御奉公日記

先日、部内のお通夜の席で、受持お講師が「祭壇になぜ御本尊をおまつりするか知っていますか?」と突然聞かれたので返事に困った。するとお講師は「私達には死者の霊魂の行末を幸せにする力も何もありません。

そこで御本尊の前に死者を安置し、皆で本門八品所顕上行所伝の御題目様を口唱して寂光へお導き下さいと、ひたすらお願い申し上げるのです。もし御本尊がなかったら、お通夜、お葬式も何の意義もありません。当宗の御本尊こそこの荘厳な儀式の中心であり、最も大事な御本尊です。

 例えば五段・六段もある大きな祭壇の間に懐中御本尊がチョコンとおまつりしてあるのは如何でしょうか?他の人達が見て確かに御本尊に向かって口唱している様には見えますが、成仏を叶えて頂ける御本尊ですと、人々に折伏している姿とは申せません。私達のご信心はすべて御弘通になる事相がなくてはなりません。

 お通夜、お葬式の際の懐中御本尊はどうしても大きい御本尊をおまつり出来ない家に限って特別の場合におまつりすべきです。それを当然の様にどこの家でもおまつりするのは、この上ない結構な当宗の御本尊と御題目を世間の人々に授けてあげるという御弘通の思いが薄くなった証拠です。こういった消極的なご信心のさせて頂き方は、山に閉じこもって修行した昔のご信心の仕方と同じです。御弘通は止まり、御利益が段々頂けなくなってしまいます。

 今の内にしっかり改良しなさいとお折伏を頂き、早速私達の教区では、今後大御本尊をお迎えさせて頂く様に改良した。 

 (昭和44年10月発行)

 

 


御奉公日記

先日、田舎の教化子の処へ行ったらこんな話しを聞かせてくれた。娘の婿が、新御本尊を奉安のままふく面もせず、左手にヒョイと抱えて二階の柱へぶらさげたらその途端左腕が激痛と共に動かなくなってしまった。

 たまたまそこへ私が選びに行ったので良かったのだが、娘は夫の腕をさすりながらただオロオロするばかり。どうしたんだと聞いてみると、「下がせまくなったから二階へ移したのだ」と言う。「それは罰があたったのだから、直ぐにお看経しなさい。お供水をつけなさい」と言うと、婿が本気にせず照れくさがっている。

 それでも無理につけさせたら、いくらか良くなったらしく「俺はこれから静岡まで荷物を運ばなくちゃならないんだ」と、痛さを我慢しながら車で出掛けて行ったので、娘と二人でおわびのお看経を一生懸命させていただいたところ、一時間ほどして長距離電話があり「途中までくると、急に腕の痛みがとれてすっかり元通りになったから、安心してくれ」と言う。

 「それは今、お詫びのお看経をしたから御利益をいただいたんだ。これからはちゃんとお給仕しないとだめだぞ」と言った。それからは、娘が御宝前のお掃除はする、婿は朝夕よく手を合わせて御題目を口唱するの改良ぶりで、商売も順調で大変喜んでいるようだ。

そして、教化子は「あなたが信心の仕方をいろいろ教えてくれたお陰で、娘夫婦が信心を覚えるキッカケが出来たんだ」と私にお礼を言った。

 (昭和44年7月発行)

 


御奉公日記

先日、お教化した妹から電話があって、「御本尊をまつってから社員が次々と辞めていくし、入信したけれどさっぱり良い事がない」と文句を言ってきたので、「そんなに簡単に何もかも良くなるものではない。お寺参詣や家のお看経など力を入れて、まず功徳を積む事が大切よ」とすすめたところ、「姉さんみたいに暇人じゃないから、そんなことできない」と頭からはねつけられたので腹が立ち、「お前のような勝手者は信心する資格がない」と叱ったら、妹は「それなら止める」と言い出してケンカになってしまった。

「どうも妹はわからずやで困る」と愚痴をこぼしていたので、私は「それはまずいですね。しかし本当はあなたにも責任がありますね」と言うと、ケゲンな顔をしているので、「教化は相手のためとは一応は言えるけれど、実は教化親の御利益なのですよ。教化子を育てる事で、知らぬ間に自身に徳がつくというありがたい事なのだから、どんな事を言われても、何とかして御利益をいただかせようと親切を尽くせば、必ず共に御利益がいただけるものですよ」と日頃御法門で教えていただいている信心の筋を話してあげた。

