若いとき

昔から「若いときの苦労ほ買ってもせよ」といわれています。七ころび八起きのできる気力も体力も具備している若い世代こそ、体当たりでいろいろ苦労ができ、経験も積めるのです。

それなのに安易な道ばかりを選んで楽がしたいと願っている人は、若い世代の値打ちを知らなすぎます。実際若い間の人生に対する考え方いかんによって、その人の一生の運命が決するのです。

若いときの苦労は買ってもするくらいの意気と聡明さがなくてはいけないのです。ところが、若いときは体験の裏づけが不充分なのに、頭の方がぐんぐん進んで、そのためか「なまいき」になる傾向が強く、含蓄のある哲人の言葉などわりと受けつけません。

年上に突っかかることを何とも思わず、青年はそれでよいのだと考えているらしい。それに対して甘い母親などは、うちの息子はこの頃「なまいき」になって親をばかにして困りますと表面はこばして、内心は自慢しているような話しぶりをします。

一般の人も善良な母親と同様青年の「なまいき」に対して寛大なものです。すると若い人の中には調子に乗って、信心のことにも口ばしを入れ、信心なんか年寄りのすることで若いうちは無理だと弁じ立てます。

一方それに共鳴する親御さんもいて、わりあいご奉公による人生経験の価値を知らない人が信者の中にもあります。盲目千人の世の中です。近世の歴史は文明の利器の発達や科学の進歩に目がくらんで、そこだけに人生の幸福があると考え違いをし、信仰なんか不必要だときめこみ、神仏などを追放して悔いない増上慢の失敗史です。

人間尊重という近代精神がもたらした玉手箱もあけてみたら、人間の傲慢がその中にたくさんふんぞりかえっていたために、その傲慢に対して大鉄鎚が下された形です。若いうちは信心せんでもよろしいという考え方も傲慢の一種ですから、近代史の人間の思い上がりと一脈相通ずるものがあって、その復しゅうに泣く日がなければ幸いです。

それに現代は、商売でも仕事でもだんだん分業化されます。その専門の道では練達者でも、他の分野ではからきしだめで、ちょうど機械の部分品のような人が増えています。したがって視野が狭くなり、自分の足もとはわかっても他の情勢判断ができないため危険がせまってもわからぬ場合も生じます。信心ご奉公をしてごらんなさい。

商売や仕事では接しえない範囲の人に近づいて、知らず知らずどれだけ視野が拡大されるかわかりません。それ一つを考えてもどれだけ得をするかわからないのに、ご奉公は年が寄ってからいたしますという考え方は、得のいくことは後回しということになり、若い世代の活用を知らなすぎる話です。

 


迷惑をかけるな

他に迷惑をかけない程度に飲んでいるお酒は無事ですが、家族や、他人にまで迷惑がかかる飲酒は罪が深いといえます。私どもの言葉やふるまいが、あるいは生活のしぶりが、他に迷惑をかける場合も同じ結果が生まれます。

タバコ飲みでも、契煙のエチケットをわきまえないと他に迷惑のかかるときがあります。煙草は酒とは違うと油断はできません。だいたい、他に迷惑をかけて平気でいる人に対して、世間は教養が低いと評価し、本気で相手にしなくなるのが普通です。

お看経のときの拍子木の打ち方でも、隣近所の迷惑をかまわぬようでは、低級な信心と軽蔑されるでしょうし、したがってご弘通にも障りになります。自分は力のこもったお看経ができて気持よいでしょうが、周囲に迷惑がかかっては利己主義になります。

鬼手仏心という言葉をご存知ですか。医師が手術するとき、仏様のような慈愛を患者に対して持てというのが仏心で、いざ手術というときは、苛酷に見えるはど、容赦なくやるのが鬼手という意味、つまり痛いだろうと同情ばかりしていては、手がにぶりますから、鬼手が必要というのです。

