後続者養成

御教歌:ふるひにも あたらしいにも よらぬもの 信者は利益 あらはしにけり

(本尊抄会読・扇全6巻143頁)

ご信者にとって大事なことは、御利益のいただきかたを知ること、逆に最も恥ずかしいことは、それを知らないことです。「信者成佛謗者堕獄」は当宗の鉄則でして、素直正直な信心の所には必ず佛の慈悲の恵みが流れてきます。「御利益に配達なし」でして、つねに口唱の御法味を絶やさない、同時にお寺参詣を欠かさない、これが必須条件です。佛さまの慈悲はだれかれの別なく平等で、古い信者も新しい信者も差別しません。そこで古い信者の大事な点を列挙してみます。

①まず、後に続く人の為に模範を示すべきです。何十年という信心の歴史を積んでおりますので、その精神を活かして、明るく楽しい信心に徹してください。先輩の信者の背中を見て、それを手本として後輩の人が育ってきます。信心が古くなりましたら、「自信と勇気と希望とをもって」信心の尊さや御奉公の喜びを後に続く人に説いてください。これが大事な御奉公です。

②後続者育成の使命があります。人を育てる為には年月がかかります。根気強く、しかも親切心をもって、きめこまかく指導してゆかねばなりません。教えて、つきはなして、抱きかかえる、これの連続です。教育とは教え育てる、この二つは一体でして、信心教育には、負けん気と根気と慈悲の三要素が必要です。

○「当講内は初心の人をそだつるを第一と心得べき也。初心が後心になるもの也。謗法あらば、あらく呵責せず、よくわけのわかるように説き示すべし」

(青柳厨子法門抄第二・扇全3巻11頁)

③「古法華利益なし」という場合の古いというのは、お看経があがらないことです。口唱なしで御計らいをいただくことはできません。いいかえれば、口唱、参詣を怠るからです。

それにひきかえ、新しい信者はよく教務さんや先輩のご信者の指導を仰ぎ、御奉公の仕方を憶えてください。自分なりに、信心の歴史を築きあげてゆきましょう。思いがけない出来事に遭遇した時、御法におすがりして、一つ一つ問題を解決し、充実した信心生活をつらぬき通してゆかねばなりません。信心には現証入の信心と法門入の信心とがあります。病気全快、家庭円満、心願成就などの現証をいただいた信心は根が張って磐石です。

○「現證入の信者は真実の信者にて、人の言葉に動く事更になし。法門入の解者は信心定まらず」

(十巻抄第三・扇全14巻412頁)

○「現證の事は当講始より明治廿三年迄。三十四年め也。其間に見聞する現謹は九死一生の病、難治に定たる病、又は大工、手傳、車引、ヤケド、ケガ、公事訴訟事、何によらず、可不思議、奇妙の御利益を蒙りたり事、見る事、聞く毎に、清風は驚き感心せざる事なきが上にて。」

(十巻抄第三・扇全14巻412~413頁)

現今、見聞いたしますと、借金の山、ゴミの山、犯罪の山、増税の山、それに愚痴の山という山ばかり。物で栄えて心でほろびるとも言われます。それにつけてもお互いは蓮華人となって、泥中に美しい花を咲かせるべく、一日も長生きして妙法弘通に精進しましょう。口唱と朝参詣は信心を育てます。そのうえ御法門聴聞によって信心を引き締めてください。信者は他の人とともに、他の人の為に御奉公に励みましょう。養生の基本は快食、快便、快眠にあることを肝に銘じてください。

○「如何程の善人学匠にても化他弘通の志なき者は不成佛也。如何なる愚者女人にても化他の心あるは菩薩也。如来の御使也。」

(暁鶏論・中、扇全11巻108頁)

御奉公の意はお祖師さまのお使いに徹することです。

自分を忘れてお使いさせていただくのですから、自信と勇気とをもってください。「己れをすてて他を利するは慈悲の極み」ですから、無私に徹し、無我の愛に生きましょう。


5月13日お総講御法門

乗泉寺川口日智上人の御法門を拝聴させていただいたことをご紹介させていただきます。尚、内容につきましては私自身の主観も入っておりますのでご了承下さい。

 ◎御教歌:たのしみは よのうきわざの 中にしも たへのみのりの つとめなりけり

 御教歌の「うきわざ」とは「はかない世の中」という意味です。この世の中は無常で、常に物事は移り変わっています。変化することのないものは、仏様のみ教えだけです。

 トラは死して皮を残し、人は死して名を残します。私達佛立信者は、仏様のみ教え通りに信行御奉公に励み功徳を残すことが大切です。言い換えれば、自身が御題目口唱の味を知り、それを他の人にもお勧めする御弘通御奉公に励ませていただくということです。

