをくれ、プロポーズの際の宣言通り、本当に赤ちゃんを手名付けるかのような行動をとり、私も段々それが微笑ましくなっていきました。 

マイナスからのスタートだった私の気持ちが少し肯定的になったのは、二〇〇八年の夏に乗泉寺で行われた「第二回青少年の一座」に参加した際です。当時、私はまだ「南無妙法蓮華経」と御題目をお唱えすることに大きな抵抗を感じており、一座に参加してはいてもただ座っているだけでした。 

終了後、境内に設置されていた「大切な人へのメッセージ」の中に、主人から私に対するメッセージを見つけました。そこには「いつもありがとう。これからもずっと仲良く、いつの日か一緒に寂光参拝がしたい。」という旨が記載されており、胸に迫るものがありました。

その後、徐々にではありますが、ご信心に対する不信感が消えていき、お寺にも少しずつ足が向かうようになりました。お参詣したり、お看経したりすると主人が喜んでくれる、褒めてくれるというのがあったからかもしれません。昨年の一月からは、自宅の近所にある大塚・遠妙寺へ毎日朝参詣を続け、いつのまにか日課になりました。自宅のご宝前では、朝夕のお看経が中々出来ていませんが、朝晩のご挨拶だけは必ずしています。ご挨拶を欠かすと、不吉なことが起こるかもしれないと感じますし、職場等で嫌なことがあった日でも一応ご挨拶はします。 

振り返りますと、私のご信心に対する気持ちが変わっていったのは、主人の見返りを求めない強いご信心があったからですが、それ以外にも、お寺の皆様が常に優しく接してくれたお蔭であると思っております。たまにお講に参加すると、第一ブロックのあゆみ会の皆様はとても歓迎して下さいましたし、他寺院でも温かい笑顔を下さいます。また。主人の両親は、ご信心に対し熱心ではない、ふがいない嫁である私に大変優しく接してくれ、いつも尊重して下さいます。 

主人や周りの皆様の期待に応えるようになれるかどうか、現時点ではわかりませんが、今後もゆっくり一歩一歩ご信心に触れていけたらと思っております。(あゆみ会 A.T)

開導会青年の一座より

 


開導会御利益談

「初めての甲御講」

ありがとうございます。昨年の十月に初めて、甲の御講をお受け致しました。私は、信行相続三代目の信者です。祖母の代から、乙御講の願主として、御講席は受けさせて頂いておりましたが、甲御講は受けておりませんでした。 

その理由の一つに、甲の御講は連合の皆さんが、大勢お参詣に来られます。我が家のお戒壇を安置してる部屋は、皆さんが入れるだけの広さがありませんので、長年「無理です」とお断りをしておりました。ご信心に対する喜びや感謝の思いはありました。しかし、先のような不安から甲御講を受けさせて頂こうという気持ちには、今一歩踏み出せないでおりました。 

六年前、母が亡くなった後、私は今まで以上にお参詣や御奉公の改良をして、二年前から部長のお役を頂きました。そうなりますと、私は部長として、お参詣将引・お講願主や席主のお勧めをさせて頂かなければなりません。「私自身も甲御講の願主としてお席を受けた方が良いのでは」と戸惑いもある中、でも「やっぱり現状では無理」と自分に言い聞かせておりました。 

そのような時、連合長さんから「部屋の狭さや環境などを理由に御講席が受けられないのは、単なる断り文句であり、お受けする気持ちが足りないからではないか」と問われ、「お席をお受けする気持ちがあれば、たとえ、どんなに狭くてもどんな環境でも、皆さん工夫され、努力してお受けしているのです。その工夫や努力が功徳になるんですよ。」と言われました。 

振り返りますと確かに、お席をお受け出来ない理由を自分の都合で安易に答えていたように思い「これではいけない」と思い切って甲御講を受けさせて頂こうと決心を致しました。 

丁度同じ頃に、私の生活環境が大きく変わる出来事がありました。それは、所属する玉川連合の甲御講にお参詣をさせて頂いた時のことです。急に私の携帯電話にマンションの大家さんから連絡が入り「こちらの事情で申し訳ないが、今すぐに部屋を立ち退いて欲しい。」とのことでした。私は一瞬、頭の中が真っ白になり、どうしたらよいのかわからなくなり、不安で一杯になりました。こうした事情を連合の方々に相談させて頂いたところ、皆さん大変心配して下さり、少しずつですが、気持ちも楽になってきました。 

しかし私が、思い切って甲御講を受けさせて頂こうという気持ちになって、準備をさせて頂いていた最中の出来事でしたので、「何でこんな事になるのか」と少し疑問を持ちながらも、連合長さんのお折伏を改めて思い出し、ただひたすら、無事に我が家で甲御講を受けられるようにとご祈願を続けておりました。 

