御宝前を中心に

人間に魂がなければ死人も同然、家から柱を除けば家は倒壊します。信心は、私どもの魂であり、柱であります。身も心も、家庭も仕事も、信心を魂とし、支柱とすればこそ安定し、働きぶりも立派になります。 

また、信心は御宝前を中心に修行するので、いっそうみがきがかかり、煩悩に打ち勝ち、御利益感得の光明に接することができます。ですから御宝前を中心とした暮らし方とほ何ぞやという問題に、信者は真剣に取り組んで考え、御指南をいただいて、その暮らし方を創設すべきです。 

ロを開けば、忙しくて考えるひまがないと、人間の特権である「ものを考える」ことを放棄し、信者の暮らし方は、どうあるべきかを考えないようでは、人間としてもだめ、信者としても落第です。 

外出のときは、いってまいります、帰宅のときは、ただいま帰りました、寝るときは、おやすみなさいと、まず御宝前にご挨拶をする。そういうのを、御宝前中心の暮らし方といいます。それがお菓子を買っても、御宝前にお初を供える気も起こらず、お花が枯れても、周辺が乱雑でも、もったいないとも思わぬ無頓着さでは、御宝前を中心とした生活態度とは申せません。 

人の目はごまかせても、御宝前ほごまかせないと、冥の照覧を信じて御宝前のお叱りを何よりコワイと考えている人、善事をして、一般人は知らん顔をしていても、御宝前がご承知だからと、ほめられないでも不満の気持を出さぬ人は、御宝前中心の信者です。それが御宝前の恐ろしさも、お喜びも眼中にない人は、御宝前に背中を向けている人です。

朝のお看経に、今日は、かくかくのお願いがございますから、どうぞお守りくださいと、ご祈願目標を立て、毎日ご祈願をする人、それは御宝前を頼りにし、支柱としている人です。そして、そのご祈願の中に、随時、御宝前のお喜びをいただくご祈願が、顔を出すようになれば、その人は御宝前中心の信心が強くなった証拠です。 

夜のお看経でも、その日のことを反省して、なまけたことや、拙劣だったことを心からおサンゲして改良を誓い、よかったことはお礼をいう習慣がつけば、御宝前と一体となった生活で、そうなれば、信心の妙味がいっそう体得できるでしょう。朝夕のお看経が日常の生活やご奉公につながりがないようでは、御宝前から浮き上がった信心で、下手なやり方というべきです。それでなくとも、油断すると、世間のケガレにたちまちそまって、功徳よりも罪をつくる機会の方が私どもには多いのです。 

ですから悪魔のほこりをかぶらぬよう、口唱にはげんで我とわが身を折伏し、心身の浄化を心がけているのです。お願いも、お詫びも、改良のお誓、いも、すべて御宝前にぶちまけて、お指図をいただくのが当宗の信心で、そういうふうに御宝前を杖、柱とたのんで御宝前からはなれない生活を作り上げるのが、信者の生活建直し運動の基本と認識してください。

日晨上人要語録より

 


回向とは

妙講一座に、願クハ受持口唱シ奉ル本地本法ノ功刀ヲ以テ法界群霊(に回向しその)離苦得益仏果菩提(を願い又)門流持経者の面々(に回向しその)異体同心信行不退、現当二世心願満足(を祈り更に)講内祈願病者ノ面々(に回向しその)当病平癒、病即消滅(を請い最後に)一天四海(に回向しその普天の下四海の同胞悉く)皆妙法二帰スル様にという御文が回向の御文であります。回向の字義は、回はマワス、メグラスの義で、向はオモムキ、ムカウの意で「此方のものを回して向うへやる」ということです。 

大智度論には「回向トハ声ヲ回シテ角二入ルルが如シ」と説いてあるように、地声でほ遠方に届かぬが法螺貝(ほらがい)に吹き入れると遠方に響き渡る。それと同様自利のためにと願うのは功徳が小、他人のために修行するのは声を螺に吹き入れるごとく功徳利益の響きが広大だというのです。 