 心は言葉に表れますから、特に「お陰様」「ありがとう」「すいません」の3つの言葉は大切にしていかなくてはなりません。

 (所感)

 御法門の最後に「言葉」についてのお話をいただきました。私はご信心をさせていただいてから、「言葉の力」というものを感得させていただいた様に思えます。上行所伝の御題目を口にすることは、他の文字の朗読とは全く異なります。何故なら、御題目以外の文字をいくら口に出しても状況が変わることはないからです。御題目口唱によって御利益をいただいた時に初めて、私達は「言葉の力」の存在をはっきりと感得することができるのです。(S.M)


協力の徳

「百喩経」というお経の中の話『悪い象に卵を踏みつぶされた雀は、啄木鳥(キツツキ)に訴えました。「どうか私のうらみをはらしてください」啄木鳥は「苦しむ友を見捨てぬのが真の友といわれているから力を貸そう」といって、蠅と蛙の協力を得て、悪い象の征伐にかかりました。弱い動物たちは相談し、蠅は象の耳に入り、啄木鳥は象の目をつきました。

盲目になった象に蛙は鳴き声を出して水のありかを示すようにして、深い穴へ導きました。悪い象はついに穴へ落ち込んでしまいました』ここには、弱者同士が自分の身を守るために、どう協力すれば勝つかそのやり方が説かれています。協力は弱者を強者にします。

昔から「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがあります。愚か者でも三人集まって相談すれば、よい分別があるものという意味、文殊菩薩は仏教では知恵をつかさどる方です。

また、「膝とも談合」とよくいうでしょう。窮して相談相手のないときは、自分のひざでも相談相手にしろということですが、相談するに足りないと思う人にでも、相談すればしただけの御利益がある、協力で利口になるという意味。

佛立開導日扇聖人は、常講歎読滅罪抄に、信者堕獄の条々として、三つの項目をあげておられます。その一つに「異体同心と口にのみいひて、我慢強く同破のこと」という一項があります。

信者は異体同心の祖訓を奉じ、ご奉公すべしなどと、口では強調していても、我慢強くて協調精神がなく、同心を破るときは、信者でも堕獄の業をつくると、仰せられた御指南で、協力体制を破る人を厳しく戒めておられます。信者の協力は、ただ派閥を作ったり、徒党を組む世間の仲間意識で団結するのではなく、崇高な妙法弘通をめざしての協力関係ですから、これを破壊することの、恐ろしさをご指摘くだされたのです。

梅雨時の田園風景中、共同作業で田植えをしているのを見ると、人間の協力美を感じます。最も親密な両親とか兄弟が協力しないで困るなどという話を聞くと嫌な気持ちになります。当事者もさぞ不愉快なことでしょう。

ですから、、隣人との交わりも、勤務先、その他周囲との関係は、争わぬよう心がけ不愉快のたねを減少することが肝要です。世を恨み、人をとがめてばかりいる人は、周囲の人々との関係に配慮が不足で、協力から生ずる楽しみを知らないようです。

日頃相談し合ったり、力の貸し合いのできる人は、人間関係の調節が上手な人で、今日を愉快に暮らしているに相違ありません。気持がよければ、それが健康にも影響し、気持に余裕があれば勉強も楽しく進み、人にも親切になり、さらに愉快になること請けあいです。信者は信心生活で協力の徳を体得し、足並みそろえた楽しい日々を送ってほしいものです。

日晨聖人要語録より

 


功徳の花で身を飾る

御教歌:信心を すゝめんと思ふ こゝろこそ そこが功徳の わく処なれ

 (末代幼稚信要学・扇全12巻337頁)

 当宗の信心は御題目で人を助け、人の幸せを心から喜び合うことで、その意がたえず根底になければなりません。自唱他勧と申して、自分も唱えると同時に人にすすめる為の口唱、いわば、弘める為の口唱行です。

 ○「我本行菩薩道文菩薩道の御時が信行也。信行が菩薩行也」

 (末代幼稚信要学・扇全12巻336頁)

