9月25日朝参詣のご法門

25日の朝参詣にて御法門を聴聞いたしました。 

御教歌 「あひがたき みのりにあひし よろこびを わするるまなく くらすうれしさ」

サンビタリアみ仏と私たちがお出会いした御因縁について教わる御教歌で、私たちが御題目のご信心にお出会い出来たことは不思議なご因縁の賜である。

仏滅後になると成仏の道を求めようとする人が一人もいなくなると予見されたみ仏は、私たちを成仏へのスタートラインに立たせようとして、本因下種の御題目をお授け下された。

これまで不透明であった人生の先行きが、明るい未来につながっていることを、御利益の道しるべによって分からせていただける。

私たちの人生はなにかしらの因縁に引かれて、進む方向が変わってくるもの。悪い因縁に引かれたら大変なことになってしまう。

懈怠、慢心、愚痴といった悪い因縁に引かれて、謗法を犯しても平気でいるような人は、自他共に注意する必要がある。

自分の役割を人生の中に見つけ、み仏のお使いとして人様のためになること、ご弘通のお役に立つことを喜んでさせて頂くことが、どんなに素晴らしいことか。信心第一で人生をおくり、妙法にお出会い出来た喜びを忘れてはいけない。

御指南
「あひ難きにあひたりとも、あはざる人よりも懈怠にて空し」
御題目にお出会い出来たのに退転してしまう人は、お出会い出来ない人よりむなしい。

御題目様にお出会いした喜びを、行きつ戻りつしながらも、少しずつ大きくしていきたいと思いました。(N.O)


門祖聖人御命日総講にお参詣して

9月25日の門祖聖人御命日総講にお参詣して、御導師の御法門を聴聞させていただきました。 

御教歌「顔かたち そはいかにせん よき人の 心を習へ うつらざる覧」

ランタナ
御教歌にお示しの「よき人」とは信心の強い人のことで、折伏が出来る人のことをいいます。

功徳になることと、罪障になることがよく分かって、こうしたら功徳が積めるよ、こんなことをしたら罪障を積むことになるんだよと、いつでも入ってくれる人です。

自分にとってよき人は一生大事にしなくてはいけない。反対に、悪縁の人とつきあうと信心を失うことになるので気をつけること。

私たちの心はころころ変わるのです。心の鬼が地獄へ連れていったり、心の菩薩が寂光へ導くのです。御本尊の鏡に写すと、自分姿や心がコロコロと変わっていくのが分かります。

何事も自分の責任で、たとえ結果が悪くても他人や周りのせいにしてはいけない、というのが佛立宗の考え方です。滑って転んでまた起きて、明るく前向きに、楽しく生きていくことが大切です。

また、人は病によって健康の大切さが解ると、信心が増進します。幸せだから笑うのではなく、笑いの中に幸せがくるのです。何事も明るく前向きに考え、楽しく生きていくことが大切です、との御法門でした。 

自分のまわりの、よき人とのご縁を大切にして、自分の信心を磨いていきたいと思いました。今日は雨の御総講でしたが、ご聴聞させていただいて、心が晴れやかに明るくなりました。やはり、御総講参詣はありがたいです。(S.K)


第20回婦人会大会

婦人会大会第1部風景去る8月24日(土)乗泉寺の本寺にて、第20回婦人会記念大会を開催させていただきました。 

今回は御講尊・梶本日商上人をお迎えして特別講演をいただきました。90歳とは思えないほどメリハリのある元気な力強い声と、ユーモアあふれるお話に、私たちの心は知らず知らずに引き込まれていきました。 

御講尊は「妙講一座と婦人会」というテーマで、ご講演されました。今の社会は「妙講一座の大切さ」・「命がけ」ということを忘れており「なぜ今、妙講一座なのか」ということを真剣にお話されておられました。
梶本御講尊①梶本御講尊②

妙講一座の神髄、特に「持つ」という言葉の意味について、①いつも②忘れず③実行して④継続し⑤その功徳を身につける、この5段階のうちどれがかけても、「持ち奉る」ことはならないこと。また、因果の法則・懺悔の関係についてもわかりやすくお話くだされました。