折伏も燐みの心が元で、しかも、いざ折伏というときは、うらまれても急所をグサリとえぐり出さねばいけないのと同様です。しかし、鬼手仏心とはいえなるべく鬼手の方を用いずに成功するよう工夫をこらさねば慈悲心がうすいことになります。

最近は手術の研究が進み、麻酔剤などが進歩して、無痛で手術が行なわれるようになってきました。折伏でも怨嫉は覚悟の前と強がりばかりいっていて、喜んで聞いてもらえる工夫を怠り、ワザと敵を求めるやり方は進歩的とは申せません。

お看経の仕方、助行やお講のやり方、拍子木の打ち方など、他に迷惑をかけない工夫をすることが、御法に忠なる信者のつとめです。「通さぬは、通そうための道普請」で、後々の安全をはかるのでしたら、一時の迷惑は辛抱せねばなりませんが、その一時の辛抱も最少限度にくいとめるのが、人間の善意であり努力のしどころです。

宗教でも場合によっては迷信を助長したり、文明の進歩を妨げたり、政治を曲げたりして、人々に迷惑をかけた歴史もないわけではありませんから、信仰だからといい気になって、油断したり、独善になったりして、他に迷惑をかけては相済まぬわけで、もし迷惑をかけている点があったら、適切に処置しなければいけません。

家族のことにしても、お互いに迷惑をかけるようにと努め合うのが大きな力になりますし、信心上の異体同心も、相互に迷惑をかけないと努めるところに成立します。アナタは貸借関係や男女関係で迷惑をかけていないか、後輩の進路を押えたり、所属団体に迷惑をかけていないか、お寺や会社や同僚や親や妻子にはどうか、とくと考えてほしいのです。(k,t)


目標を持て

日々の生活に目標のある人は幸福な人です。目標を持った生活にこそ人間の底力とか、尊さがあらわれるのであって、目標のない生活には、それがあらわれないからです。

無目標ではすること、なすことに力が入らず、惰力で暮らす状態ですから、下落こそすれ、向上発展の活力は出ないのです。そしてさらに気の毒と思うのは、目標なしの生活が、下の生活だと気がつかず、平気でいる人が多いことです。

むろん、失業でもして不安裏に今日を送っている人々比べれば、職を持って暮らしている人は幸せにちがいありませんが、無目標の生活を繰り返していると、いつの間にか目標を持つことをぜんぜん考えぬようになり、目標をめざして努力する勇気がなくなり、輝かしい希望を失い、したがって人間本来の楽しみが消滅してしまうことです。

信者でも、目標なしの信心では低調となります。たとえば、ご祈願をかけても、そのご祈願が自分にとっては大事な目標だと自覚せずお願いしておけば、自然に成就するぐらいの考えでは、ご祈願が御利益を生み出す機縁にはなりません。

御宝前にご祈願した以上は、目標達成にさらに拍車をかけ、何がなんでもという意気込みを起こす。天は自ら助くるものを助くと心得た方がよいのです。万難を排しても目的達成に精進するという真剣さでご祈願をしてこそ、その験が見えるのです。

またご祈願申し上げたのだからさらに信心改良をして気張らねばとなってこそ、ご祈願の真意を心得たやり方と申すべきです。そうなれば、気構えが違ってきますから、信仰に生きがいを感じ、信心ぶりも、生活の態度も能転し、婆婆が積功累徳の場となります。

目標を持つ信心、目標のある生活、それが信者の理想です。手近なところから目標を立てる練習をやってみてください。


ものおしみ

美人は、みんなにチヤホヤされ金持も多くの人にモテます。しかし吝嗇(りんしょく・ケチの意)で手前勝手で温か味がなかったりすると、しまいには愛想をつかされて、美貌もお金も魅力を発揮しなくなります。

愛されるのには、まず他を愛する人にならねばだめです。夫婦間でも、親子の間でも同様です。老人と若人との摩擦でも、むろん、若い側の未熟さが原因している場合もありますが、年寄りの側にも、相当考え方の間違いがあるものです。