 信心の強弱をどこにおくかと申しましたら、功徳と罪障とをはっきりと峻別することができることにあります。功徳になることを考え出し、更にそれをおしすすめる時の喜びと楽しさを感得できる、これが信心の強さと申せます。一人一人に御題目の尊さを足を運んで自身と勇気と希望とをもって語りかける、これの繰り返しが菩薩道であり、功徳を生み出す源泉です。功徳というのは、教化折伏という下種の信行の中に、自ずから湧いてくるものです。

 当宗の信心修行は、給仕第一、信心第二、学問第三。これは単に順序をいうのではありません。まずお給仕が根本です。お給仕させていただくうちに信心がおこってきます。すると、その理論づけとして知識なり、知恵なりを求めようとします。給仕とはつかえることです。最初に御宝前につかえ、次に教務につかえ、更に同信の信者につかえる。何はともあれ、お寺の御宝前におつかえする。お寺参詣、これが基本中の基本です。特に朝参詣が大事。生涯参詣を心掛けましょう。お寺参詣をつづけていくうちに信心の芽がめばえ、弘通意欲がおこってきます。

 全人教育といって、人間全体が佛立菩薩に変わってこなければなりません。善聴参詣に励み、心の庭の手入れをして、心の雑草を抜き、美しい花を咲かせて下さい。「心に喜び、顔に笑い、かわす挨拶、ありがとうございます」という佛立信者の日常の生活態度を身につけましょう。人への思いやりやいたわり、優しさという崇高な心が生じてこなければなりません。

 「法は人によりて弘まる」と申します。法それ自体が自ずと弘まるのではなく、それを持っている人柄を通して法が弘まります。あの人のしている信心なら本物であり、困った時には必ず救って下さる、という期待と希望とをもって信心の門をたたきます。従って教化親の人柄が大きな要素と申せます。特に人徳が大事、たえず心を磨く、これは一生の課題です。まずはお寺の御宝前にお詣りして、身体の健康と心の掃除に専念して下さい。

 御教歌:あの人は 信者でありし ひとのため 手本となりて 名で教化せよ

 御講尊日晨上人からは計り知れない程の御慈教を賜りましたが、そのなかでも特に印象に残っていることを二つだけ述べさせていただきます。

 (一) 御弘通家でした。たえず法を弘めることを強調。現状維持は破壊に通ずと、問題意識を楽しんで明るく前向きの姿勢で教化に専念され、たえず厚い壁を乗り越えて前進また前進、終わりは次の始め、と停滞は許されませんでした。次から次へと新機軸を打ち出し、励まされました。休みなしです。

 (二) 分からせる努力を怠りませんでした。佛立宗の教えをかみくだいて、平易な言葉とやさしい文章で御教導下されたのです。あたたか味のこもった言葉使いとへり下った態度、特に信者の一人一人を大切にされ、「信者は宝物だよ」と申された言葉は今も強く印象に残っております。

 「人の苦を助けてたのしみとし給ふは菩薩の御心也。故にきゝてもたのしく、うれしきもの也。信者御利益談を喜ぶは菩薩也」 

 (開化要談・教、扇全14巻37頁)

 


立教開宗記念口唱会ご案内

口唱会風景来る4月28日午前9時から午後2時まで立教開宗記念口唱会を乗泉寺で開催いたします。

日蓮聖人は御歳32歳、建長5年(1253)4月28日、今から762年前に千葉県の旭ヶ森で上行所伝の御題目をお唱えし、妙法弘通を宣言遊ばされました。

 

以来今日まで、上行所伝の御題目が途絶えることなく唱え続けられ、私どもが日々平穏無事に生活させていただけるのは、日蓮聖人が立教開宗なされたおかげです。

乗泉寺のご信者は、日蓮聖人の大恩にお報いする為にも、立教開宗記念口唱会に積極的に参詣し、お教化が早期に授かりますよう真剣に御題目口唱に励みましょう。


4月17日お総講御法門

乗泉寺川口日智上人の御法門を拝聴させていただいたことをご紹介させていただきます。尚、内容につきましては私自身の主観も入っておりますのでご了承下さい。

◎御教歌:わすれては 又解にづるの わるい癖 所詮は信の 一字なるもの

「忘れる」というのは、仏様が私達に授けてくれた大切な能力です。年齢を重ねると、友人・知人の名前を忘れたり、ものの置き場を忘れるということも少なくありません。「忘れる」にはそういったマイナス面もありますが、嫌な思い出を忘れさせてくれるというプラス面もあるのです。

しかしながら、ご信心のことに関しましては常に握って離すことなく、お互いに叱咤激励する必要があります。万一、御奉公を忘れてしまっても、ただ言い訳をするのではなく、懺悔改良に心掛けなくてはなりません。

