仏教とは仏の教えなり。読んで字の通りである。然らば仏とは何ぞや、仏は(ホトケ)で一切を解脱した事である、即ち宇宙の真理を諦観しこれに契合し一如したるもの言葉を換えれば、宇宙大真理の大勢力を発現せんが為に、中心的霊の人格化したるものを云う、通俗的にいえば、仏とは宇宙万象の実相実体を窮盡(きゅうじん)し、三世因果の道理を朗然大悟し、主師親の三徳を具備されたるものをいうのである。
されば仏は慈悲の究竟なり、智慧の窮極なり故に円満なり、又大自在である、真である、善である、また美の光明である。此の如き仏に依って教えられたるものが即ち仏教で、文字として顕れたのが、八千余巻の経典である、修行方面から八宗九宗の宗門が出来、印度から支那、支那から日本へと伝来して、法燈ここに三千年。尊い哉。
仏陀五十年の説法、これを化導方面の上から区分して、権教実教となす、権教とは仮の教え即ち方便教で、相手方の思想程度、理智の如何を察し、これに順応して、教え来たりたるものを云うのである。故にこれを随他意教とも云う。此の説法四十二年間である。実教とは真実教で、即ち仏陀内證悟道の全体を有りのままに、他に構わず説き明かした教えを云うのである。そこでこれを随自意教とも云う、此の説法八年間である。かくて此の権の教え、実の教えに立脚して建てられたのが八宗九宗の多となり、各々妍を競い美を争い、ついに一大仏教を形造ったのである。
仏教と云えば仏の金言に絶対よらなければならない。万一これに違背するものが有りとすれば、それは邪教であり、また邪宗である。仏陀は四十二年の説法を終わり、いよいよそれが本覚の真諦たる妙法蓮華経を説かんとして先ず無量義教を以て、権と実との批判をつけられたのである。経文に以方便力四十余年未顕真実とあるのはこれである。今まで説いたのは仮の教えで、衆生の機根に応じた方便教で有って、究竟の理に達することは出来ず、無論無上菩提を成ずることはむずかしい、已今当三説超過の妙法蓮華経、これぞ即ち一切衆生成仏得脱の真実教であると厳訓されたのである。
大正15年発行 「二陣」より