老い先の短い年寄りだから、若い者こそ老人にサービスすべきだと一途にきめています。ところが、なかなか若い者は年寄りの思うようにはやってくれない。それで老人は愚痴や不平をいうのです。

そんなときに、こちらが与えなければ、相手も与えてくれないということを、とくと考えてもらいたいのです。金品を出せなくとも、精神的な贈り物は、いくらでも出せます。それを出し惜しみして、要求ばかり考えていると、その要求が通らぬばかりでなく、親子間にヒビがはいって、不幸を招きます。

苦を厭わず、若い者の手助けを本気でしてやるのがよいのです。その努力を死ぬ間際まで続けるのです。一回限りでやめないで、何回もするのです。しかも、カビが生えないように、日々工夫をして愛情の新鮮さを保つのです。

そうするとかえって自分がいつまでも愛される結果になるのです。親だからと子どもに親切の出し惜しみをしてはだめです。勤労者も執務時間中は、精一杯骨惜しみなく働くのが幸福の鍵です。

信心では不自惜身命です。御法様のお喜びをいただくように、倦まず弛まずおつかえをする。それが御利益をいただく道です。

「ほねをしみ すこい事して むくはぬと 思ふは因果 しらぬものなり」
と御教歌にお示し
で、こちらの出方が大事です。ですから、信心では 「物惜しみ」を厳戒します。ロ唱は、声も惜しまず唱うることが肝要で、すすんでたくさんロ唱ができるよう努めねばいけないのです。また、

「のりの為 ひまほねをしむ 人たちの 何んのいのちを 捨るものかは」
と御教歌にありますが、ご奉公の時間を惜しんだり、身体の労苦をきらって、ご奉公を億劫がったり、不精をする人は、不自惜身命の積極性も熱意もない信心ですから、御利益はいただけません。ですから

「惜まるる 心にかちて 目に見えて 供養参詣 するが折伏」
という信心ぶりに、ぜひ改良してほしいのです。

生活建直しの場合でも、まごころの出し惜しみ、研究心の出し惜しみ、不勉強、善事を億劫がってしないことなどの短所のあることに気がつくことが肝心で、物惜しみの損害の大きいことをよく悟った信者にならないと、信心したかいがありません。ご用心、ご用心。


信心の固め方

昔からわが国に、「読書百辺意おのずから通ず」という言葉があります。ご存知とは思いますが、その意味のわかっている人は、はたして何パーセントいるでしょうか。本は読めても著者と読者では力量に相違があり、一ぺんぐらいの読書ですぐ内容の理解はできないはずです。

ですから読書は百ぺんの繰り返しが肝要と教えたのです。しかし実際は、一ぺんくらいの読書で、これはムズカシイと投げだす人があったり、また一方、多少理解力のある人だと一ぺんでわかりましたと繰り返しをしない人もいます。

その人に対し、読書というものは、何べんも繰り返さないと本当はわからぬもの、一ぺん読んだくらいでわからぬと投げ出すのはむちゃ、また、わかったと早合点する人は軽率で、いい気なものといえます。実際一応わかったとしても、本当の理解は難事と心得て、さらに読みを深くするため、折を見ては何回も繰り返しが大切という「ことわざ」です。

世の中は何事もよくわかってやっていることは稀で、ことに専門外のことは人まねでお茶を濁している程度、理論なんか知ろうともしません。自然それが習性になって、もう一つ掘り下げる探究心のうすい人が大多数です。しかも困ったことには、そういう人達にかぎって説明でも聞くと、簡単にわかりましたという人が多いのです。

たとえば、当宗の信心はと問われると、いろいろの答えがあります。「信伏随従」もその一つ。しかし、その答えの内容を分析すると相当複雑なものが含まれています。仏教の中では上行所伝の妙法を中心とした本門法華経に信伏すること。日蓮聖人を大導師として、そのご指導に随従すること。また、その教えに反する教えや思想や主義に従ってはならぬという意味もありますし、身、口、意の受持行の中では、ロ唱を中心にせよという意味もこもっています。