最後に御講尊は、戦後急成長をとげた日本が、精神文化と物質文明のバランスを崩してしまったことへの憂いにお心を痛め、明治11年6月以来135年続いてきた妙講一座が今の世の中を素通りしてしまうのはあまりにももったいないことであり、「妙講一座が泣いている」とのお言葉は私たちの心に深く残るものでした。

琴・三味線記念講演の後、東京芸術大学大学院・邦楽科卒業生の方が、琴・三味線3曲をご披露、素晴らしい演奏でこの婦人会大会をお祝いしてくださいました。

婦人会長より皆様へのお礼の言葉があり、第1部は閉会いたしました。 


第2部では、回廊における屋台コーナーは大盛況で、おしゃべりサロン・講習会室・地下ホール・福祉館の各イベント場も大変盛り上がりました。

屋台 宮廷ダンス 手作り教室 乗泉寺吹奏楽団

御奉公・お参詣くだされた皆様に、心より御礼申し上げます。当日のお参詣は、常磐布教区・中央布教区・房総布教区より284名、乗泉寺530名、その他40名、合計854名のお参詣でした。ありがとうございます。(E.H)


直道抄(1)

御教歌
罪深き 人といふのは 仏説を
 かろしむる故 信ぜざる也

私どもは、常々、ご信心の修行によって自らの罪障を消滅していかねばならない、とお教え頂いております。お看経のたびごとに「無始已来謗法罪障消滅」とお唱えしますように、凡夫は誰でも、前世から、上行所伝の御題目のみ教えに背いてきた罪を背負っているのです。

方便(仮)の教えを捨てて真実の佛立信心をさせて頂くことが、この罪障を消滅出来る唯一の道なのです。しかし、罪障が深いということを自覚するのは、なかなか難しいものです。私どもは、物事が自分にとって都合よく進んでいる時には、油断をしてしまい、反対に、思うようにいかない時にはあきらめてしまいやすい傾向があります。

そのため、せっかく御題目口唱に励みながらも、不平不満を言ったり、我を張って自分の考えを押し通したりしてしまうことも少なくはありません。このように、末法の凡夫は、罪障の故に仏様のみ教えをなかなか素直に受けられず、結局煩い悩むことが多くなってしまう、という悪循環を生じやすいのです。

これを解消するには、まず、お懺悔をさせて頂かなければなりません。私どもの罪障は、自分でも意識することができないほど奥深いものでありますから、毎日「無始已来謗法罪障消滅」とお唱えし、御題目口唱を重ねることによって、自分には間違いがない、という慢心を抑えてゆかなければなりません。そして、素直な心でお参詣、御法門聴聞、そして化他行へと気張り、また、職業等世法の面も全て信心増進につなげてゆく工夫が必要です。 

例えば、重病で医師に見離された人が、決定してご信心一筋に励んだ結果回復した、という場合などは、信行の功徳による定業能転としか言いようがありません。「道の源、功徳の母」と言われるご信心に全てがつながってゆけば、善い種が善い結果を導くという望ましい循環の輪の中へ入ってゆけるのです。

開導聖人はお書き添えの御指南に
「謗法を佛説に背きながら懺悔改良せざる所は、諸天のにくみ給ふところ也 故に守りなし」と仰せになっています。み教えからはずれているようなあり方を懺悔、改良させて頂かなければ、御宝前からご守護を蒙ることもできるはずがありません。

私どもは、あらゆる事象を信行へと結び付けるならば、現世における御利益、そして臨終の際の寂光参拝という大果報を頂戴できるのです。せっかくそのような最高・真実の御法にお出会いしたのですから、どのような時でも懺悔、改良を忘れず、罪障を消滅し功徳を積んでゆくため、み教えの通り精一杯御奉公に励まさせて頂くことが肝心です。