ですから自分のことの願いよりも死んだお方の追善菩提にとロ唱すれば功徳は大きいのです。しかも信者の信心増進のため、祈願病者のため、すなわちお助行や折伏をすることも功徳の深い回向であり、一天四海皆帰妙法を祈る、すなわち教化誓願を立ててご弘通に努力するご奉公はいっそう大功徳を成ずる回向の行になるのです。ただ死んだ人の追善供養だけが回向だと考えず、ご弘通、ご奉公こそけっこうな回向だと知るべきです。 

近来新興宗教中に死者追善の回向のみが功徳が深いようにいうのがあり、当宗の信者の中にもそんな考えをしているものがあるやに伝聞したことがありますが、、当宗の回向は死者だけに限っているのではなく、現存の人々の幸福を願い、その人々のためによかれとする教化折伏の修行が大切な回向行なることを忘れてはならぬのです。 

したがって当宗では世間でする回向の場合に対しては、お講をつとめて、御法門を説いていただいて、死者の回向と同時に信者の信心増進をはかる一石二鳥の方法を採用するのです。 

回向の意味が死者追善だけでないことを心得て、助行、折伏、教化運動による回向行にいっそう力を入れて大功徳を積むことが肝心で、万一死者追善の回向のみが御利益の道だなどと考え違いをしている信者がいたら、回向の本義をよく説いてあげてほしいものです。 

日晨上人要語録より


成功の鍵

「心愉快なれば終日歩み、憂悶あれば僅か一里にて倦む」と沙翁が言いました。心に喜びがあればきわめて好調子で働けますが、心配事や不平不満があると精が出ません。ですから毎日元気に働こうとするには、必ず愉快にする工夫が必要です。ただ世の中には皮肉なものでなかなか愉快にしてくれない面が多いのです。見るもの聞くものが癪のたねになりがちです。 

借金しようとしても思うようには貸してくれません。ついには人を怨みたくなります。褒めてくれないと、自然腹が立ってくるという具合に、不平は起こしやすいのですが、喜び心は起きません。したがってすることに力がこもらずいいかげんにやりますから仕事がうまくまいりません。 

信心上でも「聞くことを喜ばざるを嫉となす」とあるように信心を喜ばない心は敵だというのです。信者に喜びのない場合は、本気でご奉公できるわけがありません。骨の折れるご奉公に精進できるのは歓喜の心が充満しているからです。喜びがなくお役目でするご奉公では、つらい目に逢えばたちまち尻込みして、肝心の功徳の積みどころで逃げ腰になりますから、哀れです。喜びのない心は我身の幸福を奪う鬼です。

現証の御利益は喜びの心を起こさせるお慈悲です。正法正師に回りあったご因縁の貴さや値打ちがわかれば喜びは増します。欲を少なくして足ることを知る心になれば、わずかな恩恵にも喜びはわきます。 

ある孝子伝に筑前の宗像郡武丸村の孝子正助の逸話が載っていた中に、正助の父母に対する礼儀があまりにも恭しいので、ある人が「お武家のようじゃありませんか」と笑ったところ、正助は真顔になって、「かく賤しきものの親なれば、私の外に腰をかがめる者がありません。それを思うと恭しくせずにはおられません」と答えたという一節がありました。 

こういう心がけであれば、ぶつぶつ文句をいうことなどありますまい。一生懸命、御法のためやお寺のため、あるいは信者の教化育成に心がける人々も同様、愚痴や不平は少ないはずです。そして自分が苦労を重ねれば先師上人のご苦心も理解でき、信心の味わい方も深くなり、この難儀な娑婆のご奉公に楽しみがわいてきます。心に喜びがきざしてくれば、それが不景気にも打ち勝つ力となります。

