信心こそ所詮

御教歌 速に御利益うくる程みれば 信心こそは所詮なるらめ

たちまち御利益をいただく信者の様子をよく観察すると、やはり信心が肝心だということに帰着する。才能があるとか、資金が豊富だとか、いろいろ良い条件が力だと感ずることもあるが、それよりも信心のいいときに、さっと御利益を蒙る率が多い。「信の一字を詮となす」とお祖師様は仰せられたが、まったく信心が肝心だなあ、と仰せられた御教歌です。

みなさんもよくこのことはご承知で、人に向かっても信心が肝心だと常に申しているでしょう。しかし、実際は信心が大事だということは、本門佛立宗の専売特許ではないのであって、どの宗教でも信心が大事だといわないところはないのです。

ですからただ信心が肝心だというだけでは、実際はわかっているとはいえない。あるいは信心が肝心だといいながら、解釈が間違っているかもしれないのです。ですから当宗では、どういう信心前を理想としているのか、いくつかの条件を心得ていただきたいのです。当宗の信心とはこういうものだと、ハッキリ具体的にのみ込む復習をしていただきたいのです。 

その一つは、御本尊に関することです。信心にはどの信心でも御本尊のないものはありません。拝む相手対象です。こちらの御本尊はいったい何を御本尊としているのか、というようなむずかしい理屈はさておき、ご承知のように、仏の教えの中には、方便と真実とがあります。

その真実の教えである法華経の中に、迹門と本門の教えがあり、その中ですぐれた本門の教えの中に説いた御本尊様を我々の御本尊としているのだということを忘れてはなりません。何でも拝めばいいというものではないのです。唯一絶対の御本尊に、信心を捧げるのですから、その気になって、真剣な心と態度でお仕えするという気がなければダメです。

「生きています敬いをせよ」とおっしゃってありますが、生きてまします御仏にお仕えするという気で、本気にお給仕させていただこうというのでなければいけません。これが信心の一つの心得です。それがいい加減な気持で、御本尊なんか、何でも同じだというズボラな心で、お給仕の仕方もそれに準じていたら、当宗の信心の基本がめちゃくちゃと申していいのです。

以上は御本尊の側ですが、次はこちら側、すなわち私どもの心です。信心とは柔和質直な心とおっしゃってありますが、これは仏説なら、丸くも、四角にも、どうにでもおっしゃるとおりになりますというやわらかい心のことで、これが信心の心です。言い換えると「我」のない心、我を捨てる心です。これは口ではいっても実際になかなかむずかしい。

なかなか真剣に聞いて、それを素直にやるという気が、我々にはどうしても起きません。この点をよくわかっていただかないと、良い教えが流れ込んできません。わがままがあって、教えを用いぬようではいつまでたっても功徳が積めません。

こちらに「我見」があっては良い教えをみなはじき出して受けつけません。そういう点では信心のしたてに非常によい状態があるのです。謗法を払ってどうか御利益をいただきたいという一心で、よく教えを守りますから、パッと御利益をいただく。

ところが古くなってくると、知っているというわがままの心が強くなって、かえって素直な心が失われ御利益をいただけなくなる。お看経はよくするが強情我慢まで手前勝手な気持で、仏の教えどおりにやらない傾向になりがちです。そのほかに大切なことがあります。

まず御本尊様に対するお仕えが真剣かどうか、素直な、やわらかい心になろうと努力しているかどうか、この二点だけでも心がけていただいたら信心はキット良い方へ向かいます。よい信心前になろうと努めてください。


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