 すると一週間ほどして、お礼を言って来た。「こちらから先日のケンカの詫びを言って、会社も思うようにならなくて大変だろうが、それがうき世というものだから、くよくよせずに都合のつく時にはお寺にご祈願に来なさい。姉さんも一緒にご祈願させてもらうよ」とこちらから勇気付けるように話したら、「姉さん、よろしく頼む」としおらしい態度に変わったのでびっくりした。その翌々日に妹の方から電話がかかり、「以前に会社を辞めた人で、とても有能だった人に街でバッタリ出会った。話しているうちに、もう一度妹の会社に戻って働く事になった様だ。その他にも良い事があって、姉さんのおかげで御利益をいただいた」と言う。「こちらが改良したら、たちまち御利益があらわれるとは、何ともありがたい」と喜んでいた。至らない私の折伏を聞いてくれて我が事のようにありがたくて、うれしかった。

 (乗泉寺通信 昭和44年6月発行)


御奉公日記

日記①

 「そこのご主人が心配性で勤め先で一寸した事があったのを気にして、昨年暮から勤めに行こうとせず休んでいる」と言う。途端に収入の道をふさがれてしまい、止むなく奥さんが近所へアルバイトに行ってはいるが、「借金もあって生計が苦しい」と嘆いていると言う人がいたので、いろいろと立ち入った話をしてみた。家庭内はあまりにも複雑だ。

 しかし「仏法は身体なり、世法は影なり。身体曲がれば、影ななめなり」とのお教えもあるのだから、先づ日頃の信心から改良させようと、朝夕のお看経をどんなに忙しくてもキチンと頂くように、その口唱も、心が御宝前から離れていたり、身勝手なお願いだったらお計らいがない。お教化が出来ますようにと、ご弘通一筋に真剣に唱えなさいと折伏した。

 日記②

 一週間後、先日の奥さんに逢ったので、教えた通りしっかりやってますかと聞いたら、言われた通りの心掛けで口唱に気張らせて頂いたら、お陰様で主人が何も言わないのに働きに行きだし、またアルバイト先では一年越しの給料まで貰えるようになった。

その上、子供が素直に信心するようになったので、お教化にいってもお折伏がどんどん出来るようになったり、次から次へと素晴らしい事が起きて来て、全く不思議です。嬉しくなりました。生活に自信が沸いて来ました、と喜んでいる。

 やはり、教えに叶ったお折伏はどんどんしなくてはならないとつくづく感じた。「折伏は慈悲の最極」というみ教えが少し分かったようだ。

 (乗泉寺通信昭和44年4月号掲載)

 


御奉公日記

日記①

 「信者と名がつく家には、例え一軒でもコツコツ助行に廻って、その家に当てはまった適切な折伏をし、信心の仕方を親切に教えてあげる。こういう地道な御奉公が本当に功徳になる」と、ひろめ会に立ち寄った時耳にしたので、一日一軒でもと思い助行に出かけた。ある家で「2才の女の子がぼうこうの病気で絶えず苦痛を訴えるので、医者通いをしているが」という。信者として当然の朝夕のお看経すらさっぱりあがっていない事を聞いたので「新しい信者で、御尊体までまつってありながら、御本尊様が栄養失調で、あなたの家を守ってあげたくても元気が出ないんですよ」と、お看経の大事な事をすすめた。二・三日後、心配だったので再びお助行にいったら、何日医者通いしてもさっぱり効果がなかったのに、朝晩十分位の口唱で苦痛がなくなるなんてと言い、不思議な顔をしていた。

 日記②

 教化子の畳屋さんが、店付きの家をもちたいと思いながらも、持主が誰かにそそのかされたのか、やっと九分どおり話がついた好条件の家を急に売らないとつっぱねられて、ベソをかきながら愚痴を言って来たので「あなたは入信していたけれど、本心から信心する気がなかった。今から改良して御題目を例え三遍でも唱える気になりなさい」と折伏した。すると、翌日ニコニコ顔で「昨晩先方から電話が来て、是非買ってくれと、鬼が仏になった様な話にうれしくなって、報告に来た」という。お講も今月からたてたいという。適切な折伏は大切と痛感した。

 (乗泉寺通信昭和44年5月号掲載)


