どんなものにも表と裏があります。光があれば影、陰と陽です。建前と本音という面がつきそいます。人間にも生と死があり、人間は他の動物と違い、死を自覚し予想し得るのでして、いかに死ぬかはいかに生きるかの問題とも関連して考えねばなりません。この両面が調和されて、物事がまとまり、つき進んで行きます
ところが、私達は往々にして影におびえて物事を判断する場合がままあります。なまはんかに聞きかじって、誤った即断をすることがよくあります。他人の無責任な放言に左右されてはいけません。常に正しい判断のもと御奉公させて頂くべきです。我を通すのではなく、筋を通すのです。人の評判を気にしては、満足な御奉公は出来ません。
昔、ある一人の粉ひきの職人が息子と一緒にロバを引いて市場に売りに出掛けました。すると通りがかりの人に「ロバに乗らないなんてもったいない。」と言われ、そこで息子を乗せて歩きました。
今度は「親不孝な子だ。頭の白くなった親をお供にして歩かせるなんて全く心ない息子だ。」と言われたので、それもごもっともと思って、子どもを下ろして、自分がロバに乗り息子を歩かせました。
すると次に「可哀想に、子どもを歩かせ親が大名みたいに馬の背にそっくり返っている、よく恥ずかしくないものだ。」と言われ、親は閉口して息子を後ろに乗せて歩き出しますと、また人に「あの親子はどうかしている。二人もロバに乗るなんて、あれではロバがへたってしまう、可哀想に。」と言われました。
業を煮やした粉屋のおやじは、今度は二人とも降り、ロバを先に立たせて歩かせました。それを見ていた人々は、あざ笑いました。「世の中も変わったものだ。ロバ殿が悠々と先に立って歩き、人間どもがお供している。」
とうとう、粉屋のおやじさんは、「人の思惑を気にしていては何一つできない、自分は自分の道を歩かなくてはならない。」と覚るに至りました。(フォンテーヌの寓話)
長所は短所と言います。完璧というものはありません。まして人の言葉はいい加減ですから、それに気をとられていては何事も出来ません。人の噂も七十五日、根も葉もない、いい加減な言葉に振り回されないでください。
お祖師様に喜ばれる信心、これが大事です。いつでも御本意に叶った信心でなければなりません。陰の声におびえていては御奉公は成就できません。
所詮、陰の声・みんなの意見という言葉にひきずられがちです。信心はみんなの意見に従うのではなく、お祖師様の意見に従うこと。つまり、御指南や御妙判に従うことです。従うことの良さを学ぶのが信心です。
些細なことに気を取られ、大事な問題をなおざりにしては駄目です。信心の大道をふみはずさないで、いつでも正しい大筋を歩み続けていくことです。自分勝手、我儘勝手の信心は邪道です。正しいみ教えを聞き、実行に踏み切って下さい。
信心が汚れてくると理屈が多くなり、身体が動かなくなりますから用心が肝心です。理屈とこう薬は何処にでも貼り付くのです。言い訳は弱いものです。
御教歌
よの人のさがなしごとをまた人に つたへてわれに罪なつくりそ
慈悲広大より