多勢に無勢で、多数と少数の力比べは多数が有利にきまっています。しかし盲人を十人寄せても一人の目明きにかなわぬときがあるように、烏合の衆では多数でも負ける場合もありましょう。一人だから、少数だから負けるのは当然だときめてしまうのはどうかと思います。
仕事によっては一人で充分できるものもあります。協同作業でなければ運営できないのもあります。最初は一人で始めたものも発展して多数の協同作業体に変わるものもあります。そんな場合に自分一人で始めたのだからと協同作業に変わった現在の性格を忘れて、ワンマンでやれると思い込んでいると、とんだ失敗を招くことがあります。
独裁で成功しても独裁で終わりを全うできるとはかぎりません。一家の主婦などは主人や家族とで協同処理する家事と、自分一人でやる家事と一人で二役も三役もの使い分けもやるのです。
信心行では「異体同心なれば万事を成ず」という協同体制下の修行面と、一人の改良は万人の改良というただ一人で率先垂範する修行面とがあります。信者はそのどちらの場合にも即応できるご奉公の鍛練が大事です。
組織の整った中で育った信者は、組織のない場所へ移転でもすると、とたんに手も足も出なくなるのがあります。大会社の組織の中で働いている人は、創業時代の人々のような自主独往の気慨が欠けているのが多いのと同様です。
ですから異体同心の心構えや、その実践に必要な注意事項を一歩一歩積み重ねる苦心や努力をするとともに、一方では事なかれ主義になったり、機械の部品みたいになったりする組織体から受ける弊害を極力防いで、いつでも、どこでも一人立ちができる信者になることが大事です。
釈尊は「唯我一人能為救護」といわれお祖師様は「日蓮さきがけしたり、吾党ども二陣三陣これに続け」とご策励くださいました。裟婆の衆生の苦悩を取り去る責任は自分一人にあるという貴いお考え方です。
ですからそのお流儀を学んで自分一人でもやるという気慨が大事で、それがないようではお弟子信者の資格も影がうすくなります。異体同心を必要とする協同体で協調精神が肝心ですが、他方、自己の能力を伸ばす努力も大事で、その双方が結合されたとき、より大きな力となって大功徳が涌き出します。
個人個人の持ち前や能力を抑制するような団体は、烏合の衆になる心配があります。ですから理想的な信者の集団は個人の力も、多数の力も、それぞれ立派に発揮できるものにしたいものです。
教区活動や宗門全体の運動に喜んで協調する訓練をすると同時に、一人一人でも立派にご奉公をやり通せるように信心の鍛練をしたいものです。素直に右へならえができても、一人になると意気地のないのも困りますし、その道に我ばかり強くて協調精神のない人も功徳の積めない困った人です。