朝、めざめてから夜、床につくまで、まとまった時間が、私用のためには、全くない。地方出張か、病気で、休む以外には一時間、じっとして本を読むことも出来ない。そのかはり、小さな時間が、沢山ある。「入浴中」「用便中」「床についてから」「お講席から帰寺するまでの車中の時間」「待っている間」等である。
一日二十四時間は、平等に与えられているのであるから、この小さな時間を、うまく活用するより外に、雑用を処理する方法がない。そこで、私は、小さな時間に、ふさわしい、小さな仕事をあてがって、大きな時間を、つくりだす工夫をしている。
たとえば、入浴中などは、携帯ラジオをききながら入る。それでニュースや、教養番組などをきいて、活用する。車中で、簡単な手紙の原稿や、ハガキなどをかく。そういう具体的な作業のできにくい時間、例えば、人を待っている間などは、あるテーマについて、考えをめぐらしてまとめたものはメモをしておく。
ともかく工夫すれば、相当まとまった時間ができるものである。この時間を、朝夕のお看経の時間にあてることができたら、諸願成就、疑いなしと確信している。
さいきんは、あまり世の中が、せわしくなったので、ろくろく、お看経もできませんという声をきく。商売、おつきあい、趣味道楽の為の時間を優先的に使用していては、全くお看経が、できなくなってしまう。
お看経の時間がつくれないようでは、現当二世の諸願を成就することは勿論、落第である。成仏の法は、口唱の時間をつくり出すことより外にはない。これが信者の基本的な心構えである。ゆめゆめ忘れ給うことなかれ。
昭和53年10月発行 乗泉寺通信より