4月1日御総講の御法門

4月1日御総講にて、川口御導師の御法門を聴聞させていただきました。

「信行を 楽しむ人の 長生きは すればする程 功徳重ねむ」

一病息災、二病息災という言葉がある。

医者にまったくかかったことが無い人は、自分の身体を過信してしまい、かえって大病を患いやすく、一つぐらい持病があるほうが健康に気を配り、かえって長生きする。

せっかく生まれてきたのだから、どのように一生を過ごすのかが大事。別の御教歌には、「煩悩の奴(やっこ)の為の長いきは すればする程つみをかさねむ」とある。せっかく長生きしても、煩悩に迷っていたのではかえって罪障を積んでしまう。

ご信心に励み、ご信心を楽しんでさせて頂きたいもの。人間の心には、目に見えないがサイズがあるそうだ。Sサイズの心の人もいれば、Lサイズの人もいる。人の心のサイズは、その人の人生経験、使命を持って生きてきたことで、広がっていく。

また、付き合えば付き合うほどその人の心のサイズが見えてくるもので、サイズが大きい人ほど、信頼が厚いものである。お互いは、心のサイズを広げる努力、信心を楽しんで生きていくよう精進していくことが大事である。といった内容のご法門でした。

この御法門を聴聞させて頂いて、ご信心をさせていただく中で、御奉公やお給仕がめんどくさいと思ってしまう事もあり、反省させられる次第でした。

ですが自分自身の煩悩に負けないように信行改良に励み、功徳を積み重ねる事を忘れずに、明日もその次の日も一日一日楽しんで御奉公させて頂きたいと思います。(K.T)


3月1日御総講の御法門

3月1日御総講にて、川口御導師の御法門を聴聞させていただきました。

「よのなかに  いきてかひ  あるわが身かな み法のために  けふ(今日)もくらしつ」

かすみ草

onigiri-kun

(大意)
この度の一生は、御法の為の人生ですから、御題目を一心にお唱えして毎日ありがたいなぁと思える、
生き甲斐のある人生を送りなさいとお示しの御教歌でございます。

 

毎日を無事に暮らすことができてありがたいと思うことが大事です。

そのありがたいという感謝の思いを、御宝前に向けて御題目口唱という形にあらわし、
さらには感謝の思いを人にも伝える菩薩行に励むことが肝心と、教えて頂きました。

 

毎日欠かさずに御題目をお唱えすることは簡単なようで簡単でないのかもしれません。私もウトウト眠かったり、他の御奉公が忙しかったり、お看経に身が入らないことも少なからずあります。

ですが、毎日口唱に励むことが私自身の使命でもありますから、毎日気合いを入れてお看経に励んで、生きがいのある教務人生を送っていきたいと思います。(k.t)


2月1日御総講の御法門

2月1日御総講にて、御導師の御法門を聴聞させていただきました。

「義は強くことやわらかに身を下る これぞ不軽の折伏としれ」

折伏の大事なことをお示しで、折伏をしたりされたり、自分の考えだけでなく相手の考え方も尊重しなくてはなりません。御教歌上の句に「ことやわらかに」とお示しのように、物事を柔らかく考えることが肝心であり、お折伏の仕方をお教えいただく御教歌です。

「義」とは筋を通すことで、我を突き通すことではありません。筋を通して御看経に励み、御講にお参詣したりして、佛立信心を持つことできるのです。

折伏できるかできないかではなく、させていただくかいただかないか。それには一生の勉強のつもりで謙虚な気持ちになって、日々御奉公させていただかなければなりません。

信心歴ではなく、どれだけ信心があって御弘通御奉公を弘められるか、生意気ながら私にとっても、一生の勉強と受け止めていきたいと思います


1月26日の御講席にお参詣して

1月26日の御講席での御法門を聴聞させていただきました。

御教歌
塩なめて くらした時を 忘るゝな 朝からさかなで めしをくふとも

一生懸命ご法様におすがりをし、御利益をいただいた時のことを忘れない、つまり初心の信心を忘れないことが大事です。

江戸時代の京都では、塩漬けの鯖が御馳走でした。明治18年の当時、普段の食事は一汁一菜で、経済不況により食料もなく、餓死する人もおりました。今の時代では朝から魚を食べられますが、昔の大変な時代を忘れてはいけないのです。