日晨上人要語録より


続ける工夫

「あまだれ石をうがつ」のことわざのごとく微力なものも、これが積もると大きな力になるものです。「成仏は持つにあり」で、持つとは持続すること、続けなければ所願は成就いたしません。世間のことも同様、「石の上にも三年」です。ですからどうしたら持続するかを考えて、その工夫が大事です。信心も毎日信心持続の誓願を立て、その達成を一心にご祈願するようにならねば本物ではありません。そして、いわゆる薬種信心にならぬよう用心することです。 

「天に従うものは存し、天に逆うものは亡ぶ」と、孟子の言葉にありますように天道を無視し、それに逆行するものは結局亡び去りますから、永続きしようと思えば、悪事を断固排除して、人を泣かせるような行為は慎んで世を渡ることが肝要です。 

また、御教歌に、「はなつ矢の弓いる程はのばれどものぼり果てなばおつといふなり」とあるごとく、満月のごとく引きしぼって力一杯放った矢も、その力相応の高さには行きついても、限界に達すればそこから真っ逆さまに落ちてきます。次から次へと続けて力を加えることができなければ、ある点までは昇ってもそこが終点で今度は転落し始めます。兎と亀のかけ比べのように、とかく力のあるものは一気珂成に突進するかわりに疲れが早く、あるいは優越感にひたって気がゆるみ、道草をくって目標を忘れたりして時間を空費しがちです。その間に微力のものがコツコツと追い越すことがあります。ですから手腕のあるなし、力の強弱よりも、むしろ持久力の有無が成功の鍵です。 

それでは今度ほ、人間はコツコツと不眠不休でいつまでも物事を続けられるかという問題ですが、これはできない相談です。適当の休養はぜひ必要です。夜の熟睡が明日の活力となるのですから、休んでも次つぎに手順よく立ち上がる工夫が上手ならば持久戦は勝つのです。

教化運動でも一戸の教化がようやくできて、御本尊の奉安が終わっても次から次へと親切心を奮い起こして育成の手を積極的に打つことが肝心で、これでよしと中途半端で手を抜くとせっかくの教化子も育たぬことがあります。 

また、上手に立ち上がるには、その前の休み方がうまくないとだめですから、そこにもおおいに工夫が必要です。立つ鳥あとを濁さず式に、よしや失敗しても他に迷惑を少なくする努力がなされてあれば、再起の機会が多く恵まれますが、下手に悪あがきをしていっそう信用を落とすと、なかなか再起が困難になります。ですから休みの方の工夫を上手にして次に起き上がりよいようにすることも大事です。 

当宗の信心は、朝は御題目で始まり夜も御題目で休みます。始終ともにこれほど立派なものはありません。その繰り返しが修行ですがそこに大事な教訓があるのです。

日晨上人要語録より


長い目

現在、たいへんな苦しみを受けている人が、こんなツライ目に会うくらいなら、イッソ自殺した方がと滅入った考えばかりが出てきて、打開策を工夫する元気も出ず、自暴の状態に陥っているとします。苦悩が深刻だと無理からぬことですが、その突きつめた心から一歩退いて多少冷静さを取り戻してもらえると、昔からそれ以上の苦境から更生した人がたくさんあったことがわかるし、苦しみというものはいつまでも続くものでないことも悟れます。 

長い目で人生を見てさえもらえれば、死以外に途なしという絶望感からキット脱却できるのです。また、お金があるから幸福だとか、ないから不幸だとかいっても、長い目で見ると必ずしもそう断定できがたいもので、一時的現象を見ての判断は正確でないことが多いようです。善も悪も、幸不幸も、利口もばかも実際は死んでからでないと、本当のことはきめられぬもので、現在好調だからといい気になったり増長したりする。 

また、逆に不幸だからとむやみに悲観をするのは、共に短見者のすることで、長い目で見れば大河の流れの上に浮いたり消えたりする水泡のようなもので、それにとらわれて一喜一憂しすぎるのは、どうかと思います。それに昨日穏やかであった海が今日は怒涛に急変するというふうな環境の変化もありますから、鏡のような海面を舟歌楽しく進んでいるときは、得意満面で失意の人を冷笑したり、信心もへちまもあるものかくらいに気負っていても、いったん海が荒れ出すと、ビックリ仰天して苦しいときの神頼みで急に信心家になったりするものです。 

