私は佛立信心二代目です。母は結婚して子供を授かりましたが、初めての子供は生まれて直ぐ亡くなったそうです。そんな時、父が、教化親と成られる方から子供がよく育つからと言われて、その言葉を信じて御本尊様を頂いてきたそうです。
今思うと御不敬は無かったのかなと思い返してしまいます。多分教化親さんと共に見えて母には何も言わずにおまつりさせて頂いたようです。次の日から、父は何もしません。御宝前のお給仕は母まかせ。母は田舎育ちで、敷地内にある神様に子供心にお願い事や、ごめんなさい等、人には言えないことを密かに参っていたようです。
そんな信心のある母は、教化親さんから一週間毎日御宝前のお給仕等、親切に教えて頂きました。お講願主にもさせて頂きました。 この頃は添え講ではなく、各家で毎月お受けしていた様で、よく混ぜご飯を御供養としていた事を聞いています。私も生まれた時に御宝前がありましたので、朝夕のほんのご挨拶程度で、「無始已来」をさせて頂いておりました。
又、子供心に何か御願い事がある時、お懺悔の気持ちをもった時、やはり、御宝前にお祖師様にお話させていただいて信心前をはぐくんで来たと思います。 家の柱御宝前があることは大切な事です。
今、東日本大震災以後、信仰を考える人が多くなったと聞きます。人生25年づつ区切って計画を立てたとすると、今年77歳になる私は最後の25年です。佛立信者らしく寂光参拝をさせて頂きたいと願っておりますが、その後、私にとって初めての試練にぶち当たりました。罪障怨嫉です。今まで、あまり考えたり身に読んだ事はありませんでした。
私は、結婚と共に準宗徒として、御奉公も言われるままにさせて頂き、もう50年になりますが、昨年通信の「慈聞抄」にも書かれておりましたが、言葉の影響、言葉一つでやる気が出たり、無くしたりする。本当の菩薩行を行ずるならば、必ず怨嫉が現れる。生かすも殺すも言葉一つ身にしみて受けました。
これからは、更に良く御法門を聴聞して、幾多の苦難も乗り越える覚悟をして行きなさいとのご慈折と心得て頑張りたいと思います。 近年就活、婚活と言われています。私の様な老人は認知症と体力も衰えてきます。
佛立信者は何時迄も脳活を目指し、お教化に励まさせて頂き、終活は死。これは「臨終を先に習え」と教えて頂いておりますので、化他即自行で一遍でも多く御題目を唱え、唱え死にさせて頂ければ本望です。(H.S)