お祖師さまの「生死一大事血脈抄」にのぺられた、異体同心ということばは、一般の辞典にはあまりつかわれていません。広辞苑とか、新・仏教辞典には見あたりません。とすると、日蓮門下、弟子信者にとっての修行上の約束のことばといってよいでしょう。
わたくしたちの考えや、こころを一つにするという、民主主義的なまとめの約束ではありません。勿論、多数決で決めることを異体同心というのでもありません。高祖日蓮大士の御心に、われわれの心を一致させることをいうのです。私どもの体は、皆、それぞれ個人差があるので、このことを「異なった体」、つまり「異体」というのです。
しかし、体ほ別々であっても、皆ひとしく、お祖師様と同じ心になったところを「同心」というのです。これを組み合わせて、皆んなそれぞれの考えをさておいて、お祖師様の御心と一つになったときを、異休同心というのです。「日蓮と同意ならば、地涌(じゆ)のぼさつたらんか」と仰せられています。
お祖師様の心とは、何かを徹底的に、うけたまわり、勉強し、話し合えば皆、一致するはずです。お祖師様の御心がよくわかっていないから、異体同心が仲々、実現しないのです。
お祖師様の心とは、お祖師様の教えを、私心なく、頂くことです。上行所伝の南○経を、われも唱え他にも唱えさせるという実践をせよというのがお祖師様の心です。このことを具体的に実践するとき、そのやり方には、男と女、若人と老人、都会と田舎、時と場所、さまざまな方法論がうまれてきます。
この点は、人の顔の異なるように、やり方が異ってもよろしい。それは当然のことです。問題はその教を頂いて守り通すという心があれば皆異体同心になれます。
昭和55年7月発行 乗泉寺通信より