若いとき

昔から「若いときの苦労ほ買ってもせよ」といわれています。七ころび八起きのできる気力も体力も具備している若い世代こそ、体当たりでいろいろ苦労ができ、経験も積めるのです。

それなのに安易な道ばかりを選んで楽がしたいと願っている人は、若い世代の値打ちを知らなすぎます。実際若い間の人生に対する考え方いかんによって、その人の一生の運命が決するのです。

若いときの苦労は買ってもするくらいの意気と聡明さがなくてはいけないのです。ところが、若いときは体験の裏づけが不充分なのに、頭の方がぐんぐん進んで、そのためか「なまいき」になる傾向が強く、含蓄のある哲人の言葉などわりと受けつけません。

年上に突っかかることを何とも思わず、青年はそれでよいのだと考えているらしい。それに対して甘い母親などは、うちの息子はこの頃「なまいき」になって親をばかにして困りますと表面はこばして、内心は自慢しているような話しぶりをします。

一般の人も善良な母親と同様青年の「なまいき」に対して寛大なものです。すると若い人の中には調子に乗って、信心のことにも口ばしを入れ、信心なんか年寄りのすることで若いうちは無理だと弁じ立てます。

一方それに共鳴する親御さんもいて、わりあいご奉公による人生経験の価値を知らない人が信者の中にもあります。盲目千人の世の中です。近世の歴史は文明の利器の発達や科学の進歩に目がくらんで、そこだけに人生の幸福があると考え違いをし、信仰なんか不必要だときめこみ、神仏などを追放して悔いない増上慢の失敗史です。

人間尊重という近代精神がもたらした玉手箱もあけてみたら、人間の傲慢がその中にたくさんふんぞりかえっていたために、その傲慢に対して大鉄鎚が下された形です。若いうちは信心せんでもよろしいという考え方も傲慢の一種ですから、近代史の人間の思い上がりと一脈相通ずるものがあって、その復しゅうに泣く日がなければ幸いです。

それに現代は、商売でも仕事でもだんだん分業化されます。その専門の道では練達者でも、他の分野ではからきしだめで、ちょうど機械の部分品のような人が増えています。したがって視野が狭くなり、自分の足もとはわかっても他の情勢判断ができないため危険がせまってもわからぬ場合も生じます。信心ご奉公をしてごらんなさい。

商売や仕事では接しえない範囲の人に近づいて、知らず知らずどれだけ視野が拡大されるかわかりません。それ一つを考えてもどれだけ得をするかわからないのに、ご奉公は年が寄ってからいたしますという考え方は、得のいくことは後回しということになり、若い世代の活用を知らなすぎる話です。

 


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