ご信心においても初心を貫き通すことが大事です。我見(自分だけの偏った考え方)を入れず、最初の純粋に一生懸命ご信心に励んでいた時の気持ちを忘れないことです。人間の悪い習性として、慣れてくると初心を忘れてしまうということがあります。

室町時代の世阿弥(「能」観世流)の言葉にこのようなものがあります
①初心を忘するべからず=初めて舞台に立った時の緊張感や感動を忘れないこと。
②時々の初心忘るべからず=30代40代になるとドキドキしなくなるから、芸の感激を
忘れないこと。
③老後の初心忘るべからず=50代60代のべテランになると失敗しなくなるので、いつ
までも初心に帰ることを忘れないこと。

佛立菩薩道において、忘れてはいけないことには次のようなことです。
①入信した時の気持ち
②お役を拝命した時の気持ち
③お教化を授かった時の気持ち

また、世阿弥の言葉に「命には終わりあり、能には果てべからず」とあります。これをご信心に置き換えますと、「命には終わりあり、御奉公には果てべからず」となるのではないでしょうか。

開導聖人の御指南「信者受戒を忘れるべからず」

一日一日を大切にして精進をかさね、初心の気持ちをわすれなければ、謙虚な気持ちと態度が自然に備わるもの。寒い、眠いにうち勝って朝参詣に励み、初心の信心を忘れないことが大事と教わりました。(N.O)


高祖会・青年の一座にお参詣して

平成25年11月10日(日)乗泉寺高祖会・第4座、青年の一座にお参詣して、宮崎日良導師の御法門を聴聞させていただきました。

御教歌
いか計 うれしき事の あるやらん みるにゑまるゝ みるにゑまるゝ

大意
御弘通への思いを強く持ち、ご信心の美しい心を磨いて、人にも笑顔をお布施することの大事をお示しの御教歌です。

仏教では菩薩行の大事さを教わります。菩薩行とは人を慈しむ行為のことで、具体的には布施行という実践方法をお示しです。

スマイル

 

中でも「無財の七施」といって、たとえ金品がなくてもお布施は出来るのであり、七施の一つに「和顔施」という教えがあります。笑顔で人にせっして、優しい眼差しを施すことが、大きな功徳になるのです。

ところが、私たちの日常生活を振り返ると、人を憎んだり争ったりと、笑顔どころか心が曇ってしまいがちです。下手をすると、心のアカが毎日たまっていくばかりなので、ご信心によって心の掃除をしていくことが必要となるのです。

 

劇「泥かぶら」の話。(泥まみれダイコンの事)
容姿の醜い少女がいて、皆からあざけり笑われ、意味もなく石つぶてを受けていました。ある日、少女は老僧に会い、三つの事を守るようにいわれました。

泥かぶら①自分に恥じないこと
②毎日ニコニコしていること
③他人の身になって考えること

その後、少女は約束を守り、心穏やかに暮らすようになりました。

ある日のこと、村へ人買いがきて、少女は身代わりとなって、買われてしまいました。しかし、少女は自分の不遇を嘆き悲しむことなく、老僧との約束を守って暮らしたのでした。

人買いは、少女の心優しさに感化されたのか、置手紙を残し去っていきました。その手紙には「ありがとう仏のような子よ」とつづられていました。

 表情学の権威である工藤力先生は、笑顔の人への伝染力を述べられています。
・笑顔は人にも伝染する
・笑顔が人をひきつける
・明るい結果、物事が好転する
・7~8歳、実年齢よりも若く見える

そればかりか笑顔を心がけていると、凡夫の心が清められていきます。私たち信者は御法様への御給仕として御題目をお唱えさせていただくのです。笑顔を捧げるつもりで御題目をお唱えすると、御法様も一緒にお喜びとなられるのです。

御法様にお喜びを頂きたいという気持ちを持つこと、それがお給仕の精神であり、心を磨く修行になるのです。

つまり、笑顔→喜び→御利益となるわけで、感謝の心を持つことで、より良い雰囲気となって、素晴らしい循環になるのです。

ご信心で教わったことを素直に守り、御題目口唱信行に励ませていただくことで、自分が周囲を明るくできるような存在になれるよう、笑顔を心掛けることが大事と教えていただく御教歌でした。

