「心愉快なれば終日歩み、憂悶あれば僅か一里にて倦む」と沙翁が言いました。心に喜びがあればきわめて好調子で働けますが、心配事や不平不満があると精が出ません。ですから毎日元気に働こうとするには、必ず愉快にする工夫が必要です。ただ世の中には皮肉なものでなかなか愉快にしてくれない面が多いのです。見るもの聞くものが癪のたねになりがちです。
借金しようとしても思うようには貸してくれません。ついには人を怨みたくなります。褒めてくれないと、自然腹が立ってくるという具合に、不平は起こしやすいのですが、喜び心は起きません。したがってすることに力がこもらずいいかげんにやりますから仕事がうまくまいりません。
信心上でも「聞くことを喜ばざるを嫉となす」とあるように信心を喜ばない心は敵だというのです。信者に喜びのない場合は、本気でご奉公できるわけがありません。骨の折れるご奉公に精進できるのは歓喜の心が充満しているからです。喜びがなくお役目でするご奉公では、つらい目に逢えばたちまち尻込みして、肝心の功徳の積みどころで逃げ腰になりますから、哀れです。喜びのない心は我身の幸福を奪う鬼です。
現証の御利益は喜びの心を起こさせるお慈悲です。正法正師に回りあったご因縁の貴さや値打ちがわかれば喜びは増します。欲を少なくして足ることを知る心になれば、わずかな恩恵にも喜びはわきます。
ある孝子伝に筑前の宗像郡武丸村の孝子正助の逸話が載っていた中に、正助の父母に対する礼儀があまりにも恭しいので、ある人が「お武家のようじゃありませんか」と笑ったところ、正助は真顔になって、「かく賤しきものの親なれば、私の外に腰をかがめる者がありません。それを思うと恭しくせずにはおられません」と答えたという一節がありました。
こういう心がけであれば、ぶつぶつ文句をいうことなどありますまい。一生懸命、御法のためやお寺のため、あるいは信者の教化育成に心がける人々も同様、愚痴や不平は少ないはずです。そして自分が苦労を重ねれば先師上人のご苦心も理解でき、信心の味わい方も深くなり、この難儀な娑婆のご奉公に楽しみがわいてきます。心に喜びがきざしてくれば、それが不景気にも打ち勝つ力となります。
日晨上人要語録より