因縁とは

同じ老人で、腰の曲がった人も曲がらぬ人もいます。ボケた人もボケない人もいます。それが果報の相違というもので、そうなるには、よって来たる原因があります。その原因を因縁といいます。

では因縁とほ何か。因と縁との和合力で、因は自身の力、縁は助縁で他からの援助です。素質が良くても、悪縁と和合すると悪果の報いがきます。成仏の大果報をいただくには、本人に仏の因=仏性=があって、その上に成仏の道を悟ったお釈迦様の教え、すなわち助縁が必要です。

もし本人に成仏の素質がないと、いくら教えてもむだ、また、素質があっても善法がなければ、これもだめです。そんな因と縁との関係を考えると、お釈迦様がこの裟婆にお出ましになって、法華経を説き末法に南無妙法蓮華経を残されたのは、人間に成仏の素質(仏性)ありと認めたからで、仏様はむだな教えは説きません。

ですから、私どもは三毒強盛の荒凡夫でも、妙法経力という助縁があれば、現当二世の御利益をいただく因縁がそろうわけで、その因縁を信じ、自信と希望を持って喜んで御題目の修行をするのが私どもの信仰です。

因縁と果報の関係は、因果応報とか、善因善果、悪因悪果と熟字するように、いつも対応しています。小果報は小因縁の結果、大因縁は大果報を生みます。成仏は人間にとって一番大事な果報ですが、その果報を生む因縁は何か。

お釈迦様がこの婆婆にご出現になったのは、「一大事因縁」のためとおっしゃっておられますから、大事の中の大事である成仏の助縁の法を授けるためのご出現で、それに対する信心とは、その一大事因縁の法を信行する意味です。したがって私どもの信心は、一大事の因縁が和合してみごとに成果を収めないと、無意味になることを忘れないでください。

また、仏法では三世の因果といって、前世の因縁から今生の果報を生み、今生の因縁が来世に報うという考え方があります。私どもは生まれつき前世の因縁で悪い果報を持っていますが、一方妙法を護持できる大果報を持っています。その大果報を破滅させず守り育てる努力を常にしないと、逆に悪い果報に押しつぶされます。

今生は過去のまいた善と悪との因縁が報いていて、勝つか負けるかの戦いを継続しています。ですから、絶対、妙法のご縁にすがって、罪障の縁を断ち切る覚悟が大事です。信者が御本尊を生活の中心に奉安し、御宝前へのお給仕を生身の御仏に仕える心でするのは、結局、御宝前のお敬いから、妙法五字と信心が和合して、この一生を善き因縁の一生にするためです。

また、教化折伏のご奉公に気張るのは、妙法の善縁を、世の人々に結びつけて、よき因縁の人にしてあげる菩薩行で、人生最上の功徳の生まれる源です。お互いに教化折伏にはげみましょう。

日晨上人要語録より

 


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