それでもそれがご縁で信心をホントに起こせる人は悪縁を善縁に転じ得たので結構ですが、喉元過ぎればまた信心のさめてしまう人は、年中同じ所を往きつ戻りつしている進歩のない人で、それでは一歩一歩とものを築き上げることはできません。 

したがって年中安定のない先ゆき不安の生活をしなければなりませんし、その日暮らしの軽薄な人間になります。それが長い目で物を見られる人は逆境に惑わず順境に奢らず中庸を得た暮らし方ができて、着々と腕もみがき、信用も増し、功徳も積めるというものです。

私どもの御本尊、久遠の本仏は、三世十方の諸仏の中で、一番古い、しかも常住不滅と法華経に説いてあります。その最古の仏で常住不滅ということは、一番長い目で人生の移り変わりをごらんになって、かくすればかくなるという因果の道を体得した最上のお方ということです。ですからその教えに信伏し、そのみ教えに従えば、私ども自身は、一寸先は闇の凡夫で長い目で人世を見る力がなくとも、大船に乗ったと同様、安心して可なりであります。 

日蓮聖人が「我れ日本の大船とならん」と仰せられたのは、そのみ教えを弘めるのでほとばしり出たお言葉です。ですから本門の御本尊に信伏し、日蓮聖人のみ教えを信じ持つ人こそ、真の幸福の途を行く人です。 

日晨上人要語録より


信心の奥ある人

「奥を聞こうより口をきけ」という諺があります。人の心の奥は深くて、聞いただすことはむずかしいが、聞こうとしないでも、その人の言葉の端はしで知れるものだという意味です。話をしているとき、どの程度に心をこまやかに使っているか、それをしらべただけで、その人の精神状態はわかります。学問があるとか、本を沢山読んでいるからと自己の教養を誇示しようとする虚栄心なんかは、惣ち見抜くことができるものでっす。

ところが、仏教には「言語道断、心行処滅」という言葉があります。どういうときに使うかというと、妙法蓮華経は「本地甚深の奥蔵也」といって、仏のみ心の奥深く秘めた不思議な根本の心であるから、その働きを凡夫の力では言いあらわすことも、察することもむずかしい、「言語道断」は表現する言葉がない、「心行処滅」は思慮をめぐらしても考え及ばぬということで、感動からきた沈黙とある人は申していますが、信仰にはそういう言葉を失うほどの心を打つものがありますから、信心の道に精進すると、自然自分の信心に奥行きがでてくるもので、こちらの感度次第で「奥を聞こうより口を聞け」式に、信心の奥行きはわからぬことはありません。 

口唱の時点では同じ信心状態に見えても、精神面や行動面では、厚薄浅深の差がでてきます、どの程度の差と、ものさしではかるようには参らなくとも、言動で信心の奥行きを感ずることはできます。 

現代は、一般に生活水準が上昇し、便利なテレビなどの機械が、どの家庭にも並んでいて、それが豊富な知識や情報の供給源になっていますし、高校生や大学生の数も昔と比較できないほど増加して物心両面の生活が向上し、人の心も豊かになった筈ですが、事実はそう断言できない点が多く、不思議に感ずる人もあるでしょう。ある人は、次から次へと量的にいろいろのものが供給されるので、落ちついて消化吸収するヒマがなく、精神的な「ゆとり」のない豊かさで、それは本当の豊かさではないと申しています。

 信心の眼で見ると、例えば、小恩はわかっても大恩のわからぬ人があると、確かに心のゆとりがないためだなと感じます。また、他人に余計な干渉をし、無暗とお前の考え方や、やり方は未熟だ、自分のが本物だと称して差別視する慢心の一種の型ですが、こんなのも豊かな心の持ち主とはいえません。 

