おのれが貴く生きるのには、時代のせいにしたり、環境が悪いとのみ考えたり、他人を罰したりしないで、自分を罰して自省すべきです。たとえば、コンナ地位では手も足も出ない、やりようがないというのは地位を罰しているわけで、それではだめです。どんな地位でも責任もあれば理想もある。
それなのに現在の地位での理想が発見できなければ、いかなる地位になっても理想を見い出すことは困難です。なかにはよい指導者がいない、良友がないという人もいますが、それも未熟な考え方です。
孔子は、「三人行けば必ず我師有り、その善き者を選んで之れに従い、その善からざる者は改む」(論語)この言葉によれば不善の人でも、反省の手本となるのではないかと断言しておられます。師友なしとはいえません。
また、善を行うチャンスがないと、他を罰している人もありますが、自分に善を行う心があれば、いつでも、どこでも徳を積む機会があります。お釈迦様がある時、盲目の一老女が針に糸を通すことができなくて嘆いているのを見て、わざわざ立ち止まって盲女のために糸を通してやりました。善を行う機会は路傍にもあることの一つの証拠です。
このように、貴く生きようとする場合は他を罰してはいけません。他に責任を転嫁して、自分をよしとすることに、ヤッキとなるような人は、「利口ばか」の一種のような気がします。
異体同心の祖訓でも、仏祖のみ心を中心に奉載して、お互いに責任を分け合い、他を罰せず、自己反省を第一としなければ、どうしても口のみの異体同心になって、その良さを発揮する事は出来ないでしょう。
科学技術の急激な進歩、経済力の未曾有な上昇に伴って、反面では精神面のダラシナサが目立ってきた今日、だれでも精神の刷新を口にしないものはありません。思慮分別のある人でしたら、このままでは人類の前途は憂慮に堪えないと思わぬものはありますまい。友情ということを一つ考えても、まったくナッテないと思うでしょう。それで、古人を例にあげて反省の資料に提供してみました。
もう一つ「悪者ばかりで家庭円満」という道話を転載してみる事にいたします。ある村でのできごと、一軒の家は七人暮らしであったが、争いごと一つしないのに、もう一軒の家は三人家族でありながら毎日家内にゴタゴタが絶えず、極めて二軒は対照的でした。
ある日三人家族の主人は、七人家族の家を訪ねて「お前さんの家は家内も大勢なのに、けんか一つした話も聞かないが、どうしてお前さんの家はそう仲良く暮らせるのか一つ教えてもらいたい」といった。
七人家族の主人は「いや、あなたの家には善い人ばかりがおそろいだが、私の家は悪人の寄り合いだからですな」と笑っているので、三人家族の主人は合点がいかず「どうもわかりませんね、七人も悪人がそろっていれば なおさらけんかが募る訳なのに、悪人ばかりだからけんかがないとはどういうことですか」「いやなんでもありませんよ。
例えば、私の家ではだれかが茶碗を蹴飛ばしても、火鉢がひっくり返っても、『私が悪かった』『いやそこへ置いた私が悪かったのだ』と家中のものが悪いものになる競争をするような有様ですからけんかの起こりようがありませんよ。
それをあなたの家では、みんな善い人になろうとして『ここに茶碗を置いたのはだれだ、こんなところに置くからオレがけとばしてしまった』『いやけとばすのはあなたの不注意だ、私は知らない』と、みんなが罪を逃れようとするからけんかの絶え間がないと違いますか」。
こう言われて、三人家族の主人は初めて目が覚めて、なるほどと感心したという話。悪人だと思っているので、人を責める前に自分が悪いのだと思えるのです。善人ぶっている人は、おれは悪くないといううぬぼれがあるので、他が悪いと判断したくなるのです。
門祖日隆聖人は、妙法の信者は「我身大悪人と観念して、ひとえに経力(妙法)にすがるべし」と仰せられた。罪悪深重の身の上だと考えられれば、素直に妙法に信伏随従できるのです。えらがったり、善人ぶると、うまく妙法に溶け込めないのです。