ですから信伏随従とか素直な心といっても「人の言葉を用うべからず、仰いで金言を守るべきなり」という凡夫考えを去って大法に従う素直さです。それが、一ぺんの説明でわかるはずはありません。すぐわかった顔になるのはどうも軽率というよりいいようがありません。

将棋や碁には段位があります。だいたい初段で一人前だそうですが、その初段になるには初段一万回で、一万回もやらねばということです。ですから、信伏随従の信心を、あらゆるご奉公で試してみて、いつの場合でも私心を去ってやれるようになれたら、一人前でしょうが、それには年月をかけての体験が必要です。

それを早合点してよしとするのは、御経力の援護に甘えて一人前だと錯覚したのです。また、頭でわかっても、ご奉公の腕前は別という面もありますから、読書百ぺん式にご奉公の実践を繰り返して、あらゆる場合に活用自在の信心の根固めをすることに努力してください。


安定の道

人々が商売したり、家事にはげんだり、会社に通勤したりするのは何のためでしょう。国家・社会のためともいえますが、直接には各自の生活を安定させたいためです。教育事業もその安定の道を教えたり学んだりするため、不道徳な行為を取り締まるのもお互いの生活を安定させるためです。

ですから、現実生活の安定に役立つものは善・破壊するものは悪といえましょう。ところが、久遠の昔から、みんながいろいろの方法で、その生活の安定をめざして活動しているわけですが、なかなか安定した社会が実現しません。それどころか逆に時代が進むにつれて、不安定の度が増す感じです。

自動車の激増に対し、信号機を増設したり、交通規則を改正したりして、事故防止に躍起となっていますが、昨今の交通事故による死亡者は、日清戦争の戦死者より多いなどと聞くと、不安がつのるばかりです。

つまり、私ども凡人が、これはすてきだと喜んでいることも、いつの間にか弊害が出て悩みの種に変わることがあります。所得倍増の計画でも、予定どおりには進まず、中途で黒字倒産する業者も出るありさまで、最初の計画が、思わぬ方向にゆがめられた感じです。

ですから、安定策と平行して弊害の防止対策も考えねばなりません。眼前の一時しのぎに憂き身をやつして、長い目で見る稽古が不足だと危いとか、才知だけではだめで、徳を積むことが大事だとか、化他心を忘却した利己一辺倒も危険だとか、学問も慢心を起こすと災いを招くとか、色欲や名誉心も野放しにすると、不安を生む可能性が強いことなどを心得て警戒せねばなりません。

次に、安定策にいろいろあることも考える必要があります。「知らぬが仏」という安心の道もあります。「寄らば大樹の蔭」という手もあります。蔵の財による安定策も、手腕力量による安定策もあります。自転車に乗っているときのように、動いているのが安定という場合もあります。信心でも、御利益とは心身の安定を得ることですが、その安定にもいろいろの型があります。

おまかせして安心感をいただく場合、功徳の積み上げが火にも焼けず水にも漂わぬ安全性をつくる場合、異体同心で相互に支持し合う安定の道、また、稼ぐに追いつく貧乏なしで自転車乗車と同様、停止せずに修行に精を出していることが安定策の場合もあります。しかし、弊害の方もすぐ出てきますから、油断は大敵、信心第一が肝心です。

ことに信者は、停止しないで動いている現実生活の新しい問題と年中対決しつつしかも信者としての真実の生き方を求めるのですから、たえず前進していないと、安定状態の保持がむずかしいのです。それをシッカリ自覚し、修行の苦労をいとわず前進また前進を心がけてください。それが安定の道です。