この御法門を聴聞させていただいて強く感じましたことは、どんなに御奉公が忙しいときであっても、老僧の言った三つの事を守ることが、真の御奉公ではないかと気づけたように思います。N.O

 


日慶上人御13回忌にお参詣して

日慶上人御13回忌にお参詣して、御講尊小山日誠上人のご法門を聴聞させていただきました。

御教歌
勤むれば 嫌ひもやがて 好となる 好をするのが 楽しみとなる」

御十三回忌法要
日慶上人は乗泉寺問題の早期解決のため、不惜身命のご覚悟で御奉公にあたられました。

日慶上人のお好きだったものといえば、「うどん」というイメージもありますが、本当はお看経が好きであられた御導師です。

 

お看経とは「経を看る」と書くように、各宗派でも使われる仏教用語ですが、本門佛立宗でいうところのお看経とは、御題目をお唱えすることであり、当宗における最も大切な修行です。

そもそも仏教の教えでは「三学」を修めることが修行の根本です。三学とは戒律、禅定、智慧のことで、何百とある戒律を守ったり、山などにこもって精神統一をおこない、仏様のお悟りを我がものにするという、とても難しい修行です。

けれどもそんな難しい修行は、末法という今に生きる私たちには、とても勤め上げることはできません。

そこで仏様は末法の私たちのために、御題目の中にあらゆる慈悲を込めて、誰でもできる易しい修行をお残しくだされました。それがお題目口唱行です。

ですからお互いは口唱行を疎かにしてはいけないわけで、かねてより(小山日誠上人が講有在任時代に)私が提唱してきた「よいお看経」を心掛けてほしいのです。

よいお看経とは、御本尊から目をそらさず、姿勢を正しくして、人が唱える御題目をよく聞いて、自分も大きな声でハッキリとお唱えし、御題目が弘まり皆が救われますようにと願い、一遍でも多く御題目をお唱えすることです。

その良いお看経を実践されたのが、日慶上人であられたのですから、乗泉寺の教講は日慶上人のなされた良いお看経を受け継いで頂きたい、との御法門を頂戴しました。

まるで在りし日の日慶上人からお言葉を頂戴したように感じ、あらためて御看経に対する姿勢を改良しなければいけないと思いました。(N,O)


9月25日朝参詣のご法門

25日の朝参詣にて御法門を聴聞いたしました。 

御教歌 「あひがたき みのりにあひし よろこびを わするるまなく くらすうれしさ」

サンビタリアみ仏と私たちがお出会いした御因縁について教わる御教歌で、私たちが御題目のご信心にお出会い出来たことは不思議なご因縁の賜である。

仏滅後になると成仏の道を求めようとする人が一人もいなくなると予見されたみ仏は、私たちを成仏へのスタートラインに立たせようとして、本因下種の御題目をお授け下された。

これまで不透明であった人生の先行きが、明るい未来につながっていることを、御利益の道しるべによって分からせていただける。

私たちの人生はなにかしらの因縁に引かれて、進む方向が変わってくるもの。悪い因縁に引かれたら大変なことになってしまう。

懈怠、慢心、愚痴といった悪い因縁に引かれて、謗法を犯しても平気でいるような人は、自他共に注意する必要がある。

自分の役割を人生の中に見つけ、み仏のお使いとして人様のためになること、ご弘通のお役に立つことを喜んでさせて頂くことが、どんなに素晴らしいことか。信心第一で人生をおくり、妙法にお出会い出来た喜びを忘れてはいけない。

御指南
「あひ難きにあひたりとも、あはざる人よりも懈怠にて空し」
御題目にお出会い出来たのに退転してしまう人は、お出会い出来ない人よりむなしい。

御題目様にお出会いした喜びを、行きつ戻りつしながらも、少しずつ大きくしていきたいと思いました。(N.O)


門祖聖人御命日総講にお参詣して

9月25日の門祖聖人御命日総講にお参詣して、御導師の御法門を聴聞させていただきました。 

御教歌「顔かたち そはいかにせん よき人の 心を習へ うつらざる覧」

ランタナ
御教歌にお示しの「よき人」とは信心の強い人のことで、折伏が出来る人のことをいいます。

功徳になることと、罪障になることがよく分かって、こうしたら功徳が積めるよ、こんなことをしたら罪障を積むことになるんだよと、いつでも入ってくれる人です。

自分にとってよき人は一生大事にしなくてはいけない。反対に、悪縁の人とつきあうと信心を失うことになるので気をつけること。

私たちの心はころころ変わるのです。心の鬼が地獄へ連れていったり、心の菩薩が寂光へ導くのです。御本尊の鏡に写すと、自分姿や心がコロコロと変わっていくのが分かります。