折伏行のはきちがいにも、こういうタイプがあります。冥の照覧を信じ、自業自得の道理がわかっていれば、非難の仕方にも、おのずから限度があって暴力を行使してまで責めて、共存体制にをくずすような行為はしないでしょう。 

信心で「すなお」に仏の教に随従すれば、仏心がこちらに乗りうつって、その人に「ゆとり」と奥行きがでて、現代人の文明の『ひずみ』を解消する御奉公に一役買える筈です。奥行きある信者とはという問いに答えるつもりであらあら書きました。

日晨上人要語録より


願いを持て

願ふことなしと思へば怠りぬ ありとおもへばすすむ信行

と御教歌にもありますが、願望のない人は、踏みきってやるという気持になれず、ダラケた生活をするのが普通です。それに反し、願いが絶大ならば、どんな困難にも打ち勝ってやるという勇気が出て、難事業もついにはやりとげます。 

日蓮聖人が「われ日本の柱とならん、われ日本の眼目とならん、われ日本の大船とならん」という三大誓願を立てて、妙法弘通に奮迅なさったことは、ご承知でしょう。日本のバックボーン(背景)になる、日本の眼となって路をあやまらないように導く、大船となって浪風にも屈せず、国家を安泰にするという誓願ですから、じつに雄大無比のものです。そういう大誓願があったればこそ、命に及ぶ法難にもたえて、不屈不撓の活動ができたのです。 

真剣な願いがあれば、それに比例する活動が生まれます。それが願いがないとなると従来の殻から一歩も踏み出せず、時代に取り残される運命に落ち込みます。願いのないのは一面ノンキですが、人道に逆行する意気地なしです。ですから、生活建直し運動も、願いのない人は、それに参加して気張るという気になれず、短所自覚もできず、実行会に入会してやるという意気も起きません。 

それでは一歩一歩没落していくばかりで、物笑いの種になり、御法にキズがつくではありませんか。どうでも信者は願いを持ち、夢をもたねばだめです。モットモット豊かな生活がしたい、住居をきれいにしたい、モット貯金を増やしたい、なるほど、佛立信者は違うと世間がビックリするように一家そろって、理想的な働き方をしてみたい、というような願いはいくらでもあるはずです。 

遠慮なく、そういう願いを掲げて、立ち上がれば、生活の建直しは必ず成就疑いなしです。

願いを持つことは建直しの第一歩。

日晨上人要語録より


現 証

御利益は、仏様の「めぐみ」ですが、その御利益にもいろいろの種別があります。無事息災の御利益もあれば、病気全快、心願成就、商売繁盛の御利益もある。また私どもの五感に感じない御利益もありましょうし、信心増進という御利益もあります。その中で現証の御利益という場合は御法の真実なることを証拠だてる御利益ということになります。

自分ではどうにもならないとき、けっこうな御利益をいただいて窮状が打開されれば、なるほどこの信心はありがたい、身も心もおまかせしても安心だという決心がつく、それは御利益のために信ずる心になれたわけで、その御利益を現証の御利益というのです。ですから現証の御利益とは信心を起こしたり、堅固にするためにあらわれる御利益とも申せましょう。

世間には議論で問題の解決ができると考えている人が多いのですが、実際は議論で解決のできない事柄の方が多いのです。議論を重ねるとだんだん紛糾し、感情的に対抗するばかりですから、なるべく事実を示して解決する工夫をする方が賢明です。右と左、資本家と労働者、宗派と宗派の問題など議論できまったことはおそらくありません。議論より実行し、事実で証明するにかぎります。「論より証拠」でなければ真の力にはならない。

ですから信心のよさを人に伝えて折伏教化のご奉公を志す場合、信心のよさを生活とか商売とかのしぶりを通じてあらわすよう心がけることが肝要で、その現証に訴えてこそ、当宗の信心を真に世人に納得させることができるのです。

日晨上人要語録より