なんで腹を立てるか

どういう場合に立腹するかということを、いろいろの角度から考えてみるとちょっと興味があるものです。

豊臣秀吉が信長の前に初めて出たとき、信長はお前の顔はまるで猿のようじゃと無遠慮に言い放ったそうですが、秀吉は少しも気にかける様子もなく平然としていたとのことです。意気地がないために腹を立てることができないのかというとそうではなく、大望を抱く身であれば小事に腹を立てぬと決意したからでしょうし、心底から敬いのある場合には、そんなことでは腹が立ちません。すぐ怒るのは身勝手の方が強いからです。

ところが世間にはくだらぬことに青筋立てて怒る人の方が多いようで困ったことです。しかしまた発憤して奮励努力してついに成功したという美談もありますから、腹を立てるのが一概に悪いというわけでもありません。宗教界が腐敗して教師がその本分を忘れて日を送っていることに業をにやして宗教改革に身を投じたというような、宗教史上の傑僧の話などで業をにやすということも腹の立て方の一種です。公憤とか私憤とかいう怒り方の区別もあります。

以上のようなことを前提にして、さて身近な人を眺めまわしてどんなことで腹を立てているかを検討してごらんなさい。同じ事柄で若人は怒るが老人は怒らぬ場合があります。老人にでも、うるさ型になる人と、好々爺になる傾向の人とがあります。内ずらはやかましく、外ずらのおだやかな人、またそれと反対の人もあります。年中ぶつぶつ不平をならべている人もあり、いつでも目上に突っかかっている人があります。代議士で演壇に上がればいつでも反対派に対して大声叱咤しているのなどは、公憤のうちに入りそうですが、どうも自己宣伝をやっている感じを受けます。腹を立てるのにも十人十色でかんにさわるところが異なっているようです。

そこであの人はどんなときに腹を立てるか、それをしらべるとその人の心持ちがわかるようです。煽動されて腹を立てるのはおっちょこちょいの感じがします。えらがり屋はどんな場合に怒るか想像がつきましょう。欲ばりは、出す話になると、ぶつぶつ言い出します。妖妬心の強い人の怒るのは陰険で、怒る理由がわからぬときがあります。また、高血圧患者の中には、ほんの些細なことにどなり出すのがいますし、心配事があったり多忙でいらいらしているときなどは、一触即発の危険が多いようです。

ですからなんで立腹したのかをしらべると、その人の心の動きがわかるわけです。したがって腹の立ちやすい人は用心が肝心で自分では正しいといばっていても、見る人が見ればその人の性質をちゃんと見抜いてしまいます。思い内にあれば色外にあらわれるのです。怒りを敵と思えと教えた家康の言葉や忍の一字が成功の元だということも、仇やおろそかに聞いては罰があたります。


スナオな心

信心は 「スナオな心」が基礎です。ですから、信心はいつでも「スナオな心」とは、どういう状態かを研究しつつ進めることが大事です。

御教歌に
十五夜の 月は丸いと いふことを うたがはざれば 信者也けり」

とあるように、丸いものを丸いと見られれば、それが「スナオな心」です。それが白を黒と言ったり、三角を丸いと見る人は「スナオな心」の持ち主ではありません。

他人の善事を見たり聞いたりして、スナオに感心できる人と、できない人があります。なかには他人の善事に感心するのは、自分のこけんにかかわるような気でもするのか、一応けなしてみないと気のすまぬ人があります。妻の労苦に対して、素直に「ありがとう」と言えない夫のようなもので、これは狭量で、豊かさがなく、みっともない話です。

娘を嫁にやるとき、体を動かすより先に、まず呼ばれたら「ハイ」といえる嫁になれ、そうすれば必ず辛抱もできるし、夫からも周囲からも満足されるだろう、と教えた人があるそうですが、これは嫁さんにかぎらず、だれがいつ、どこで実行してもよい言葉です。我意がなく、平和な心のあらわれで、聞く人の心を自然とやわらげる不思議な力をそなえています。