何事も自分の責任で、たとえ結果が悪くても他人や周りのせいにしてはいけない、というのが佛立宗の考え方です。滑って転んでまた起きて、明るく前向きに、楽しく生きていくことが大切です。

また、人は病によって健康の大切さが解ると、信心が増進します。幸せだから笑うのではなく、笑いの中に幸せがくるのです。何事も明るく前向きに考え、楽しく生きていくことが大切です、との御法門でした。 

自分のまわりの、よき人とのご縁を大切にして、自分の信心を磨いていきたいと思いました。今日は雨の御総講でしたが、ご聴聞させていただいて、心が晴れやかに明るくなりました。やはり、御総講参詣はありがたいです。(S.K)


月初祈願総講にお参詣して

9月1日 月初祈願総講にお参詣して、御導師の御法門を聴聞させていただきました。 

御教歌:わすれぬを たもつといへば 法華経の かたきを責めよ おのが心の

ユリオプス
御題:信者の一心の家の内に信謗の二人主を争ふ

大意:信者の「一心」の中には「信じようという心と、信じてはいけない・・」という心の葛藤があり、格闘がおこりますがそれに打ち勝って法華経を信じていきなさい、という御教歌です。


「虎は死して皮を残す、人は死して名を残す」と言います。では、信者は死んでから何を残すかといえば、信者は功徳を残すことが大事です。

信心は何十年もの時がかかります。信者一人を育てるにしても、部をつくるのにも同じように時間がかかるのです。ご信心は持ったら離さない、ということが大事です。初めは冬のごとく、いろいろなことがありますがやがて春は必ずやってくるのです。一生のご信心です。

ご信心の三本柱について
①お題目口唱の大事。朝夕の言上を怠らず朝から晩までお題目を唱える心構えが大切で続けること。
②お寺参詣の大事。1日1回はお寺の土を踏むこと。もしそれが叶わない場合は、月3回の御総講だけでも参詣してください。
③お教化のご奉公。下種折伏を常に心掛けること。
この三本柱を身体で覚えることが大切。

「異体同心とは折伏なり」という言葉がありますが周りから折伏してもらい、お互いにご信心の道を切磋琢磨して、一生の宝をたもっていって下さい。たもつことで、お計らいを頂くのです。という敬老お祝い式での御導師の力強いご法門でした。

私はどんな時(どのような状況にあっても)もご信心をたもつことの大切さと、その道のりは難しい修行なのだと、心を新たにご聴聞させていただきました。そして「異体同心とは折伏なり」というお言葉に心打たれました。
(S.K)


門祖聖人ご命日総講にお参詣して

8月25日の門祖聖人御命日総講にお参詣し、御導師の御法門を聴聞させていただきました。 

御教歌
われも唱へ 人にも唱へ させんとの  心やゝがて 菩薩なるらん

オキザリス佛立宗のご信心はどういうことをするのかといえば、お題目を人に勧めることです。

他人の受苦を悲しんで、我も唱え人にも勧めるのが本因妙という修行です。

口唱行と折伏行は信心の基本で、
一生をかけて修行をしていきます。

修行のポイントは4つ
①わが身を下りて (謙虚な姿勢で人に接する)
人を立てる (他人を敬って軽しめない)
徳を人に譲りて (惜しげなく徳を人にゆずる)
苦労を我身に引き受ける (人が嫌がることを自分がひきうける)

上記の修行のポイントを守っていると、お陰様という気持ちを持てるもの。
けれども現実は逆のパターンが多いです。

事がうまく運ぶと…自慢したり、いばったり。
事がうまく運ばないと…責任転嫁して他人をせめる。
これでは本因妙のご信者とはいえない。

われも唱へ人に唱へさせんとの心で、ご信心の話しを人に勧めていく内に、ちょっとずつ自信が出てきて本因妙のポイントが身につきます。

ご信心に終わりはなく、卒業証書はありません。生生世世の菩薩行で、生まれかわり死にかわりしながら口唱折伏を続けていくことが大事と、教わる御法門でございました。(N・O)