(所感)

記憶力を重視する学校教育のもとで育った私達の多くは、「忘れる」ことに対してネガティブなイメージしかありません。ところが、嫌な思い出が頭の中に留まっていたのでは、人格形成にも良い影響を与えませんから、「忘れる」ということは場合によっては大切なことだと思います。いろいろなことにおいて、一つの角度からだけで考えるのではなく、いろいろな角度から捉えることが大切だと感じました。(S.M)

 


信の一字

人間の暮らしは、もちつ、もたれつというのが原則です。どんなにエライ人でも、自力だけでは暮らせません。多くの人や、物のおかげに依存して生きているのですから、社会という立場から見れば、みんな細胞で、全体に対して自分の役目を果たさなければ、生存を許されません。従って他との協力方法が下手だと、ヒドイ目にあいます。

 人体にとって有害なものは排除され、大切なものは外に出ないように守られます。血液は大切ですから、誤って出血しても、直ぐに固まって切り口をふさごうとします。同様、社会でも有害な人は、刑務所に入れて害毒を及ぼさぬように、社会から締め出されますし、そこまでいかないまでも、人が嫌がって目に見えない垣をされ、警戒されます。有害でもなく、有益でもない人は、排斥もされないが歓迎もされません。有益で、いてくれなければ困るという人は、人から歓迎されて、多忙な日々を送り、生活にも困らぬでしょう。

 では、有益な人とはどういう人でしょうか?会社を例にとれば、会社が発展する図星を心得て、それに役立つ働きを、自己の立場に応じてやる人が大事にされ、見当違いの力の入れ方をする人は喜ばれません。むろん、発展を阻害する人は嫌われ、時には首になるでしょう。ですから、ただ働いていれば、何とかなるというネボケタやり方はだめで、要点を正確に把握し、それに協力する事が肝要です。

 信心上のご奉公でも、たとえば、総助行運動開始という時に、ご奉公の要点をまずつかみ、それを達成する良法を考え、その上で骨惜しみをしない行動が大事です。つまり前期と後期の中間に行われる助行運動という性格だけを考えても、今回は、この点に重点を置かねばならぬということがわかるはずでしょうし、運動の趣意書をよく読めば、どこにねらいがあるかわかります。

 当宗で最も強調する「信の一字」ということでも、ただ疑いなく、素直に聞くことだという一般の解釈だけでは満足できません。仏の意をくみ取って、特に力の入った点を間違いなく信受する事に努めるのです。その仏の本心に即応する努力をしないで、単に仏説を信じても、方便や、随他意の仏説では、仏の真意を信ずる事になりませんから、当宗の信心ではありません。

それで、当宗の信者は、いつでも仏祖の根本の心にかなっているや否やを反省しつつ、信行を進める事が大事です。もろもろのご奉公も、生活建直し運動も、一番大事な心構えは、根本精神に即応して行動するケイコをしているという事です。どうしても、手前勝手な考え方が前面に出てきて、根本の心が行方不明になりがちです。「信の一字」についても、当宗流の解釈を持って如説修行をしてほしいものです。


門祖会体験談 ②

 長男についてのお話をさせていただきます。私は23歳の時、第一子となる長男を出産しました。妊娠8ヶ月で早産をしてしまい、息子は1300グラムで生まれてしまいました。出産した病院では未熟児に対する設備が不十分でしたので、息子は生まれてすぐに国立病院に搬送されました。その病院の主治医からの説明は聞くに堪え難いものでした。

 「この一週間は生きるか死ぬかは5割ずつです。たとえ5割の確率で助かったとしても、7割は何らかの後遺症が残ります。覚悟しておいて下さい。」と言われました。私は息子が退院するまで約3ヶ月間、毎日お寺参詣し、お供水をいただいて母乳を搾り、息子に届けることが日課になりました。その御利益で息子は一命を取り留め奇跡的に後遺症もなく、元気に退院することができました。

 現在、息子は高校1年生です。息子の強い希望でスイスにある高校へ留学しております。留学先の学校は全寮制で、食事以外は掃除洗濯など全て自分でしなければなりません。寮は1部屋に高校1年生の息子と2年生、3年生の3人部屋です。単身で日本から12000km も離れた息子の事を考え、懐中御本尊をお供させていただきました。

