題・信者のまじはり新古をいはず
御教歌 信心の 奥ある人は 何となく 浅きなじみも むつまじき哉
信心をしっかりと掴んでいる人は、浅いつきあいでも、他人とは思えないほど親しみ深く、そこには何ともいい知れない奥床しさが漂います。思いやり、慈しみ、情け深さ、しかも、謙虚な態度、上品それでいて筋金入りの信の強さなどがあります。人を引きつけずにはおかない人間的魅力の持ち主です。凡夫が菩薩になる。これが佛立信者のあり方です。
人間とは人の間と書きます。人と人との間で生きておりますので、肩が触れ、足を踏まれ、時には騒々しいと思い疲れることもあります。ある程度の間隔を置く、人間として距離を設けることが大事です。余り短すぎるとついぶつかり合います。
○「夜目、遠目、傘の内」夜、薄暗い雨の中を、女の人が傘をさして歩いております。その後ろ姿はいかにも美しく見えます。物事は遠くから眺めると、綺麗に見えるものです。
○「従僕に英雄なし」世間から英雄と讃えられている人も、日々身の回りを世話している人からみれば、ただの人にすぎません。毎日、鼻と鼻を突き合わせていれば、何の変哲もありません。側にいれば案外人間的な泥臭さが漂い、わがままで個性が強く、協調性のない話の分からない面もあって、気難しい短気な性格の持ち主であったりします。それを遠くからみていると、偉人であり、超人のように見えるときもあります。これを距離の美学と申します。
お互いに余りにも側に居て、肩をすり合わせておりますと、つい、その人の良さが分からなくなります。良い点を認め会いましょう。身も心も完全無欠な人はおりません。欠点が衣を着ております。余り期待し過ぎますと落胆も大きいです。
性格上の欠点を攻撃し合うより、長所を生かし合うことです。持って生まれた性格は、直し難いものがあります。相手を攻めるより、自分を改良するように努めることです。世間でも、結婚前は両目でよく見て、結婚後は片目で見ろと申します。
信者同士は、信心という土俵の上で付き合って下さい。つい長い付き合いだと、礼儀を忘れて言葉使いもぞんざいになりがちです。一回一回丁寧な態度をとり、馴れ馴れしい言い方は避けることです。
御指南「信者ハ信心の事ばかりをいひもし。おもひもし。今日世上の迷のことを人がいふとも。随分相手二ならぬ様二。するこそ用心なれ。」 (扇全13ー210頁)
お互いに、信心上の功徳になることのみ話題にしましょう。世間の景気不景気や雑談にのみ興じていたのでは、時間が勿体無いです。罪障を造らず、功徳を積まさせて頂く時間を持つことです。
そこで、お互いに罪障の深い身の上だという自覚を持つことです。苦果の依身、地獄這い上がりの凡夫、三毒強盛の悪凡夫とも言われ「無始已来謗法罪障消滅」と日夜に御祈願させて頂いております。
知らず知らずのうちに、過去から作って来た罪障を、先ず消滅させて下さいとお願いすることです。これが出発点です。自分の至らなさを懺悔することです。罪根深重の身の上です。良いことが生じた時、御利益を頂いた時には、御法の恵みと感謝するのです。
悪いことが起こった場合には、自分の罪障だと信じて信心の改良に努め、御祈願に専念することです。これが信者の考え方です。自業自得が信心の鉄則です。何事も自分の蒔いた種の結果です。反省改良に努め、弘通に専念させて頂きましょう。
慈悲廣大より