13日 高祖大士御命日総講 御法門

【御教歌】 惜しまるゝ心にかちて目に見えて
      供養参詣するが折伏

この御教歌の大切なポイントは3つです。

①「惜まるゝ心にかちて」
②「目に見えて供養参詣」
③「するが折伏」

ポイント①「惜まるゝ心にかちて」

 私共は三毒(怒りの心、貪りの心、因果の通りが理解できない心)強盛の凡夫と言われ、欲が深く、自分の欲を元として物事を考えてしまいます。良いと言われることでも、貪りの心に負けてしまい、二の足を踏んでしまうのです。

それは御有志、御布施、御供養、または御講奉修の席主、願主、あるいはお参詣させて頂くときも同様です。「このお金があれば、服が買える、夕食は厚いお肉が食べられる」とか、また、お参詣にきて、「この時間を仕事に使えれば、お金が増える」と考えるのが凡夫です。

 惜しい、欲しいという気持ちを打ち破っていかなければ、いつまでもたっても功徳を積めず、一年、そして一生を終えることになるのです。ですから、思い切ってその欲を離して、お金や時間を御法のために使わせていただき、功徳を積ませていただくことが、今まで自分自身の欲によって作った大きな罪障を消滅させていただく道なのです。

 しかし現実は、なかなか欲を離すことはできず、自分のしたいことをしたい、これがあればなと思うことは仕方がないことで、「私には欲がなく、御奉公だけさせていただきます」と考えているご信者は少ないのではないでしょうか。
では、そうい人は御利益をいただけないのでしょうか。そこで、2番目のポイントを見てみましょう。

ポイント②「目に見えて供養参詣」

 当宗は別名“事相宗(じそうしゅう)”といって、目に見えた姿形に信心を表すことが大事です。心の中で有り難いと思っても、口にお題目を唱えして、お寺参詣や御講参詣させていただかなければ、当宗の信心ではありません。ご信者の中には、お寺参詣を勧めても、「お参詣が大事なことは分かっている。そのうちするから」とおっしゃる方がおります。しかし、そのうちと言っているご信者さんほど、お参詣されないまま人生を終えることになる場合があるのです。

 心ではご信心がありがたいと100遍言っても、一遍お題目をお唱えすることの方がはるかに功徳が大きいのです。心の片隅には「惜しい」という気持ちがあっても、思い切ってさせていただくと、欲を自分の手元から離すことになり、それが功徳になるのです。

 開導日扇聖人は「惜しいなと思っても、御法門で説かれているんだから、思い切って出してみよう、お参詣してみようと実行できたら、惜しい気持は残っているが、欲に勝ったことになり、功徳になるのです」と仰せです。

ポイント③「するが折伏」

 お寺参詣、御有志を大変な中させていただく、それは自分が功徳を積むだけでなく、他のご信者さんへの無言の折伏になります。「折伏は慈悲の最極」、思いやりの中に、お折伏の心が一番尊いのです。

【所感】
惜しい、欲しいの欲は誰にでもあり、日々私共はそれらと戦っています。今回の御法門では、その欲望に打ち勝って、お寺参詣、御講参詣、あるいは御有志させていただいた時にいただける功徳がいかに大きいかを教えていただいております。目先の損得勘定に囚われず、喜び勇んで御奉公させていただくことが大切だと感じました。(文責k.zen)


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