 渡航後、息子よりメールが届きまして、内容は驚くものでした。何と「同室の日本人の先輩も僕と同じ懐中御本尊をお持ちしているよ。」とのことでした。聞けば大阪の清風寺のご信者さんでした。私は息子が御法さまにお守りいただいていると確信し、感謝のあまり涙が溢れました。息子はまだ16歳ながら何度も現証御利益をいただいております。息子には将来何の職でもいいので、社会貢献できる、魂の強い成人になってほしいと願っております。

 最後になりましたが、未熟な私にいつも沢山のことを教えて下さり、皆さまに深く感謝しております。そして私を娘のように接してくれている主人の母にはとても感謝しております。母は佛立宗の素晴らしさや大切さを実体験に基づいて話してくれます。私も将来、母のような女性になりたい、そう思います。これからも、常に感謝の気持ちを忘れず、佛立宗について学び、知識を深めたいと思っております。(C.O)

 

 


門祖会体験談 ①

私が本門佛立宗にお出会いしましたのは、縁あって嫁いでからのことです。母は数々のお役をいただき、また常任のご奉公等、本当に前向きなご奉公をさせていただいたと思います。母の信心前を見習い、すべてを引き継いでいきたいと思い、嫁いで間もなく、いずみ会、婦人会のご奉公等をさせていただきました。母は「しっかり私を見ててね」と、いつも笑顔で優しく導いてくれ、二人三脚でご奉公をさせていただいたお陰で、今の自分があります。知らず知らずの内に育成していただいたと深く感謝しております。

 母は昨年、92歳で旅立ちました。晩年、間質性肺炎を患い入院しましたが、関わるすべての方々に「ありがとう」の言葉を言っておりました。特に看護師さんたちからは「母が傍にくると心が癒される」と言われて、とても大事にしていただきました。その間、私共が希望していた在宅医療が実現し、温かな医師に巡り会うことができ、自宅療養となり、家族中で一緒の時を過ごすことができました。「ママ、いつもありがとう。私のような幸せ者はいないね」と言ってくれました。普通、間質性肺炎は非常に苦しむとのことですが、その様なこともなく、静かに寂光へ・・・それはそれは、昔に戻ったかの様に若々しく、光り輝く母の姿でした。

 御法さまのみ教えを素直正直にいただき、思いやりの心を持って生きることが佛立信者の基本であると教えられたことを、母からの最大の贈り物と心に刻み、少しでも近づける様日々、信心改良、信心増進に努め、ご奉公に精進させていただきたいと思います。そして、今度は自分が子供達に伝えていきたいと思います。 (Y.T)


御奉公日記

先日、お教化した妹から電話があって、「御本尊をまつってから社員が次々と辞めていくし、入信したけれどさっぱり良い事がない」と文句を言ってきたので、「そんなに簡単に何もかも良くなるものではない。お寺参詣や家のお看経など力を入れて、まず功徳を積む事が大切よ」とすすめたところ、「姉さんみたいに暇人じゃないから、そんなことできない」と頭からはねつけられたので腹が立ち、「お前のような勝手者は信心する資格がない」と叱ったら、妹は「それなら止める」と言い出してケンカになってしまった。

「どうも妹はわからずやで困る」と愚痴をこぼしていたので、私は「それはまずいですね。しかし本当はあなたにも責任がありますね」と言うと、ケゲンな顔をしているので、「教化は相手のためとは一応は言えるけれど、実は教化親の御利益なのですよ。教化子を育てる事で、知らぬ間に自身に徳がつくというありがたい事なのだから、どんな事を言われても、何とかして御利益をいただかせようと親切を尽くせば、必ず共に御利益がいただけるものですよ」と日頃御法門で教えていただいている信心の筋を話してあげた。

 すると一週間ほどして、お礼を言って来た。「こちらから先日のケンカの詫びを言って、会社も思うようにならなくて大変だろうが、それがうき世というものだから、くよくよせずに都合のつく時にはお寺にご祈願に来なさい。姉さんも一緒にご祈願させてもらうよ」とこちらから勇気付けるように話したら、「姉さん、よろしく頼む」としおらしい態度に変わったのでびっくりした。その翌々日に妹の方から電話がかかり、「以前に会社を辞めた人で、とても有能だった人に街でバッタリ出会った。話しているうちに、もう一度妹の会社に戻って働く事になった様だ。その他にも良い事があって、姉さんのおかげで御利益をいただいた」と言う。「こちらが改良したら、たちまち御利益があらわれるとは、何ともありがたい」と喜んでいた。至らない私の折伏を聞いてくれて我が事のようにありがたくて、うれしかった。

 (乗泉寺通信 昭和44年6月発行)