人を見下したり、ネタミや、憎しみの心からは、この美しい「ハイ」という言葉はなかなか出にくいもので、相当の修養を必要とします。「ハイ」とか「ありがとう」という言葉が、何のわだかまりもなく、スラスラといえる境地に到達しようと努める人が増せば、世の中は明るくなるわけで、それこそ信心の要素である「質直心」「随喜心」「南無する心」などと、一連共通の心です。

失敗をごまかす人はたくさんいますが、それを失敗と認め、貴い経験として生かす人は、残念ながら少ないものです。ただ「スナオな心」の人だけが、その反省を見事にやってのけます。また、右に行けば良いにきまっている分かれ道を、良いと知りつつ良い方を選ばぬ人もずいぶんあります。骨が折れるとか、虫が好かぬとかいう理由なのでしょうが、要するに「スナオ」でないからです。そして、そういう人にかぎって、次の分かれ道でも、また、その次の分かれ道でも、不思議と悪い方へ行きます。

それから、小才のきく人で、初めから小さく固まって、より以上仕事を学びとろうとする「スナオ」さのないタイプもあります。与えられた仕事は一応まとめはするが、ただ、それだけで進歩がみられない型です。これは下手をすると、時勢に遅れて、晩年に運の悪くなる人です。妙法の信心は、即聞即行で、み教えをよく聞き、身につけて、時世とともに進みながら、生活の根もとを堅固にするものです。したがって教えをよく聞く「スナオな心」が欠けていると行きづまりを生じます。以上簡単に「スナオな心」 の反映する面をならべてみました。


自慢はほどほどに

人間はどうしてこうもことごとに自慢がしたいのでしょうか。くだらぬことを得々と吹聴して歩いている人は、実に多いものです。また、それに調子を合わせておだてたり、ベンチャラをいったりする物好きも相当あるので、自慢屋はますます調子に乗り、増加する一方です。実際は聞き手も馬鹿ばかりではありませんから、お腹の中ではあきれかえっているかもしれません。すると本人だけがいい気になっているわけで、それだと漫画の材料です。

ある御経には三つの驕逸(たかぶり)が説いてあります。壮年驕、無病驕、活命驕の三つです。
壮年驕とは青春に酔いしれて、刻々と老いつつあることを忘れているオッチョコチョイ。
無病驕とは現在健康なのを自慢の種にしている人で、いつ訪れてくるかわからぬ病苦のことを忘れているのんきな人。
活命驕とは、いかに養生してもしょせんは死なねばならない体であることを忘れているごとく、自分だけはなかなか死なぬといい気になっている人のことです。

んな心だと、必ず油断ができ、勉強を怠たったり、道草を食ったりして人間のみが持つ崇高な使命などのことは考えてもみないで、一生を終わるでしょう。自慢する価値のないものをいい気で自慢していると、もっと大事なものを失います。

「四ばこりは学文ぼこり古ぼこり役にほこると金にほこると」(御教歌)

学のあることを誇示したくてしかたのない人、年代の古いのを自慢する人、役柄をいばる人、財産を見せびらかしたくてうずうずしている人、こういうことを信者のくせに自慢したがるのは、信心上大切な宝は何かということを忘れていて、世間的な形骸的なことの方に心が傾いているからです。内容の吟味を忘れて外観だけをいばるなどは子どもじみた話で、もっと上手のいることがわかればみっともなくて自慢などしていられません。

だいたい、自分一人の力でえらくなったのならともかくも、世間のことは他の協力なくして上達するものは一つもないはずですから、すぐれた点があったらまず協力者に感謝するのが第一です。それを自慢のみが出てくるなどは、信心道の一階にも達していない証拠です。

「今日を無事にくらせる御利益を 忘るる間なく信行をせよ」との御教歌の心をよく味わってほしいものです。ある年寄が長寿をたたえられたとき、親が丈夫な体に生んでくれたのでと、まず親に感謝をしていました。