氏より育ち

古くから言い伝えられ、聞きなれていることわざの一つに、「氏より育ち」というのがある。氏素性が高貴であっても、それを頼りにして、修養や勉学を怠ると、折角の毛並みのよさ、家柄のよさを穢すばかりでなく、自身も没落の運命をたどることになるから、氏のよさよりも、後天的な鍛錬が大切だという意味です。

 つまり、先天的な素質と、後天的な鍛錬とを比較して、両方とも兼備されるなら一番よろしいのであるが、どちらかを重視せよというのなら、後天的鍛錬が人間にとってより大切だという風に解してよいのだと思う。

 元来、先天的素質は、殆んど大差なく、寧ろ、人間は平等だという例証があるので紹介しておきましょう。アフリカの未開人種の赤ん坊を一歳位のうちに文明社会へ収容して、文明社会の赤ん坊と同様に教育すると、知能や才能は、文明人と少しも違わないという結果が出ました。これは、氏の紫の花火(178頁)に紹介されたものをここへ引証させてもらいました。

 これを逆にした実験もあります。文明社会の赤ん坊が狼にさらわれ、狼に育てられ、遂に一言も言葉をしらぬ狼少年の話をご存知の方は多いでしょう。何れにしても、先天的素質よりも後天的鍛錬が如何に大切であるかは、この例証でお分かりのことでしょう。

 学するときは庶民の子も公卿となり、学ばせざるときは、公卿も庶民となる、という諺もあります。

 さて、昭和四十五年度の新入信者は、育成環境さえよければ全員信心増進して、現世安穏の大利益を蒙ることはまちがいなしです。只、育成環境とは、部内、班内の人々の温かい協力と、育てる心が絶対に必要なのです。暮から新年の多忙にとりまぎれて、新信者の育成を忘れることのない様に祈念してやみません。

 (乗泉寺通信45年12月号掲載)


創造ということ

ご弘通の方針をたてるときに、その立案の責任者は、いろいろと苦心をいたします。どういう方法が、よりよい成果をあげうるか、妙策はないものかと、度々、会議を召集して、みんなの意見をきくようになります。

最近は、その問題とは、全くかかわりのない外部の方々に、自由な立場から考えてもらう、シンクタンク制(考える集団)をとりいれる会社や、研究機関が増えてきているようです。

はげしい競争に生きぬくためには、一歩でも、他社より進んだ新しい方針を、打ちだそうと真剣に取り組んでいるわけです。弘通の問題もまた、同様に、シンクタンク制を採取して、思い切って、新しい方法、創造的な方法を発見しようと、当局の人も、考えていられる。

物質科学の進展によって新しい物質が創造されることは、相当、各方面で試みられているが、人間の生存をおびやかすようなものは、いくら創造されても意味がありませんから、やがて、その方向は異質なものを承認しないという人類の英知によって自然淘汰されるでしょう。

ここで問題にしたいのは精神的な面の創造は、果たしてありうるだろうかということです。創造的なこと、あたらしいことだと、自己満足する前に、先輩の行積をよく研究すると、どこかに、先輩のあゆんだ道の中にヒントがある場合が多いのです。

殊に、万法具足の大法であります。その妙法の中に、時代に即応した弘通方針も内包されているのです。信は道の源ともいわれるのですから、妙法の中に弘通の道、ありとするなら、信こそ、創造の鍵ともいえるのではあるまいか。

(乗泉寺通信48年2月号掲載)

 


真に残るものは何か

よかれあしかれ、ともかく歴史上に名を残した人々のかげには、声なき無数の大衆があった。所謂、サイレント・マジョリティといわれる人々である。

 これらの大衆があってこそ、その上に名を成す人々があったともいえるのであろう。「一将功成りて、万骨枯る」というのも決して強調し過ぎた表現とはいえない。

 ところが、名を残した幸運の人でさえ、諸行無常で、どんな財宝も権勢もあとかたもなく消え果てている。正に水沫泡煙の如し、というべきであろう。

 昔から、人生五十年といわれていたが、現在では七十年~八十年と訂正しなければならぬほど、長生きする人々が多くなった。仮りに百年生きたとしても、何一つ我々の死後に残っていくものはない。全く“箸かたし持ってはいなぬ娑婆のもの”としか言いようがない。