仙台 妙護寺へ 震災支援団参

去る7月20日・21日に第3ブロックのお教務3師と講務25名で、仙台・妙護寺の震災支援団参の御奉公に伺いました。

閖上の海岸近くにて20日は、仙台空港近くの閖上(ゆりあげ)の海岸近くで、内田照肇師ご唱導のもと、震災被災者のご回向をさせていただきました。

一帯は家の土台だけが無惨に広がる一面の空き地で、工事用クレーンがあるものの復興もまだまだ進んでいない状況でした。

妙護寺 本堂にて21日は、仙台市向山という岡の頂上近くの妙護寺の開導会に伺いました。 震災では、建物自体の被害は無かったものの、ご内陣のお道具などが倒れてそのお道具の修復に費用と時間がかかったとの事でした。

第3ブロックの御有志、乗泉寺からのお見舞金を支援として差し上げることができました。 

近藤泉国ご住職からは、乗泉寺をはじめとする佛立宗のお仲間からの支援、励ましが大変ありがたいとの感謝のお言葉をいただきました。

お会式では奉修導師の青森県弘前・安穏寺御高職・佐藤日篤導師の御法門を聴聞させていただきました。

御教歌
清風は みのりにあふて しぬる也 こんなうれしい ことははじめて

佛立の真髄である「妙法五字を弘める」ことを一生の喜びとして御奉公に励む覚悟を教えていただく御法門でした。

佛立の仲間を支え合う御奉公のお計らいとして、23度という涼しい風を受け、怪我も事故もなく無事戻ることができました。(A.I)

乗泉寺通信9月号より


直道抄

佛立第二十二世講有・乗泉寺第二十一世住職、日慶上人の御13回忌法要を、来月10月22日に渋谷・乗泉寺において厳修させていただきます。日慶上人は、乗泉寺を正常化された大御導師です。そのご恩を思い起こす一助として、上人がご執筆になれた直道抄を本日より数回にわけて掲載させていただきます。

日慶上人
御教歌

何もかも みなよいことヽ かはりゆく
世は人につれ 人は世につれ

私どもが裟婆世界において生きてゆくうえで、御題目様から頂ける果報の見出し方をお示し下された御教歌です。 


世の中が時々刻々変化してゆく無常の中で、その変化に対応しつつご信心をお持ちすることが、私どもにとって大切なのです。
 

御教歌の下の句に「世は人につれ人は世につれ」と仰せのごとく、世の中の変化というものは、人によってもたらされる部分が多く、また逆に、科学や経済等の発達に伴って人々の生活様式が変わってゆくという面もあります。しかし、世の中が変化してゆく状態を的確に把握して対応をはかるのは、なかなか難しいことです。

例えば、医学の進歩によって、ひと昔前には救い得ないとみなされていた病気を治すことが可能になったような例もありますが、一方では、延命措置や脳死判定、あるいは薬の副作用等の新たな問題も生じております。恐らく、誰もが予期することのできなかった問題でありましょう。

このように、私どもが住む裟婆世界における出来事は、どこまでが確かなものであるのか、見きわめがつきにくい事柄が多いようです。そのような中で私どもがお持ちしてゆく、本門肝心上行所伝の御題目のご信心は、口唱信行によって功徳を積み、その功徳から身付きの果報が得られることを教えて頂くものであります。

殊に、変化の多い世の中では、その時に応じた物事への対応力とでも呼ぶべき果報を頂くことができるのです。すなわち、何事もご信心第一にさせて頂けば、世の中に何か変化があっても、その弊害を受ける度合いが少なくなる、ということです。

このような、変化に対応できる御利益を蒙るために必要となるのは、御宝前のお導きに全てをお任せしながら、日常信行を着実に積み重ねてゆくことです。この「お任せ」の信心によって物事を長い目で見て、御奉公を続けてゆく間に、世の中の変化に気付いて、もっとご信心に励まなければ、と自覚を深めたり、或いは変化の多い世の中でも御利益を頂いて、更にご信心への随喜を深めてゆくことが、善因善果のあり方に結び付くのです。

具体的に申しますと、自宅において、毎朝のお看経の際、今日無事で過ごせますように、とのご祈願をさせて頂くことは、世の中の変化に対処してゆけるようなお計らいを蒙るためのご祈願につながります。そして、夕方のお看経で商売繁盛等の御礼をさせて頂ければ、商売等をなお一層継続できますように、とのご祈願に結び付いてゆくのです。