自慢家さんならまず私の長寿法はなどと一言自慢から始めるでしょう。自慢したい気持をおさえる自制心がないと心からありがとうございますという信心の境地には入れません。したがって社会福祉のため、ご弘通のためなどに寄付をしたり協力する心は、心底からわきません。だれでも自慢したい心のない人はありますまいが、それはあまり立派な精神ではないのだと自覚することが大事なことです。


信心こそ所詮

御教歌 速に御利益うくる程みれば 信心こそは所詮なるらめ

たちまち御利益をいただく信者の様子をよく観察すると、やはり信心が肝心だということに帰着する。才能があるとか、資金が豊富だとか、いろいろ良い条件が力だと感ずることもあるが、それよりも信心のいいときに、さっと御利益を蒙る率が多い。「信の一字を詮となす」とお祖師様は仰せられたが、まったく信心が肝心だなあ、と仰せられた御教歌です。

みなさんもよくこのことはご承知で、人に向かっても信心が肝心だと常に申しているでしょう。しかし、実際は信心が大事だということは、本門佛立宗の専売特許ではないのであって、どの宗教でも信心が大事だといわないところはないのです。

ですからただ信心が肝心だというだけでは、実際はわかっているとはいえない。あるいは信心が肝心だといいながら、解釈が間違っているかもしれないのです。ですから当宗では、どういう信心前を理想としているのか、いくつかの条件を心得ていただきたいのです。当宗の信心とはこういうものだと、ハッキリ具体的にのみ込む復習をしていただきたいのです。 

その一つは、御本尊に関することです。信心にはどの信心でも御本尊のないものはありません。拝む相手対象です。こちらの御本尊はいったい何を御本尊としているのか、というようなむずかしい理屈はさておき、ご承知のように、仏の教えの中には、方便と真実とがあります。

その真実の教えである法華経の中に、迹門と本門の教えがあり、その中ですぐれた本門の教えの中に説いた御本尊様を我々の御本尊としているのだということを忘れてはなりません。何でも拝めばいいというものではないのです。唯一絶対の御本尊に、信心を捧げるのですから、その気になって、真剣な心と態度でお仕えするという気がなければダメです。

「生きています敬いをせよ」とおっしゃってありますが、生きてまします御仏にお仕えするという気で、本気にお給仕させていただこうというのでなければいけません。これが信心の一つの心得です。それがいい加減な気持で、御本尊なんか、何でも同じだというズボラな心で、お給仕の仕方もそれに準じていたら、当宗の信心の基本がめちゃくちゃと申していいのです。

以上は御本尊の側ですが、次はこちら側、すなわち私どもの心です。信心とは柔和質直な心とおっしゃってありますが、これは仏説なら、丸くも、四角にも、どうにでもおっしゃるとおりになりますというやわらかい心のことで、これが信心の心です。言い換えると「我」のない心、我を捨てる心です。これは口ではいっても実際になかなかむずかしい。

なかなか真剣に聞いて、それを素直にやるという気が、我々にはどうしても起きません。この点をよくわかっていただかないと、良い教えが流れ込んできません。わがままがあって、教えを用いぬようではいつまでたっても功徳が積めません。

こちらに「我見」があっては良い教えをみなはじき出して受けつけません。そういう点では信心のしたてに非常によい状態があるのです。謗法を払ってどうか御利益をいただきたいという一心で、よく教えを守りますから、パッと御利益をいただく。

ところが古くなってくると、知っているというわがままの心が強くなって、かえって素直な心が失われ御利益をいただけなくなる。お看経はよくするが強情我慢まで手前勝手な気持で、仏の教えどおりにやらない傾向になりがちです。そのほかに大切なことがあります。

まず御本尊様に対するお仕えが真剣かどうか、素直な、やわらかい心になろうと努力しているかどうか、この二点だけでも心がけていただいたら信心はキット良い方へ向かいます。よい信心前になろうと努めてください。