新宗教の台頭について

映画に出てくる牧師をみても、少しも変には思わないが、坊さんが現れると、きまって観衆は笑う。だいいち僧侶の服装がひどく道化た感じがするし、一般の生活と遊離した存在という感がふかい。 

家に不幸があったり墓参りのときしか交渉がないのだから無理もないが、そういう地位におし込めてしまったのは民衆ではなかったか?もとより僧侶の無気力がいちばんの原因には違いないが、だからといって仏教そのものを否定する事は見当外れである。 

仏教文化より流れ出た思想風俗等はいつか生活の中に溶け込んで、知らず識らずその恩恵に浴していることを思えば、仏教自体はたしかに末法万年の外未来までも流通するものでなくてはならぬ。 

ただ僧侶というアナクロニズムの存在はこの場合、十年一日の如くであるとすれば無用であるといえよう。こんにちより将来へかけて在家仏教という形で正しい宗教が立ち上がらねば、ふたたび置物の如く、凡そ生命力のないままその存在価値すら喪失してしまうに相違ない。 

しかしながら、もし在家仏教が直に実現すべき社会的基盤が脆弱であるというなら、僧侶は僧侶のままであってよろしい。しかしもっと積極的に近代の教養を身に付けて、精神生活指導者たる自覚と責任の下に、密接な日常生活面との接点を見きわめ、敢然民衆の中へ跳り込んでゆかねばならぬ。 

人界示同が菩薩の変用であるならば、民衆の生活に深く入って、人生行路の強力(ごうりき)的役割を果たす行動力がなければならぬ。かくしてその馬鹿げた遊離的生活を強い自覚を以て脱出し、民衆に示同し果敢な活動を展開せよ。 

民衆は又、寄生虫の如き道化師の如き僧侶を放逐せよ。いつもより伴侶たり、常によき師である指導者が現れる温床の用意こそ、新宗教台頭の前提でなくてはならぬ。 

昭和22年発行 「二陣」より


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