すると立ち退きをお願いされていた大家さんから、「急なことで申し訳ないことであるから、良かったら新しく建てた所があるので。」と、別の部屋を用意して下さいました。私は、まず第一に「甲御講が受けられる部屋に引っ越しを」という思いでしたので、その旨を伝えた処、大家さんは大変ご信心に理解を示して下さり、部屋の環境も申し分なく、すぐ転居を決めさせて頂きました。 

最初は急な出来事で、不安が重なりましたが、気付けばトントン拍子に事は進み、連合の皆さんに励まされ、御法門聴聞で学んだこと、お折伏を素直に実行させて頂けば、全てが良い方向へ導いて頂け、必ず御利益が頂けることを改めて感得させて頂きました。引っ越しなどもある中で、当初予定していた甲御講の日程も変更や延期をすることなく、喜びと感謝の思いで、私は甲御講の願主となり、お席を受けさせて頂く事が出来ました。 

新たな環境の下で不安はありましたが、初めての甲の御講席は、素晴らしい秋晴れにも恵まれ、御導師に奉修して頂き、連合の皆さんのご協力と沢山のお参詣を頂き、亡き祖父母、両親が間違いなく喜んでくれていると思いました。私は正宗徒になってまだ三年足らずで、ご信者として更なる努力が必要であります。 

本年の総祈願には、「正宗徒各教区三戸増加」と掲げられていますように、一人でも多くの方が、喜びをもって正宗徒になられるよう、私の経験、そしてこれからも熱意をもって、周りの方々にお伝えさせて頂き、お役中として育成の御奉公に励まさせて頂きます。ありがとうございます。(S.K)


成功の鍵

「心愉快なれば終日歩み、憂悶あれば僅か一里にて倦む」と沙翁が言いました。心に喜びがあればきわめて好調子で働けますが、心配事や不平不満があると精が出ません。ですから毎日元気に働こうとするには、必ず愉快にする工夫が必要です。ただ世の中には皮肉なものでなかなか愉快にしてくれない面が多いのです。見るもの聞くものが癪のたねになりがちです。 

借金しようとしても思うようには貸してくれません。ついには人を怨みたくなります。褒めてくれないと、自然腹が立ってくるという具合に、不平は起こしやすいのですが、喜び心は起きません。したがってすることに力がこもらずいいかげんにやりますから仕事がうまくまいりません。 

信心上でも「聞くことを喜ばざるを嫉となす」とあるように信心を喜ばない心は敵だというのです。信者に喜びのない場合は、本気でご奉公できるわけがありません。骨の折れるご奉公に精進できるのは歓喜の心が充満しているからです。喜びがなくお役目でするご奉公では、つらい目に逢えばたちまち尻込みして、肝心の功徳の積みどころで逃げ腰になりますから、哀れです。喜びのない心は我身の幸福を奪う鬼です。

現証の御利益は喜びの心を起こさせるお慈悲です。正法正師に回りあったご因縁の貴さや値打ちがわかれば喜びは増します。欲を少なくして足ることを知る心になれば、わずかな恩恵にも喜びはわきます。 

ある孝子伝に筑前の宗像郡武丸村の孝子正助の逸話が載っていた中に、正助の父母に対する礼儀があまりにも恭しいので、ある人が「お武家のようじゃありませんか」と笑ったところ、正助は真顔になって、「かく賤しきものの親なれば、私の外に腰をかがめる者がありません。それを思うと恭しくせずにはおられません」と答えたという一節がありました。 

こういう心がけであれば、ぶつぶつ文句をいうことなどありますまい。一生懸命、御法のためやお寺のため、あるいは信者の教化育成に心がける人々も同様、愚痴や不平は少ないはずです。そして自分が苦労を重ねれば先師上人のご苦心も理解でき、信心の味わい方も深くなり、この難儀な娑婆のご奉公に楽しみがわいてきます。心に喜びがきざしてくれば、それが不景気にも打ち勝つ力となります。

日晨上人要語録より


6月に入りました

紫陽花衣がえの季節になりました。そしてジメジメしたり暑くなったりと気候の変化が多い梅雨に入ります。より体調管理には気をつけましょう。 

また6月は夏のお会式開導会が奉修されます。部内班内の参詣将引に気張り、ご家族そろってお参詣させて頂きましょう。 

6月の予定 

9日(土)開導会(4座奉修)

10日(日)開導会(4座奉修)

24日(土)信徒教養講座(9時半~)

25日(月)前期弘通御奉公締め切り日