人間の暮らしは、もちつ、もたれつというのが原則です。どんなにエライ人でも、自力だけでは暮らせません。多くの人や、物のおかげに依存して生きているのですから、社会という立場から見れば、みんな細胞で、全体に対して自分の役目を果たさなければ、生存を許されません。従って他との協力方法が下手だと、ヒドイ目にあいます。
人体にとって有害なものは排除され、大切なものは外に出ないように守られます。血液は大切ですから、誤って出血しても、直ぐに固まって切り口をふさごうとします。同様、社会でも有害な人は、刑務所に入れて害毒を及ぼさぬように、社会から締め出されますし、そこまでいかないまでも、人が嫌がって目に見えない垣をされ、警戒されます。有害でもなく、有益でもない人は、排斥もされないが歓迎もされません。有益で、いてくれなければ困るという人は、人から歓迎されて、多忙な日々を送り、生活にも困らぬでしょう。
では、有益な人とはどういう人でしょうか?会社を例にとれば、会社が発展する図星を心得て、それに役立つ働きを、自己の立場に応じてやる人が大事にされ、見当違いの力の入れ方をする人は喜ばれません。むろん、発展を阻害する人は嫌われ、時には首になるでしょう。ですから、ただ働いていれば、何とかなるというネボケタやり方はだめで、要点を正確に把握し、それに協力する事が肝要です。
信心上のご奉公でも、たとえば、総助行運動開始という時に、ご奉公の要点をまずつかみ、それを達成する良法を考え、その上で骨惜しみをしない行動が大事です。つまり前期と後期の中間に行われる助行運動という性格だけを考えても、今回は、この点に重点を置かねばならぬということがわかるはずでしょうし、運動の趣意書をよく読めば、どこにねらいがあるかわかります。
当宗で最も強調する「信の一字」ということでも、ただ疑いなく、素直に聞くことだという一般の解釈だけでは満足できません。仏の意をくみ取って、特に力の入った点を間違いなく信受する事に努めるのです。その仏の本心に即応する努力をしないで、単に仏説を信じても、方便や、随他意の仏説では、仏の真意を信ずる事になりませんから、当宗の信心ではありません。
それで、当宗の信者は、いつでも仏祖の根本の心にかなっているや否やを反省しつつ、信行を進める事が大事です。もろもろのご奉公も、生活建直し運動も、一番大事な心構えは、根本精神に即応して行動するケイコをしているという事です。どうしても、手前勝手な考え方が前面に出てきて、根本の心が行方不明になりがちです。「信の一字」についても、当宗流の解釈を持って如説修行をしてほしいものです。