したがいまして、私どもは、凡夫考えでご信心をおろそかにしたりせず、世の中の変化に応じた御利益を蒙ることができるよう、日常信行に怠りなく励まさせて頂くことが肝心です。


月初祈願総講にお参詣して

9月1日 月初祈願総講にお参詣して、御導師の御法門を聴聞させていただきました。 

御教歌:わすれぬを たもつといへば 法華経の かたきを責めよ おのが心の

ユリオプス
御題:信者の一心の家の内に信謗の二人主を争ふ

大意:信者の「一心」の中には「信じようという心と、信じてはいけない・・」という心の葛藤があり、格闘がおこりますがそれに打ち勝って法華経を信じていきなさい、という御教歌です。


「虎は死して皮を残す、人は死して名を残す」と言います。では、信者は死んでから何を残すかといえば、信者は功徳を残すことが大事です。

信心は何十年もの時がかかります。信者一人を育てるにしても、部をつくるのにも同じように時間がかかるのです。ご信心は持ったら離さない、ということが大事です。初めは冬のごとく、いろいろなことがありますがやがて春は必ずやってくるのです。一生のご信心です。

ご信心の三本柱について
①お題目口唱の大事。朝夕の言上を怠らず朝から晩までお題目を唱える心構えが大切で続けること。
②お寺参詣の大事。1日1回はお寺の土を踏むこと。もしそれが叶わない場合は、月3回の御総講だけでも参詣してください。
③お教化のご奉公。下種折伏を常に心掛けること。
この三本柱を身体で覚えることが大切。

「異体同心とは折伏なり」という言葉がありますが周りから折伏してもらい、お互いにご信心の道を切磋琢磨して、一生の宝をたもっていって下さい。たもつことで、お計らいを頂くのです。という敬老お祝い式での御導師の力強いご法門でした。

私はどんな時(どのような状況にあっても)もご信心をたもつことの大切さと、その道のりは難しい修行なのだと、心を新たにご聴聞させていただきました。そして「異体同心とは折伏なり」というお言葉に心打たれました。
(S.K)


「竜ノ口御法難記念口唱会」のご案内

乗泉寺来る9月12日(木)は乗泉寺本堂において「竜ノ口御法難記念口唱会」を開催いたします。

お祖師様は、文永8年(1271年)9月12日(御年50歳)鎌倉・竜ノ口で御法難にあわれました。

この時の不思議な現証を信心のお手本といただき記念すべき日に教化成就のための口唱会を行います。

当日は午前9時から午後3時まで口唱会です。「報恩教化各部1戸早期達成」の為、御宝前のお力添えをいただけるよう一遍でも多くお題目口唱に気張り、下種折伏の実動御奉公につとめる一日とさせていただきましょう。

下記のとおりの時間で、ブロック別強調口唱といたします。

・9時  ~ 11時  1B、2B、5B
・11時 ~  1時  4B、6B、8B、9B
・1時  ~  3時  3B、7B、10B、11B


つみかさねて

昨年の御教化成就に至る迄のお話をさせて頂きます。きっかけは世田谷別院弘通部の教化道場でした。暑い中のお看経が終わって、どうしたらお教化が成就させて頂けるか話し合いがありました。その中で口唱の大事さが一番であり、その方法として十万遍口唱の話がでました。

恥ずかしい事ですが、唱を御祈願したことはありませんでした。他の人達と一緒に一万遍、二万遍と道場等で時間が過ぎるままというお看経をさせて頂いたような気がします。この日は、十万遍口唱は必ず現証があらわれますよと話をされた方がいました。

普段でも開門参詣されて、教区部の御奉公もされていて、その他に十万遍口唱を心掛けている話をして下さいました。私は自分に出来るか自信がありませんでした。始めたはいいが途中でダメになったらどうしよう、といつもは思っていましたがこの時はなぜか、させて頂こうと道場の帰り道に決めました。

