人間には長所と短所の二面があり、長所はこの点、短所はかくかくだとわかって、長所をのばし短所を抑える生き方ができれば最高です。ですから人間は長所と短所を知る必要があるのですが、なかなか簡単にはまいらぬ問題で困るのです。
昔の哲人が「汝自身を知れ」といわれた。自身を知るということは長所と短所を知ることだと解釈すると、その意味が多少分かる様な気がしますが、何が長所でどこが短所かと考え始めると、長所と短所が入り混じったりして、まったく戸惑うのみです。
仏教には一心に十界が具足すると説かれています。十界とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界で、人間を中心にして悪と善との等級を定めた様なものですが、畜生界や人間界は、私達の目にもわかりますが、地獄界とか餓鬼界、修羅界とか天上界などは私どもの目には見えないので、そういう世界のあることを信じられない人もありますが、人間の心に十界の持つ性質が潜在している事は分かるはずで、その点を日蓮聖人は観心本尊抄という御指南書にさらにそれぞれの各界が互いに十界の性質を具し合っている事を詳説されています。
それを専門語では十界互具と申します。人間の心に地獄界から仏界に至る善悪が具足している事、すなわち長所や短所を十界という角度から仏教でも考えている事を申したいのであります。
そこで、その長所をのばす方法を考えねばなりません。信仰は、そういう問題の解決に役立つためのもので、ここでは長所をのばす要件のニ、三を探ってみたいと思います。
昔から世間は私どもの心の鏡だといいますが、まったくその通りで、社会の出来事の一つ一つが、私どもの心の反映していないものは一つもありません。泥棒や殺人事件の新聞記事などを読むとその連中を人間の屑の様に思いますが、さて自分の心を見つめると、泥棒根性もありますし、腹でも立つとあんな奴殺してしまえという殺人犯人同様の心が起きないとはいえません。
したがって自分の短所も長所も全部反映していて、見つめ方さえ上手なら、自分の短所も長所も世間の万象でわかるのです。ただ、うぬぼれとか、ごまかしとか、よくいわれたいという凡情が強いと、人のふりを見ても俺にはあんな心はないとか自己弁護をして体裁をつくるのです。それでは短所を抑える事も、長所をのばす事もできなくなるので、信仰の道では、やわらかい心、素直な心が大事で、それが長所をのばす一つのポイントです。
次に長所の見分け方を練習しないと、見当違いをする事が往々に起こるものでその点を深慮してほしいのです。小事でも目標を立てそれに到達すれば成功ですが、そういう成功には気がつかず、華々しいものでないと成功と考えたがらぬものです。
肩書きや地位も今の世の中では必要ではありますが、それよりも心の構え方「親切である」とか「公平である」とかいう仏教の菩薩心とか仏心に通ずる心を養って、心を豊かにすることの方が、長い目で見るとずっと大事なのです。
大志をいだく事も結構ですが、千里の道も一歩からで、足モトを忘れぬよう、その日その日の目標達成の意義を心得て、積功累徳に努めているや否や、重役になる前によき夫よき妻である事に心を配ったり、一社員として成功する事が先決だと考えているかどうか、要は、長所を見い出す事に力を入れ、アラ探しに興味を持つ様な悪趣味を超越する様願いたいのです。