どなたにも、心に深くきざみ込まれた忘れられぬ言葉があると思います。くやしくて、一生忘れられぬ言葉、その反対に、嬉しくて忘れられぬという場合もあるでしょう。ともかく、嬉しいことや、悲しいことや、苦しいことなど、特別に体験したことは心にしみこんで生々世々忘れずにもち続けていくものです。
人から云われたことで忘れられない場合、その人の名をきくと、反射的に、忘れられない言葉が頭に浮んできます。その人と、その言葉とが一体となって離れない。又、自分が他人に対して、そういう忘れ得ぬ一言をあたえている場合もあるでしょう。
自分では、すっかり忘れてしまって、一向気付かないことを、云われた方は、いつまでも忘れられない。その忘れ得ぬ一言が、その人の為になり生きる支えとなっている場合は、問題ではない。反対に人の心を、悲しませ、苦しませているとしたら、大変な罪をつくつていることになります。
ですから信者の一言は、相手にどんな影響を与えているかを常に反省し用心しながら話されるべきです。いつもよい言葉、建設的な明るい言葉、相手を勇気づけ、ふるい立たせる言葉が巧まずして自然にでてくるようお互いに注意しなくてはなりません。
その稽古が日常会話に於いて、自然と行われるのです。そのためには物の見方、協力してものごとをまとめ上げる温かい心など、を養うことが大切です。
不軽ぼさつは、道行く人毎に合掌礼拝して、〝我深敬汝等、不敢軽慢、所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏〟(私はあなた方を深くお敬い致します。皆さんはお題目を弘通して菩薩行をなされば、皆んな成仏される方々です)の一点張りで、一切の人々の心に狭く印象づけられたのです。私達も、この忘れ得ぬ一言を一切の人々の心に植えつける努力を致しましょう。
昭和45年5月発行 乗泉寺通信より