 結局、日蓮聖人のご一生をお手本として生きるところに、我々が永遠の生命を得ることになる。つまり、法華経の行者として身もこころも、一切の言葉や行いをも、法華経にまかせて金言の如く修行すること以外に、真の生き方はないと悟るべきだろう。

 法華経の金言にまかせて修行したことによる大難四ヶ度・小難数をしらずの怨嫉を、現証の利益によって克服され、そのことを記録して残されたものが今日の日蓮聖人の御遺文である。「日蓮が慈悲広大なれば、南無妙法蓮華経は万年の外、未来までも流るべし」と、その慈愛の心を表現されている。

 これが生きた御指南となって、今日の我々の行動の源泉となっている。これ程生命の長い文字は、ほかに見ることができない。

 我々も小型ではあるが、一人一人日蓮聖人の弟子旦那として、如説修行によるその体験を、後世に残そうではないか?これよりほかに、真に残るものはないと思う。

 

 


甘えん坊

年寄りっ子は三文甘いといわれる。目に入れても痛くない孫にたいして、きびしい躾けなど要求する方が無理な話である。

 親は子供にきびしい要求をしたい。どんな困難にも、へこたれぬたくましい生活力を身に付けてやりたい。当然、親と祖父母と、微妙な差異があるのはやむえない。

 子供は、その微妙なちがいを察知して、自然甘やかされる方へ傾斜していく。これも人情というものだろう。所詮、一人立ちしたとき、甘やかされたものと、きたえられたものとの差は歴然とあらわれる。

 横綱の胸をかりて、きたえられたものと、仲間同士の稽古とでは差があろう。お互い同志には、妥協の甘さがあって、きびしさがないからだ。しかし横綱の胸をかりても、必ずしも、いいとは限らない。

 胸をかりるという言葉にもある通り、所詮は、自分自身の工夫と研究に帰するのである。いくら横綱に教えられても、おんぶにだっこというように、一から十まで甘えていたのでは強くなれない。横綱は、相手の中から出てくるものを引き出す、産婆役にすぎないのである。

 語学の勉強も例外ではない。どんな名誉教授についても、受身で教えられている間はものにならない。積極的に、自身で意欲を起こさない限り、お嬢さん芸の域を脱しきれない。

 「心、仏、及衆生、是三無別」といわれているが、いわば、仏の胸をかりて、仏になろうというのが修行である。修行である限り、甘いものではない。

 末代の衆生を救済する仏の慈悲の広大さに、甘えすぎている傾向がありはしないか。法華経の修行は、少しはきびしいことを知ってほしい。日本人全体が、稍々、甘えん坊になりすぎている。世界のきびしい視線を知らねばならぬ。

 (乗泉寺通信48年9月号掲載)

 


姓名判断に迷うひとに

なんにも根拠のないことに、もっともらしい理由をつけて、人を迷わせることが、世の中には随分ありますから油断できません。姓名判断というものもその一つです。

仏立宗では、法華経本門の妙法五字の中に、仏の因行果徳、一切の修行の功徳ありという教えの一筋を守るのが信条です。姓名をかえる必要は全くありません。

一切法華経にその身を任せて、金言の如く修行すれば、さわりになるものは何もないのです。これを、お経文では、如風於空中・一切無障礙とのべられてあります。

以下、姓名をかえなければ、と迷う方のために、それがどんなに無意味なことか、いくつかの角度からのべてみましょう。

①お経文では、諸苦所因、貪欲為本といって、くるしみの原因はわれわれの、貪欲がもとです。姓名が悪いのではありません。

②姓名判断で、名前をかえても、戸籍名はかわりません。まぎらわしいことは却って、不幸の種となります。

③ペンネーム、愛称(ニックネーム)、為名などを使っても、その人の本質はかわりません。体質も、血液型も同じです。勿論、過去から今日まで積みかさねてきた「業」が消えるわけではありません。「旅人の日なたを踏む影みれば、前に後ろに、離れざりけり」との歌の如しです。

④世の中には、同姓、同名の人がかなりおります。みな、それぞれの運命に従っていくのみです。

⑤これから生まれてくる人のためには、教養ある先輩、又は、お寺のお導師にお願いして、つけて貰うのがよろしい。私は依頼されたら、お経文の中から、名前にふさわしい文字を選んでいる。ローマ字が重ならぬように、読み易い字を選ぶようにしている。
(乗泉寺通信48年8月号掲載)