さしがね‐折伏の基準‐

大工用の物指しを『さしがね』という。建築関係の仕事をはじめ、一般に物指しは、角方面で使われる必需品である。 

乗泉寺では、教務員の受持区域は毎年交替であるから、信者にとっては、毎年新しい教務員を先生として信行御奉公させて頂くわけで、従って、同じ事に対しても教務員によって、若干教え方がちがう場合もある。信者にとってはどちらの教えによるべきか、その判断に迷う場合もあるらしいが、大体はその年の教務のやり方に随っているという。 

元来、教務員といえども、凡夫であるから、個人差もあるし、受け方の相違もある。しかし、基本的には、仏の教えを、「さしがね」即ち、定規として指導しているのである。人を見る角度が、それぞれ違いがあるので、その人に対する接し方にも若干の相違があってもやむをえないと思う。 

信者が、相互に折伏する場合にもその人の立場や、考え方のちがいがあって、なかなか、完全に一致することは、まれといってよい。しかし、「折伏の基準」はあくまでも、御教歌とか御指南とかを、頂いて、その土俵の中で話し合って、相互に戒め合い、注意することが肝心である。 

現代は、正に、言論結社や評論の過剰な時代といってよい。実にさまざまな考え方がある。一億総評論家の観を呈しているといってよい。少々、自分の方に弱点があっても、俺の方が正しいぞと言い張る人が多いので全く、困ったものだ。 

それだけ、争いごとや、議論ごとが多くて、実に煩わしいことが多い。こんな時代であるからこそ、仏の教えを、『さしがね』とし、『折伏の基準』とすることが大切であろう。私情や我見では、相互の折伏などは、とてもうまくいくものではない。烏滸(おこ)のさたである。 

昭和47年2月 乗泉寺通信より


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