他に迷惑をかけない程度に飲んでいるお酒は無事ですが、家族や、他人にまで迷惑がかかる飲酒は罪が深いといえます。私どもの言葉やふるまいが、あるいは生活のしぶりが、他に迷惑をかける場合も同じ結果が生まれます。
タバコ飲みでも、契煙のエチケットをわきまえないと他に迷惑のかかるときがあります。煙草は酒とは違うと油断はできません。だいたい、他に迷惑をかけて平気でいる人に対して、世間は教養が低いと評価し、本気で相手にしなくなるのが普通です。
お看経のときの拍子木の打ち方でも、隣近所の迷惑をかまわぬようでは、低級な信心と軽蔑されるでしょうし、したがってご弘通にも障りになります。自分は力のこもったお看経ができて気持よいでしょうが、周囲に迷惑がかかっては利己主義になります。
鬼手仏心という言葉をご存知ですか。医師が手術するとき、仏様のような慈愛を患者に対して持てというのが仏心で、いざ手術というときは、苛酷に見えるはど、容赦なくやるのが鬼手という意味、つまり痛いだろうと同情ばかりしていては、手がにぶりますから、鬼手が必要というのです。
折伏も燐みの心が元で、しかも、いざ折伏というときは、うらまれても急所をグサリとえぐり出さねばいけないのと同様です。しかし、鬼手仏心とはいえなるべく鬼手の方を用いずに成功するよう工夫をこらさねば慈悲心がうすいことになります。
最近は手術の研究が進み、麻酔剤などが進歩して、無痛で手術が行なわれるようになってきました。折伏でも怨嫉は覚悟の前と強がりばかりいっていて、喜んで聞いてもらえる工夫を怠り、ワザと敵を求めるやり方は進歩的とは申せません。
お看経の仕方、助行やお講のやり方、拍子木の打ち方など、他に迷惑をかけない工夫をすることが、御法に忠なる信者のつとめです。「通さぬは、通そうための道普請」で、後々の安全をはかるのでしたら、一時の迷惑は辛抱せねばなりませんが、その一時の辛抱も最少限度にくいとめるのが、人間の善意であり努力のしどころです。
宗教でも場合によっては迷信を助長したり、文明の進歩を妨げたり、政治を曲げたりして、人々に迷惑をかけた歴史もないわけではありませんから、信仰だからといい気になって、油断したり、独善になったりして、他に迷惑をかけては相済まぬわけで、もし迷惑をかけている点があったら、適切に処置しなければいけません。
家族のことにしても、お互いに迷惑をかけるようにと努め合うのが大きな力になりますし、信心上の異体同心も、相互に迷惑をかけないと努めるところに成立します。アナタは貸借関係や男女関係で迷惑をかけていないか、後輩の進路を押えたり、所属団体に迷惑をかけていないか、お寺や会社や同僚や親や妻子にはどうか、とくと考えてほしいのです。(k,t)