翌日から普段のお看経の他に十万遍口唱を祈願して始めました。世田谷別院にお参詣して30分、1時間と別のお看経をお教化成就の御祈願としてさせて頂きました。

一万遍口唱を成就した時にお教化が一戸さずかりました。その時に、嬉しくてやっぱり言われた通りの御利益を頂戴したと感得致しました。その後残りの九万遍も何とか11月迄に成就致しました。

今年も世田谷別院での教化誓願成就の為のお看経を積み重ねていきます。ありがとうございます。(M.I)

御教歌
だいもくは 千遍よりは 万遍と
 唱へかさねて 妙をしる也

平成25年度寒参詣体験談集 涌出24号


信心こそ所詮

御教歌 速に御利益うくる程みれば 信心こそは所詮なるらめ

たちまち御利益をいただく信者の様子をよく観察すると、やはり信心が肝心だということに帰着する。才能があるとか、資金が豊富だとか、いろいろ良い条件が力だと感ずることもあるが、それよりも信心のいいときに、さっと御利益を蒙る率が多い。「信の一字を詮となす」とお祖師様は仰せられたが、まったく信心が肝心だなあ、と仰せられた御教歌です。

みなさんもよくこのことはご承知で、人に向かっても信心が肝心だと常に申しているでしょう。しかし、実際は信心が大事だということは、本門佛立宗の専売特許ではないのであって、どの宗教でも信心が大事だといわないところはないのです。

ですからただ信心が肝心だというだけでは、実際はわかっているとはいえない。あるいは信心が肝心だといいながら、解釈が間違っているかもしれないのです。ですから当宗では、どういう信心前を理想としているのか、いくつかの条件を心得ていただきたいのです。当宗の信心とはこういうものだと、ハッキリ具体的にのみ込む復習をしていただきたいのです。 

その一つは、御本尊に関することです。信心にはどの信心でも御本尊のないものはありません。拝む相手対象です。こちらの御本尊はいったい何を御本尊としているのか、というようなむずかしい理屈はさておき、ご承知のように、仏の教えの中には、方便と真実とがあります。

その真実の教えである法華経の中に、迹門と本門の教えがあり、その中ですぐれた本門の教えの中に説いた御本尊様を我々の御本尊としているのだということを忘れてはなりません。何でも拝めばいいというものではないのです。唯一絶対の御本尊に、信心を捧げるのですから、その気になって、真剣な心と態度でお仕えするという気がなければダメです。

「生きています敬いをせよ」とおっしゃってありますが、生きてまします御仏にお仕えするという気で、本気にお給仕させていただこうというのでなければいけません。これが信心の一つの心得です。それがいい加減な気持で、御本尊なんか、何でも同じだというズボラな心で、お給仕の仕方もそれに準じていたら、当宗の信心の基本がめちゃくちゃと申していいのです。

以上は御本尊の側ですが、次はこちら側、すなわち私どもの心です。信心とは柔和質直な心とおっしゃってありますが、これは仏説なら、丸くも、四角にも、どうにでもおっしゃるとおりになりますというやわらかい心のことで、これが信心の心です。言い換えると「我」のない心、我を捨てる心です。これは口ではいっても実際になかなかむずかしい。

なかなか真剣に聞いて、それを素直にやるという気が、我々にはどうしても起きません。この点をよくわかっていただかないと、良い教えが流れ込んできません。わがままがあって、教えを用いぬようではいつまでたっても功徳が積めません。

こちらに「我見」があっては良い教えをみなはじき出して受けつけません。そういう点では信心のしたてに非常によい状態があるのです。謗法を払ってどうか御利益をいただきたいという一心で、よく教えを守りますから、パッと御利益をいただく。

ところが古くなってくると、知っているというわがままの心が強くなって、かえって素直な心が失われ御利益をいただけなくなる。お看経はよくするが強情我慢まで手前勝手な気持で、仏の教えどおりにやらない傾向になりがちです。そのほかに大切なことがあります。

まず御本尊様に対するお仕えが真剣かどうか、素直な、やわらかい心になろうと努力しているかどうか、この二点だけでも心がけていただいたら信心はキット良い方へ向かいます。よい信心前になろうと努めてください。