日晨上人について

日晨上人日晨上人は、明治三十二年(1899)十月二十六日、東京府麻布区竜土町(りゅうどちょう)でご誕生、佛立第四世講有日教上人より「清長」(せいちょう)と命名されました。

東京府立一中在学中、十六歳で乗泉寺において日歓上人のご剃髪(ていはつ)をいただきました。大正十年より受持ご奉公を拝命し、同十二年には早くもその資質を認められて副導師に任命され、恩師・日歓(にちかん)上人のご息女「愛子様」と結婚され、同年十一月十二日弱冠二十五歳にして、乗泉寺第十九世の法灯を継承遊ばされました。

昭和二年五月、住職として麻布乗泉寺の開筵式、同四年十月には世田谷別院の開堂式を挙行する等、乗泉寺の寺観を整える一方、教勢の拡大、弟子の教育に類を見ない程の充実ぶりを示し、都内全域は言うに及ばず、そのご弘通は東海道から信越・東北と及び、遠く北海道にまで教線は浸透していきました。

その間、昭和九年には佛立講の教務長に就任され、昭和十一年四月、恩師・日歓上人の佛立第八世講有位進達式をご奉公されて、昭和十三年七月に本門佛立講副講有に就任されたのです。そして同十一月には昇進して「信照院日晨」と号されました。

やがて太平洋戦争も熾烈を極めた昭和十九年五月三十日、恩師・日歓上人のご遷化にあわれ、翌二十年五月二十五日には、乗泉寺本堂の戦災という悲運にも見舞われました。しかし逆境を克服され、二十一年に早くも復興、開筵式を挙行されました。

一方、宗門の一宗独立にも尽力され、ついに昭和二十二年三月、本門彿立宗は法華宗より分離独立を果たしたのでした。一宗独立後、日晨上人は初の宗務総長に就任され、権大僧正に昇晋されました。

昭和二十五年五月、日晨上人は英断をもって旧地麻布から渋谷鴬谷に乗泉寺を移され、仮本堂の開筵式を挙行されました。昭和三十年にはご内室愛子様の急逝という悲しみにあわれましたが、この時、日晨上人は宗門の中枢にあって、宗制改正の大事業を完了されたのでした。

やがて昭和三十年の開講百年のご奉公を経て、昭和三十二年に「山内麗子 (やまのうちよしこ) 様」 と再婚されました。宗門はますます上人の行政手腕に期待を託し、昭和三十三年本宗参議、昭和三十五年に再び宗務総長に就任され、更に三十七年には日颯上人ご遷化により、講育代務者を拝命されました。

そして同年十月には、本宗第十五世講有位を継承遊ばされたのであります。講有ご在位中における業績は、ブラジル弘通を初め、枚挙 (まいきょ) にいとまがありません。又、和光学園育ての親としても、「泉の光」 の著名人との対話を通じても、対社会的貢献度は計り知れないものがありました。

昭和四十一年に講尊となられてからも、「佛立信心像」 「ある角度から」それに「宗風の考え方」等、多<の著述(ちょじゅつ)を残され、弟子信徒の薫育にも意をそそがれて、佛立第十七世講有石同日養上人、佛立第廿二世講有井上日慶(にちけい)上人をはじめ、幾多の人材を育てられました。

昭和五十年乗泉寺住職ご退任後も、高祖七百回御遠諱・新宗制の制定等、為すことをすべて果たされて、昭和五十九年八月三十一日、弟子信徒の晨朝勤行の中、ご遷化遊ばされたのであります。

日晨上人のご門下に加えていただけた私共一同の果報、これに過ぎるものはございません。明日は、世田谷別院に於いて日晨上人祥月御命日総講が奉修されます。日晨上人のお残し下されたお徳をお偲びして教講一同さらなるご弘通ご奉公に励ませていただきましょう。


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