ステーション

東京駅のプラットホームにたっていると、様々な場面が見出される。ハンカチを顔にあてて別離の悲しみに沈んでいる幾組かの人々…あるいは親と子、夫と妻、兄と弟。この様な悲劇が毎夜このプラットホームで繰返されているかと思うと、そぞろに人生の無常を感じさせらる。

しかし又その反面に、喜色満面にたたえ、威気揚々、万歳裡(ばんざいり)に送られて行く人々もある。…野球の選手か、栄転の社員か、中には静かにして光栄に満ちた新婚旅行のシーンもある。これ等の場面を見ていると関係のない自分までもが愉快になってくる。前者の場合には沈静や同情が、後者に於いては興奮や羨望が湧き出てくる。実にステーションは人生の縮図といってよかろう。

かくの如き悲劇喜劇は単にそれらの人々の上にのみ起ることであろうか、否そうではない。皆我々に対するよき教訓であり、且、深く反省すべきよき機会である。
我々の人生航路は何時も波静かな時ばかりでない。種々なる転変がある…即ち失敗、病気、災難等の悲境に遭遇する。

しかし人生はそんな悲痛なことばかりではない。宛も同一のステーションに於て同時に悲事喜事が現わされている如く、…健康・幸福・成功等の楽しみが織込まれるものである。以上の如き喜びと悲しみの交錯した人間生活に於て、一般の人はどうであろう。成功したと云っては無闇に調子にのり色や酒の方向に脱線する。あるいは又悲しい苦しいと云っては貴い命をムザムザ捨てる様な浅はかなことをする。よかれあしかれ何れにしても常軋を逸し易いのが人間である。これらは何に原因することであろうか。

それは世間の人々がその生活の中心土台となるべき信仰を握って居らないことによるものである、即ち中心がない故に苦楽共にその指針を失ってしまうのである。されば真の信仰が人間の心に植付けられた時、始めて完全な固定した生活が開けて行くのである。正しい教え、熱ある信仰、それは当宗以外には見出すことは出来ない。

当宗の信者達は、悲しい時には南無妙法蓮華経、嬉しいことにも南無妙法蓮華経、よきにつけあしきにつけお題目で一貫して行くそしてすべての解決を妙法経力にまかせ、その綱を離さずに進んで行く。アヽその姿や、実に歓喜そのもの、幸福そのものである。

世間の人々はあたかも杖のない目の不自由な人の如く苦楽の巷にさまよっている。当宗の信者はお題目の杖にすがり、心強く開仏知見の生活に入って行く。
我々は此の身上の幸いを喜ぶと共に、真の信仰を知らぬ気の毒な人をあまねくお救いすべく、教化折伏に精励しなければならない。

御妙判に「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽共に思い合せて、南無妙法蓮華経と唱へ給へ。是豈真(あにしん)の自受法楽に非ずや。」

昭和5年発行 「二陣」より


開門参詣でいただいたご利益

私の同居している姉次女が頂いたご利益です。次女は平成19年に東久留米市の大腸検査を受けました。その時、肺にガンが見つかりました。すぐに入院して詳しい検査をした所、「あと3ヶ月か3年か分からない」と病院の先生に言われ、不安な気持ちをかかえたまま治療を受けることにしました。

同じく同居していた一番上の姉は寝たきり。私はC型肝炎と両足を手術し歩くこともままならない状態でした。そんな時の次女のガン発見で、お先真っ暗になりました。ガンが見つかってすぐ治療をスタートし、一番最初は抗癌剤、少し日にちをあけて放射線と苦しい治療の副作用で髪も抜け落ち、本人も辛い治療が続きました。

そんな次女の治療の最中に一番上の姉が亡くなり、私が信心を引き継ぎました。平成21年1月に入信し、「今の不安から何とか抜け出したい」「次女が居なくなってしまえば私一人になってしまう」という心細さから、「次女のガンが無くなります様に・・・」との想いを込めて朝参詣(開門参詣)をさせていただくことにしました。東久留米の坂の下から歩いてのお参詣ですので、足を手術して曲がらない私にとって、最初の内は大変辛いお参詣でした。雨や風の強い日は片道40分かかったこともあります。

ですが、次女や、周りの人たちのささえで、今でもお参詣は続けさせていただいております。おかげ様で、次女のガンは平成21年夏頃から薄くなり始め、平成22年2月の検査で、「肺ガンは消えている」と言われ、先生もビックリされていました。

朝参詣と、毎日かかさずのお看経、体の中はお供水と、御法様にこちらから近づいてお願いすれば必ずご利益はいただけるのだと確信させていただきました。まだまだ未熟者ではありますが、私の体が続く限り御奉公と朝参詣を続けさせていただきます。(A.K)

平成22年11月発行 乗泉寺通信より


お彼岸の月

お墓参り3月に入りました。今月はお彼岸の月です。
この行事は、日本独自のもので、鎌倉時代以降盛んになったということです。ご先祖や有縁無縁の人を思ってお墓参りをすることは、大変素晴らしいことだと思います。

春のお彼岸の期間は、毎年3月の春分の日をはさんで前後3日合計7日間です。今年でいえば彼岸入りが3月18日、お中日は3月21日(春分の日)、彼岸明けは3月24日となります。

佛立宗では常盆常彼岸で毎日ご回向に勤めておりますが、お彼岸には改めてきめの細かいご回向を志し、御題目口唱でご回向させていただきましょう。


新宗教の台頭について

映画に出てくる牧師をみても、少しも変には思わないが、坊さんが現れると、きまって観衆は笑う。だいいち僧侶の服装がひどく道化た感じがするし、一般の生活と遊離した存在という感がふかい。 

家に不幸があったり墓参りのときしか交渉がないのだから無理もないが、そういう地位におし込めてしまったのは民衆ではなかったか?もとより僧侶の無気力がいちばんの原因には違いないが、だからといって仏教そのものを否定する事は見当外れである。 

仏教文化より流れ出た思想風俗等はいつか生活の中に溶け込んで、知らず識らずその恩恵に浴していることを思えば、仏教自体はたしかに末法万年の外未来までも流通するものでなくてはならぬ。 

ただ僧侶というアナクロニズムの存在はこの場合、十年一日の如くであるとすれば無用であるといえよう。こんにちより将来へかけて在家仏教という形で正しい宗教が立ち上がらねば、ふたたび置物の如く、凡そ生命力のないままその存在価値すら喪失してしまうに相違ない。 

しかしながら、もし在家仏教が直に実現すべき社会的基盤が脆弱であるというなら、僧侶は僧侶のままであってよろしい。しかしもっと積極的に近代の教養を身に付けて、精神生活指導者たる自覚と責任の下に、密接な日常生活面との接点を見きわめ、敢然民衆の中へ跳り込んでゆかねばならぬ。 

人界示同が菩薩の変用であるならば、民衆の生活に深く入って、人生行路の強力(ごうりき)的役割を果たす行動力がなければならぬ。かくしてその馬鹿げた遊離的生活を強い自覚を以て脱出し、民衆に示同し果敢な活動を展開せよ。 

民衆は又、寄生虫の如き道化師の如き僧侶を放逐せよ。いつもより伴侶たり、常によき師である指導者が現れる温床の用意こそ、新宗教台頭の前提でなくてはならぬ。 

昭和22年発行 「二陣」より